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どちらかで探せば、見つかるかも。中公文庫の「冬の花 悠子」は最高の小説。もちろん、絶版。探してみて下さい。僕は出た時に、二冊買っておきました。
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盲導犬の「老犬ホーム」、青刈りされるイネ、プラスチックの墓群、コバルトブルーの水に沈む原子炉炉心、天然記念物ニホンカモシカの頭蓋骨が眠る倉庫…
見たことのない、しかし確かに見たことのある…
現代ニッポンの驚くべき「風景写真集」
新聞の紹介欄で見つけた。写真を撮る視点がいい。
今回の話の舞台はブエノスアイレス。アルゼンチンの首都だ。行ったのは、20代の独身時代。旅はブラジルとアルゼンチンが目的地。昔、「ドリトル先生」を読んで、世界地図を広げて、上から鉛筆を落とし、落ちた場所に行くというストーリーがあった。日テレの「ダーツの旅」の原型である。
とにかく、沢木耕太郎の「深夜特急」とかを読んで、若いうちに「地球の端」に行ってやろうと思っていた。
当時のブラジルは年間のインフレ率が2000%。つまり、20万円の商品が一年後には20倍の400万円になる計算だ。日本だったら、大パニックが起きていただろう。でも、ブラジル人達は日本人より笑顔の人が多かった。給料日になると、すぐスーパーマーケットに走って、給料を全額、ものに換えるのである。つまり、毎日、お金の価値が下がっていくので、「もの」に換えた方が得だからだ。
話は戻って、ブエノスアイレス。その夜は土砂降りの雨だった。僕は「カサブランカ」というガイドブックにも載っている有名なアルゼンチンタンゴのお店にタクシーで向かった。車内で「ラ・カンパルシータ」を口ずさんでいると、運転手さんが突然「ラ・カンパシータ!!!」と叫び、握手を求められ、店に着くまで二人で曲を口ずさみながら、楽しい時間を過ごした。
「カサブランカ」に入場。席はいちばん後ろ。ツアー客達が舞台の前に陣取っている。一見の僕はいちばん悪い席を与えられた。開幕直前、僕の隣のテーブルに、東洋人らしき男が座った。そして、「アルゼンチンタンゴ」の公演は終わり、店を出ようとすると、その男に日本語で話しかけられた。
「日本人ですか?」
「はい、そうですが・・・」
「私も三年前まで、大阪の淡路に住んでいました。在日の韓国人です。今はニューヨークで商売をし、アルゼンチンにはよく来ます。」
と、男は言い、突然、ポケットから100ドル札の束を出した。
「○○さん(僕)、これから女、買いに行きましょう」
僕は旅先でのハプニングが大好きである。「買春」には全く興味は無いが、スペイン語もぺらぺらの彼についていくと、きっと面白い事に出会えそうだと確信し、
「いいですよ」
と答えた。
雨のザンザン降る中、二人はタクシーに乗り、夜のブエノスアイレスを駆け巡る。白人の娼婦に交渉しては断られ、やっとたどり着いたのが、「キャバレー」。
暗い店の真ん中ではホステス達がショーをやっている。
彼曰く、
「隣の女に、ホテル名とルームナンバーを言えば、店が終わったら来てくれますよ。一晩100ドル。どうします?」
僕のよこに座った女の子はパラクアイからの出稼ぎだと言う。英語が全く通じない。スペイン語オンリー。僕は彼の提案を断った。その店でしこたま酒を飲み、女の子を一人、ホテルに連れ帰る彼とは「キャバレー」のドアのところで別れた。
何時になっていたのだろう。真っ暗な異国の夜。自分がブエノスアイレスのどこにいるのかさえ全く分からない。雨は幸いあがっていた。泥酔状態でタクシーを捕まえる。「ホテルランカスター」と運転手に叫ぶと、ちゃんと、宿泊先のホテルの前まで連れて行ってくれた。
しかし、ホテルの正面入口は閉まっていた。
「開けてくれ~」とドアを叩き続けるとやっと中に入れた。部屋に戻り、何故だか、ドアノブにかける「朝食のルームサービス」の札に丁寧に書き込みをし、部屋の外のドアノブにぶら下げ、爆睡。午前7時半。「ルームサービス」のお兄ちゃんに起こされた。そして、そのお陰で、帰国する飛行機にも間に合った。
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロは治安がすこぶる悪い3日で50~60人が射殺され、金を奪われる。そのリオの町でもいちばん治安の悪い地区まで路面電車が走っていた。どうしても乗りたくなり、乗ってしまった。終点で降り、せっかくここまで来たんだからと、近くの美術館に行こうと思い立った。しかし、道に迷ってしまい、ちょうどジョギングしていたおじさんに道を訊くと、美術館まで連れて行ってくれた。
おじさん「ちょっと、一杯やらないか?」
僕 「いいっすねぇ」
という会話が成立。地元の人が飲んでいる路上にはみ出した酒場で、「ピンガ(南米の焼酎の様なもの。ソーダで割ると美味しい)」を二人で飲んだ。
おじさん「実は今日、息子の誕生日なんだ。おまえも来て一緒に祝ってくれ」
僕 「もちろん」
てな訳で、初めてあったおじさんの自宅へ。彼の職業は医者。金持ちだ。家の塀には鉄条網が張ってある。車のラジオは外して自宅へ持ってあがる。ハンドルにはロックをかける。そうまでしても、タイヤを全部盗まれる事があるそうだ。
とにかく、自宅で親戚の人も集まる中、僕も混じって「ハッピーバースデー」を合唱。誕生日を迎えた息子さんがおばあちゃんちに行きたいというので、僕も誘われ、同行。
おばあちぉんちの窓から遠くに見える建物を指差し、おじさんはいう。
「あれは魔女の館なんだ」
「どうして?」
「娼婦達が大勢あそこにいるんだが、みんなエイズにかかっている」
そうなのだ。僕が行った当時のブラジルはアメリカに次いで、世界で二番目にエイズ患者が多い国だった。だから、ブラジル人がアルゼンチンに入国するには、「エイズでは無いと証明する書類」が必要。日本人はもちろん、パスポートさえあれば入国は可。
ペルー・ボリビアに行った時の事。ボリビアの首都・ラパスで、「3年前まで大阪の江坂で寿司を握っていたマスター」が経営する寿司屋に偶然入った。マスターに教えられたのは、ペルーの首都・リマは非常に治安が悪い。特に空港で出国の際、係員に「別室へ」と言われたら、大声で「コール トゥー アンバサダー(大使館に電話させろ)」と叫べと言われた。そうしないと、身包み剥がれる・・・日本人がたくさん、そんな目に遭っていると。怖い話。
リマからの出国の当日。ヴァリグ・ブラジル航空のフライト時間は午前2時。真夜中に空港に着いて、現地の旅行会社の添乗員にチェック・インして貰い、時間もあるので、空港のバーに彼を誘い、「ピンガ」を飲み続けた。途中で意識が無くなり、気付いたら、飛行機の中にいた。リマを飛び立って6時間くらいが過ぎていた。断片的に、空港の係官に絡んだりしたのは憶えている。こちらのあまりの泥酔ぶりに、「身包み剥ぐ気」も失せたのだろう。僕は無傷で帰国する事ができた。
つまり、何が言いたいかというと、世界どこに旅しても、夜、僕は酔っ払っている。酔っ払いに「言葉の障壁」は無い。逆に日本で飲んでいる時の方が危ないかもしれない。いつになったらこの「酒乱」は治るのだろう・・・。
とにかく、沢木耕太郎の「深夜特急」とかを読んで、若いうちに「地球の端」に行ってやろうと思っていた。
当時のブラジルは年間のインフレ率が2000%。つまり、20万円の商品が一年後には20倍の400万円になる計算だ。日本だったら、大パニックが起きていただろう。でも、ブラジル人達は日本人より笑顔の人が多かった。給料日になると、すぐスーパーマーケットに走って、給料を全額、ものに換えるのである。つまり、毎日、お金の価値が下がっていくので、「もの」に換えた方が得だからだ。
話は戻って、ブエノスアイレス。その夜は土砂降りの雨だった。僕は「カサブランカ」というガイドブックにも載っている有名なアルゼンチンタンゴのお店にタクシーで向かった。車内で「ラ・カンパルシータ」を口ずさんでいると、運転手さんが突然「ラ・カンパシータ!!!」と叫び、握手を求められ、店に着くまで二人で曲を口ずさみながら、楽しい時間を過ごした。
「カサブランカ」に入場。席はいちばん後ろ。ツアー客達が舞台の前に陣取っている。一見の僕はいちばん悪い席を与えられた。開幕直前、僕の隣のテーブルに、東洋人らしき男が座った。そして、「アルゼンチンタンゴ」の公演は終わり、店を出ようとすると、その男に日本語で話しかけられた。
「日本人ですか?」
「はい、そうですが・・・」
「私も三年前まで、大阪の淡路に住んでいました。在日の韓国人です。今はニューヨークで商売をし、アルゼンチンにはよく来ます。」
と、男は言い、突然、ポケットから100ドル札の束を出した。
「○○さん(僕)、これから女、買いに行きましょう」
僕は旅先でのハプニングが大好きである。「買春」には全く興味は無いが、スペイン語もぺらぺらの彼についていくと、きっと面白い事に出会えそうだと確信し、
「いいですよ」
と答えた。
雨のザンザン降る中、二人はタクシーに乗り、夜のブエノスアイレスを駆け巡る。白人の娼婦に交渉しては断られ、やっとたどり着いたのが、「キャバレー」。
暗い店の真ん中ではホステス達がショーをやっている。
彼曰く、
「隣の女に、ホテル名とルームナンバーを言えば、店が終わったら来てくれますよ。一晩100ドル。どうします?」
僕のよこに座った女の子はパラクアイからの出稼ぎだと言う。英語が全く通じない。スペイン語オンリー。僕は彼の提案を断った。その店でしこたま酒を飲み、女の子を一人、ホテルに連れ帰る彼とは「キャバレー」のドアのところで別れた。
何時になっていたのだろう。真っ暗な異国の夜。自分がブエノスアイレスのどこにいるのかさえ全く分からない。雨は幸いあがっていた。泥酔状態でタクシーを捕まえる。「ホテルランカスター」と運転手に叫ぶと、ちゃんと、宿泊先のホテルの前まで連れて行ってくれた。
しかし、ホテルの正面入口は閉まっていた。
「開けてくれ~」とドアを叩き続けるとやっと中に入れた。部屋に戻り、何故だか、ドアノブにかける「朝食のルームサービス」の札に丁寧に書き込みをし、部屋の外のドアノブにぶら下げ、爆睡。午前7時半。「ルームサービス」のお兄ちゃんに起こされた。そして、そのお陰で、帰国する飛行機にも間に合った。
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロは治安がすこぶる悪い3日で50~60人が射殺され、金を奪われる。そのリオの町でもいちばん治安の悪い地区まで路面電車が走っていた。どうしても乗りたくなり、乗ってしまった。終点で降り、せっかくここまで来たんだからと、近くの美術館に行こうと思い立った。しかし、道に迷ってしまい、ちょうどジョギングしていたおじさんに道を訊くと、美術館まで連れて行ってくれた。
おじさん「ちょっと、一杯やらないか?」
僕 「いいっすねぇ」
という会話が成立。地元の人が飲んでいる路上にはみ出した酒場で、「ピンガ(南米の焼酎の様なもの。ソーダで割ると美味しい)」を二人で飲んだ。
おじさん「実は今日、息子の誕生日なんだ。おまえも来て一緒に祝ってくれ」
僕 「もちろん」
てな訳で、初めてあったおじさんの自宅へ。彼の職業は医者。金持ちだ。家の塀には鉄条網が張ってある。車のラジオは外して自宅へ持ってあがる。ハンドルにはロックをかける。そうまでしても、タイヤを全部盗まれる事があるそうだ。
とにかく、自宅で親戚の人も集まる中、僕も混じって「ハッピーバースデー」を合唱。誕生日を迎えた息子さんがおばあちゃんちに行きたいというので、僕も誘われ、同行。
おばあちぉんちの窓から遠くに見える建物を指差し、おじさんはいう。
「あれは魔女の館なんだ」
「どうして?」
「娼婦達が大勢あそこにいるんだが、みんなエイズにかかっている」
そうなのだ。僕が行った当時のブラジルはアメリカに次いで、世界で二番目にエイズ患者が多い国だった。だから、ブラジル人がアルゼンチンに入国するには、「エイズでは無いと証明する書類」が必要。日本人はもちろん、パスポートさえあれば入国は可。
ペルー・ボリビアに行った時の事。ボリビアの首都・ラパスで、「3年前まで大阪の江坂で寿司を握っていたマスター」が経営する寿司屋に偶然入った。マスターに教えられたのは、ペルーの首都・リマは非常に治安が悪い。特に空港で出国の際、係員に「別室へ」と言われたら、大声で「コール トゥー アンバサダー(大使館に電話させろ)」と叫べと言われた。そうしないと、身包み剥がれる・・・日本人がたくさん、そんな目に遭っていると。怖い話。
リマからの出国の当日。ヴァリグ・ブラジル航空のフライト時間は午前2時。真夜中に空港に着いて、現地の旅行会社の添乗員にチェック・インして貰い、時間もあるので、空港のバーに彼を誘い、「ピンガ」を飲み続けた。途中で意識が無くなり、気付いたら、飛行機の中にいた。リマを飛び立って6時間くらいが過ぎていた。断片的に、空港の係官に絡んだりしたのは憶えている。こちらのあまりの泥酔ぶりに、「身包み剥ぐ気」も失せたのだろう。僕は無傷で帰国する事ができた。
つまり、何が言いたいかというと、世界どこに旅しても、夜、僕は酔っ払っている。酔っ払いに「言葉の障壁」は無い。逆に日本で飲んでいる時の方が危ないかもしれない。いつになったらこの「酒乱」は治るのだろう・・・。
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