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【COSMOS】コスモス俳句会 冨澤赤黄男の一句鑑賞(1)高橋透水

2024年07月18日 | 俳句・短歌・評論・俳句誌・俳句の歴史
波の上に佐田の岬の霞けり  冨澤赤黄男

 富沢赤黄男の一句鑑賞をはじめるにあたり、赤黄男の経歴や社会的位置づけ、俳句の特色などみてみたい。赤黄男らしさがでるのはもっと後年のことになり初期のころはまだまだ一般的な定型句である。
 掲句は俳号を蕉左右(しょうぞう)と名乗っていた昭和七年赤黄男は30歳ころの作。赤黄男は俳句に関しては決して早熟とは言えなかった。
 俳句を始めたのは二十一歳のころである。家業の医師を継ぐことを嫌い、早稲田の政経に進学した。宇和島出身の松根東洋城を訪問し、それをきっかけに『渋柿』の投句をはじめた。初期のころは他に〈炬燵から山を眺めてばかりかな〉 〈浴衣きて亡母(はは)若かりし寫眞かな〉などがあるが、これらは『泉』に発表されたもので、故郷の川之石に帰郷したころの句だろうが、花鳥諷詠の作風である。
 大正十五年、早稲田大学を卒業し就職したが、その年広島工兵隊入隊。昭和二年除隊後に職場に復帰するもおおさかに転勤。結婚後大阪に新居を持った。
昭和五年、職を辞し郷里川之石に帰る。医師をやめて木材の会社を始めた父を手伝うもいまくいかなかった。
 「美名瀬吟社」の俳人、上田白桃の紹介で山本梅史の主宰する『泉』に入り、本格的に俳句を始める。〈団栗を拾ふことなどなつかしき〉〈炬燵から山を眺めてばかりかな〉
 この二句が『泉』に初入選し、その年末に八幡浜で親睦句会を開いたときに「赤黄男」と改号した。年末になると川之石に柿市が立つがそれに因んだものらしい。当時の俳壇は新興俳句運動が盛んだったが、赤黄男も巻き込まれ、その後の赤黄男俳句が形成されてゆく。
 父の死後、大阪にでるがなかなか定職に就かず不安定な生活を送った。日中両国が全面戦争になると赤黄男は招集されて、中支へ出征した。



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