ばせを植てまづにくむ荻の二ば哉 芭蕉
「李下、芭蕉を贈る」の前書きがあるが句の表記に幾通りかあり句作年代も諸説ある。
芭蕉植ゑてまづ憎む荻の二葉かな 芭蕉
一般的な解釈は「李下から贈られた芭蕉を植えて、その成長繁茂を楽しんでいると、思いもよらず荻の二葉が芽を出してはびこりだした。毎日眺め、芭蕉の成長を願うにつけて、なんだかこの荻の二葉を憎む気になったことよ」くらいだろう。
芭蕉庵に入った時期は、古来より説が多いが、延宝八年(一六八0)冬とするのが、ほぼ定説になっているようだ。したがって、この句は延宝九年春の作と推定してよいだろう。
また草庵のあった場所については推定するしかないが、『知足斎日々記』貞享二年四月九日の条に「江戸深川本番所森田惣左衛門御屋敷」とある。この屋敷がどこにあるかが問題だが、現在の芭蕉記念館近くの、芭蕉稲荷神社付近と考えられている。延宝八年の『江戸方角安見図』に「元番處」の名がある。小名木川と隅田川の合流点にあたるところで、これは関東郡代伊奈半十郎の屋敷に接している。つまり森田惣左衛門御屋敷はこの近くだったと推定される。
芭蕉がなぜこの屋敷内に住むようになったか不明であるが、ひとつの仮定として芭蕉はかつて世話になった藤堂家の何らかの任務を担っていたのではなかろうか。ここでは詳しく述べられないが、草庵に出入りする人物から推測して、単なる隠棲とは考えられない。(芭蕉庵が火災などにより、場所は幾度もこの近辺に変わっていることとは別問題である)
李下については詳しい資料は残っていないが、其角・杉風系だったらしい。『芭蕉を移す詞』(元禄五年作)の文中に、「いづれの年にや、栖を此の境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。」とある。これが桃青からやがて芭蕉と号し、草庵を芭蕉庵と称する所以である。
「李下、芭蕉を贈る」の前書きがあるが句の表記に幾通りかあり句作年代も諸説ある。
芭蕉植ゑてまづ憎む荻の二葉かな 芭蕉
一般的な解釈は「李下から贈られた芭蕉を植えて、その成長繁茂を楽しんでいると、思いもよらず荻の二葉が芽を出してはびこりだした。毎日眺め、芭蕉の成長を願うにつけて、なんだかこの荻の二葉を憎む気になったことよ」くらいだろう。
芭蕉庵に入った時期は、古来より説が多いが、延宝八年(一六八0)冬とするのが、ほぼ定説になっているようだ。したがって、この句は延宝九年春の作と推定してよいだろう。
また草庵のあった場所については推定するしかないが、『知足斎日々記』貞享二年四月九日の条に「江戸深川本番所森田惣左衛門御屋敷」とある。この屋敷がどこにあるかが問題だが、現在の芭蕉記念館近くの、芭蕉稲荷神社付近と考えられている。延宝八年の『江戸方角安見図』に「元番處」の名がある。小名木川と隅田川の合流点にあたるところで、これは関東郡代伊奈半十郎の屋敷に接している。つまり森田惣左衛門御屋敷はこの近くだったと推定される。
芭蕉がなぜこの屋敷内に住むようになったか不明であるが、ひとつの仮定として芭蕉はかつて世話になった藤堂家の何らかの任務を担っていたのではなかろうか。ここでは詳しく述べられないが、草庵に出入りする人物から推測して、単なる隠棲とは考えられない。(芭蕉庵が火災などにより、場所は幾度もこの近辺に変わっていることとは別問題である)
李下については詳しい資料は残っていないが、其角・杉風系だったらしい。『芭蕉を移す詞』(元禄五年作)の文中に、「いづれの年にや、栖を此の境に移す時、芭蕉一本を植う。風土芭蕉の心にやかなひけむ、数株の茎を備へ、その葉茂り重なりて庭を狭め、萱が軒端もかくるばかりなり。人呼びて草庵の名とす。」とある。これが桃青からやがて芭蕉と号し、草庵を芭蕉庵と称する所以である。