かねてより企画されてきたエルヴィス・プレスリーの伝記映画『エルヴィス』は、然るべきタイミングに登場したことでこの偉大なミュージシャンを再定義することに成功している(パンデミックがなければあと2年は早くリリースされてより時宜を得たかもしれない)。貧困ゆえに黒人居住区で育ったプレスリーは、そこでブルースやゴスペルといった黒人音楽と出会い、ロックンロールを生み出していく。惜しくも打ち切りとなったNetflixのTVシリーズ『ゲットダウン』でヒップホップの黎明を描いたバズ・ラーマン監督にとって、本作は“アメリカ音楽クロニクル”の1本であり、老成とは無縁の過剰で狂騒的な演出はプレスリーが文字通り黒人音楽の“啓示”を受ける場面でしばしば批判されてきた文化の盗用ではなく、黒人文化への傾倒と解釈されている。エルヴィスは2つの人種、文化を結合したアメリカンポップカルチャー史上における重要人物なのだ(晩年の仕事となったラスヴェガスでの興行スタイルはパンデミック以前からセリーヌ・ディオンや近年ではアデルが行っており、ワールドツアーをやらないビジネスモデルの先駆けともなった)。
ラーマンはそんなエルヴィスを評人する上で、その生涯をダイジェスト的に語るようなことはせず、エルヴィスのマネージャーであり、彼の収入の50パーセントを搾取していたというトム・パーカー大佐を語り部に据えることで題材との距離を保った。名前は偽名、大佐も自称というこの山師同然の男はサーカスの興行師に過ぎず、地方でエルヴィスの才能を見抜くやマネージメントを買って出たのだ。“アメリカの父”を体現してきたトム・ハンクスがここではファットスーツに身を包み、醜悪な金の亡者を怪演。そんなパーカー大佐も、後に伝説として語られるライヴに立ち会えばその目にはいつも涙が滲んでいる。彼もまたエルヴィスという偉大な才能に心酔し、平伏した1人であり、その有害な父性がエルヴィスをショービジネスの資本主義に晒し、死に追いやったのだ。『アマデウス』のサリエリをも彷彿とさせるハンクスは、まさに名優たる作品選択眼である。
そして兎にも角にもエルヴィス・プレスリーを甦らせることのできる俳優なしには、この映画は生まれ得なかった。新星オースティン・バトラーはメンフィスでギターを抱えた可愛らしい坊やの姿から、右肩上がりでスターの座へと昇り詰めるエルヴィスの輝きを捉え、それは本作におけるバトラー自身のブレイクスルーとも重なる。ステージパフォーマンスの徹底再現はもちろんのこと、エルヴィスが持ち得ていたであろうカリスマ性をも甦らせ、過労とドラッグ中毒でボロボロになってしまう終幕の壮絶は涙なしでは見られない。今年のアカデミー主演男優賞レース1番乗りは間違いなく、ノミネートは固いだろう(助演ハンクスとのW候補があり得る)。新作はドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『DUNE』第2弾で、デヴィッド・リンチ版ではスティングが演じた悪役フェイド・ラウサに扮する。シャラメとの対決が楽しみだ。
全米では興行収入1億ドルを突破する大ヒットを記録し、根強いエルヴィス人気を証明した。彼が渡ることの叶わなかった遠い島国の非プレスリー世代である僕にもその偉大さは伝わり、中でも“If I Can Dream”の素晴らしさに劇場を出た後も口ずさんでしまうのだった。
『エルヴィス』22・米
監督 バズ・ラーマン
出演 オースティン・バトラー、トム・ハンクス、オリビア・デヨング、ケルヴィン・ハリソン・Jr.
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