例年なら、阪神淡路大震災関連のブログ記事は、1月17日だけ書いていました。
ねこ吉もだんだん語彙が減り、文章力も失くし、ブログの文章も書けなくなって、いつまで続けられるか判りません。
今年は、震災後という30年という節目もあって、今まで心の奥でくすぶり続けている思いを書いておこうと思います。
去年も書くことを思い悩み、何度も書き直したんです。でも、記事をアップできませんでした。
30年前、未曽有の大地震に遭い、マンションは潰れ、一時たぬ吉の実家に避難していました。
親類、知人に、一家の無事を知らせようにも、電話はほとんどつながりませんでした。
たぬ吉は、当時神戸新聞とデイリースポーツに兼務。三宮にあった神戸新聞ビルは全壊。
京都の叔父が、ねこ吉一家を心配して電話をかけまくって、大阪のデイリースポーツに電話をして、やっと「ねこ吉一家が生きている。」ということを確認して、親戚に無事を知らせてくれたらしい。
ねこ吉一家の無事を聞いて、叔父が泣いてくれたと後日聞き、ねこ吉はとても嬉しかったです。
叔父は、一昨年105歳の生涯を終えました。
その叔父の娘、鎌倉に住む従姉は、震災後1月17日に毎年電話をくれます。
嬉しいです。
今年は、手紙と共に鎌倉のお菓子を送ってくれました。
手紙には、「父が生きていたら、『よく頑張っているなぁ。』と褒めたと思います。父の代わりに、お手紙書いてます。」と書いてありました。
有難うございます。嬉しくて涙が出ました。
今年は、鎌倉の従姉の妹、橿原に住む従妹からも、メールをもらいました。
震災後、何度も電話をしてくれたらしいのですが全然繋がらなかったので、勤めていた会社の社長が、当時珍しかった携帯電話を貸してくれて、それで電話をかけたら、避難先の甲子園から、壊れたマンションに片づけにたまたま帰ってきたねこ吉と電話が繋がり、ねこ吉の声を聞いて安心したと書いてありました。
30年前は、ネットもスマホも無いし、携帯電話を持っている人はマレだったんです。
神戸に電話が繋がるようになるのには凄い時間がかかったのです。
親戚中に、京都の叔父が知らせてくれたので、当然ねこ吉の実母もねこ吉一家の無事は知っていました。
電話が繋がるようになって、多くの親戚、知人からお見舞いの電話をもらいました。
しかし、実母は一度も電話をくれませんでした。
親戚の葬儀で、2度会うことがあったけど、こちらから挨拶をしても、プイと横を向いたままでした。無視されたんです。
ねこ吉は、思いがけず生まれた双子で、8カ月の時に伯母の家に養女に出されました。
ねこ吉は、産んでくれと頼んでませんよ。
何か悪いことしましたか!何もしてませんよ。
以来、会うこともなく2020年4月に実母は亡くなりました。
「無事でよかったね。」その一言が欲しかったです。
「実母にとって、ねこ吉は思いがけず生まれてきた邪魔者だったんだ。存在自体が疎ましかったんだ。」
毎年、震災記念日と共に思い出すのです。その思いを再確認させられるんです。
そんな嫌な母親のDNAを受け継いでいることが、凄く悲しいんです。