透水の 『俳句ワールド』

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日野草城の一句鑑賞(一)   高橋透水

2013年12月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
春の夜や女は持たぬのどぼとけ   草城

 初出は大正十一年七月号の「ホトトギス」雑詠で〈春灯や女は持たぬ咽喉佛〉の形で発表された。同時に〈人妻となりて暮春の欅かな〉がある。掲句はどちらかと言うと〈春の灯や女は持たぬのどぼとけ〉(句集『花氷』)の形で知られているが、いずれにせよ若くして女性美を詠い、当時のホトトギスの作家とは異質であった。
 草城は明治三十四年東京市下谷区(現台東区)生れ。十六歳頃に句作開始、十七歳にして「ホトトギス」雑詠に一句入選し、早くも天才の片鱗を示している。大正九年九月に「京大三高俳句会」を創め、同十一月には鈴鹿野風呂らと『京鹿子』を創刊している。
 昭和六年に草城は甲川政江(後の晏子)と結婚しているが、大正十年頃に佐藤愛子と相思相愛になり婚約までしている。しかし翌年、愛子の病気を理由に婚約は解消された。鑑賞句はそれより以前の作であるが、草城は女性に人気があり、また女に持てていた。しかし女性との関係を直接句にしないで、想像の世界を織り込むことを得意とした。草城の俳句にはフィクションが濃厚であり、物語性がある。それもそのはずで、俳句を始めた頃、蕪村の〈お手討の夫婦なりしを更衣〉の句に接し突然眼が覚めたような驚きを持ったという。
 さて〈春の夜や〉と〈春の灯〉の違いはどうかという議論を見てみたい。当然のこと女は喉仏を持たない。(あっても目立たない)。〈春の灯や〉にすると灯に映し出される喉の美しさが強調されるが、女の居場所が限定される。かと言って〈春の夜や〉では、喉仏の陰影がはっきりせず美の強調が半減してしまう。その代り作者と女の距離間は短くなり、ドラマ性が現れる。
 ただ、この句から草城と女の接触はなかったと思われる。と言うのは、草城が極端に潔癖症であったことから、女性の美に憧れ、女性からも好かれる性格の持ち主だが、反面異性との接触は慎重だったからだ。花柳病や伝染病には異常なほどの反応を示したという。

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沢木欣一の一句鑑賞(三)    高橋透水

2013年12月19日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
夕月夜乙女の歯の波寄する    欣一
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 乙女は沖縄の言葉では【みやらび】と読む。名護の海岸での句で、昭和四十九年『沖縄吟遊集』に収録された。欣一は復帰前の沖縄に赴き、約四十日間滞在して沖縄各地の名所旧跡や行事を見物した。句集を出すまで五年を要した労作である。
 自解によれば、「海の白波は乙女の歯にたぐえられ、美人の形容になっている。健康な美的感覚。沖縄の月は明るい。月下の波の穂の鮮やかな白さ」とある。同収録に〈鎮魂へなぎさを素足にて歩み〉〈月光に魚泳ぐ見ゆ盆の海〉などがある。『沖縄吟遊集』は沖縄戦で亡くなった多くの沖縄の人々への鎮魂歌であり、また幾多の修羅場を潜り、戦い続けた人達への感銘と賛美でもあろう。
 『沢木欣一の世界』山田春生著より概略を引用すると、
「昭和四十三年七月下旬より約一ヶ月間、沖縄夏季認定講習会の講師として文部省より派遣され、沖縄本島に滞在した。(中略)余暇を利用して本島の風物に触れることが出来た。本句集は、その間の印象を素材にしたものである。短い期間であったが、種々の沖縄は日本の縮図であり、故郷であるという念を強く抱いた。」
と述べ、また欣一の「沖縄には歴史的には日本文化の源流みたいなところもあるからね」という言葉を紹介している。
 欣一は沖縄に関心を持ち、講師として派遣される前にかなり沖縄の歴史を勉強したようだ。更に句を紹介すると〈ことごく珊瑚砲火に亡びたり〉〈赤土(あかんちゃ)に夏草戦闘機の迷彩〉〈日盛りのコザ街ガムを踏んづけぬ〉などがある。
 後日になるが、欣一は「かなりの句は即興であるが、フィクションが多い。幻想といってもよい。狭く貧しいものであろうとも、これは私の沖縄解釈の試みであった」と、俳誌『風』で述べている。『沖縄吟遊集』はまさに社会性俳句の真骨頂であった。
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