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アダムとイヴが追われた楽園(エデン)に唯一、残ったのがロボット姿の二人組ダフトパンクである。
そう考えれば、無理もないことか。一時でも同じ夢を見れたのなら良かったではないか。パーティーはいつか終わるものだ。
だがそうとはわかっていても、ミア・ハンセン=ラヴ監督による本作『EDEN』は楽園を追われた者たちの喪失を捉え、心を深く抉る。
1990年代初頭、フランスではエレクトロミュージックのムーヴメント“フレンチタッチ”が芽吹きだした。まだ何者になるとも知れぬ若者ポールが、パーティ後に「あのフルートの曲は何?」とリクエストするシーンがいい。ひとしきり特徴を聞いたDJは「ああ、あれか」とおもむろにレコードを回す。意味もなく夜を明かし、新しい人生の朝が来たのだと熱烈に錯覚した季節がある人なら、このポールの“目覚め”は心にピタリとフィットするハズだ。
この時代のクラブはその空間自体が魔術的だったのだろうか。オープニングの潜水艦、ブルーにライトアップされたトンネル…その楽園的な光景は語り手によって過度に美化されたものであり、人生を賭けてしまうに足る夢見心地である(一方で映画が現在に近づくにつれ、クラブ空間そのものは味気なくなっていく)。
シーンでポールは人気DJとなっていく。だが、どの業界にもいるのだろう。食えない程度にしか売れない。ツアーもやった。大物も呼んだ。招待リストには素顔のダフトパンクを呼んでやれた(この天丼ギャグはすごく可笑しい)。でも借金とドラッグで身を持ち崩した(若いうちは持ち崩している事にすら気付けない)。たまらなくキュートでピュアなポーリーヌ・エチエンヌ扮する恋人の存在は、ひょっとしたらポールが知らないうちに失くす事になる“エデンへの永住権”だったのかも知れない。
人生の挫折は必ずしもドラマチックではない。金が底を尽いた。女が去った。オーバードーズで倒れた。静かに、慎ましやかに新しい人生が始まる。ポールが季節の終焉を悟るラストシーンの静謐さは、夢破れた者達の心をそっと包んでいくだろう。
そう考えれば、無理もないことか。一時でも同じ夢を見れたのなら良かったではないか。パーティーはいつか終わるものだ。
だがそうとはわかっていても、ミア・ハンセン=ラヴ監督による本作『EDEN』は楽園を追われた者たちの喪失を捉え、心を深く抉る。
1990年代初頭、フランスではエレクトロミュージックのムーヴメント“フレンチタッチ”が芽吹きだした。まだ何者になるとも知れぬ若者ポールが、パーティ後に「あのフルートの曲は何?」とリクエストするシーンがいい。ひとしきり特徴を聞いたDJは「ああ、あれか」とおもむろにレコードを回す。意味もなく夜を明かし、新しい人生の朝が来たのだと熱烈に錯覚した季節がある人なら、このポールの“目覚め”は心にピタリとフィットするハズだ。
この時代のクラブはその空間自体が魔術的だったのだろうか。オープニングの潜水艦、ブルーにライトアップされたトンネル…その楽園的な光景は語り手によって過度に美化されたものであり、人生を賭けてしまうに足る夢見心地である(一方で映画が現在に近づくにつれ、クラブ空間そのものは味気なくなっていく)。
シーンでポールは人気DJとなっていく。だが、どの業界にもいるのだろう。食えない程度にしか売れない。ツアーもやった。大物も呼んだ。招待リストには素顔のダフトパンクを呼んでやれた(この天丼ギャグはすごく可笑しい)。でも借金とドラッグで身を持ち崩した(若いうちは持ち崩している事にすら気付けない)。たまらなくキュートでピュアなポーリーヌ・エチエンヌ扮する恋人の存在は、ひょっとしたらポールが知らないうちに失くす事になる“エデンへの永住権”だったのかも知れない。
人生の挫折は必ずしもドラマチックではない。金が底を尽いた。女が去った。オーバードーズで倒れた。静かに、慎ましやかに新しい人生が始まる。ポールが季節の終焉を悟るラストシーンの静謐さは、夢破れた者達の心をそっと包んでいくだろう。
『EDEN』14・仏
監督 ミア・ハンセン=ラヴ
出演 フェリックス・ド・ジヴリ、ポーリーヌ・エチエンヌ
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