山本和夫さんというディレクターがいた。元・TBSで「七人の刑事」「日曜劇場」他、たくさんのドラマを撮ったディレクターである。先日亡くなった久世光彦さんは、山本和夫さんのADをしていた。TBS在籍中は「鬼のヤマカズ」と言われ、スタジオで怒鳴ると、久世さん始め、ADが全てスタジオからいなくなったという話も聞いた。
僕は、晩年TBSを辞められてフリーになられてからの「ヤマカズさん」とドラマの仕事を御一緒した。よく怒鳴られた。ぼくはAPでキャスティングもしていたのだが、ディレクターに確認しないで、役を決めていた事があり、山本さんからの怒りの電話を貰った。当時、大阪でドラマを撮っていたので、「ヤマカズさん」はホテルに泊まっており、僕はキャスティングした俳優の写真を持って恐る恐るホテルの「ヤマカズさん」の部屋を訪ねた。そして、自分がこの俳優に決めた意図を話したら、「ヤマカズさん」は笑顔になり、その笑顔はむ優しく僕の心を抱きしめてくれていた。
京都の南、木津川にかかる「流れ橋」でロケをした時、土砂降りだった。シーンは、満蒙開拓義勇団がソ連兵から逃げるシーン。外国人あり、赤ちゃんあり、爆発のシーンまであった。夜になって寒くなってきたので、僕とロケマネで味噌汁の買い出しに出かけて帰ってくると、「ヤマカズさん」が僕を呼んでいるとの事。土砂降りの中、監督車の前で、僕と「ヤマカズさん」は対峙した。
「こんな土砂降りでもロケを続けるのかね?」と「ヤマカズさん」。
沈黙。しばし・・・
「止めましょう。ロケは中止にしましょう」と僕。このロケが中止になったら、放送できない事を知ってはいたが、プロデューサーは東京で脚本打ち合わせ。当時、携帯電話など無く、現場の責任者はAPの僕。まだ20代だった。
一か八かの勝負。
「撮ってやるよ」と「ヤマカズさん」。雨も上がり、撮影は順調に進み、午前1時半に終わった。「ヤマカズさん」も今日撮影しないと、放送できなくなる事は知っていたと思う。
今、思い出すとカッコイイなあと思う。男気を感じる。涙が出そうになる。その「ヤマカズさん」が70歳で亡くなって、10年近く経つだろうか。あの笑顔が忘れられない。怖かったけど好きだった。可愛かった。そんな個性的なディレクターの存在が許された時代でもあった。「ヤマカズさん」は紺色の帽子を被り、茶色のサングラス。いつもクリーニングし立ての白いワイシャツ。紺のズボンにはピシッと線が入り、女優さんが見たら、この人に撮って貰いたいと思わせる「演技」をし続けた。ほんとはお酒も飲めるのに、TBSでは「下戸」で通し、フリーのスタッフと新宿・歌舞伎町のラウンジに行っていたと後に聞いた。スタイリッシュな人だった。服装も生き方も。
亡くなった時も、密葬。TBSの人達も僕らも後で知り、最期まで「スタイリッシュ」な生き方を貫いた人だと心に深く刻み込んだ。今日は、「ヤマカズさん」を知っている人と飲んだので、こんな事を無償に書きたくなった。「ヤマカズさん」を知らない人には、何の話?????という事かも知れないが、人と人のそういった繋がりを大事にしなければ、テレビもダメになる。僕はそのことが言いたかったんだと、今、思った。「遊び」が無いテレビなんて、要らない、と僕は思う。特に最近は。視聴率至上主義。テレビは「おもちゃ箱」だと思う。いろんな番組があった方がいい。すべての番組が高視聴率になる訳が無い。トータルでちゃんとペイすればOKでは無いのだろうか・・・人間が働く現場の事も分からず、或いは分かっていても考えていないふりをして、「どーんと視聴率の取れる番組を作れ!」と言われても、「何だかなぁ~」と思ってしまう。言っている本人が「視聴率の取れる番組のイメージ」を持っていないのだから。キャスティングをしてみろ、スタッフを掌握して自分の思い通りにコントロールしてみろ、と言いたい。テレビというメディアは老若男女が観ているもの。視聴率が確実に取れる法則を見出した人は・・・素晴らしいのか・・・どうか。











僕は、晩年TBSを辞められてフリーになられてからの「ヤマカズさん」とドラマの仕事を御一緒した。よく怒鳴られた。ぼくはAPでキャスティングもしていたのだが、ディレクターに確認しないで、役を決めていた事があり、山本さんからの怒りの電話を貰った。当時、大阪でドラマを撮っていたので、「ヤマカズさん」はホテルに泊まっており、僕はキャスティングした俳優の写真を持って恐る恐るホテルの「ヤマカズさん」の部屋を訪ねた。そして、自分がこの俳優に決めた意図を話したら、「ヤマカズさん」は笑顔になり、その笑顔はむ優しく僕の心を抱きしめてくれていた。
京都の南、木津川にかかる「流れ橋」でロケをした時、土砂降りだった。シーンは、満蒙開拓義勇団がソ連兵から逃げるシーン。外国人あり、赤ちゃんあり、爆発のシーンまであった。夜になって寒くなってきたので、僕とロケマネで味噌汁の買い出しに出かけて帰ってくると、「ヤマカズさん」が僕を呼んでいるとの事。土砂降りの中、監督車の前で、僕と「ヤマカズさん」は対峙した。
「こんな土砂降りでもロケを続けるのかね?」と「ヤマカズさん」。
沈黙。しばし・・・
「止めましょう。ロケは中止にしましょう」と僕。このロケが中止になったら、放送できない事を知ってはいたが、プロデューサーは東京で脚本打ち合わせ。当時、携帯電話など無く、現場の責任者はAPの僕。まだ20代だった。
一か八かの勝負。
「撮ってやるよ」と「ヤマカズさん」。雨も上がり、撮影は順調に進み、午前1時半に終わった。「ヤマカズさん」も今日撮影しないと、放送できなくなる事は知っていたと思う。
今、思い出すとカッコイイなあと思う。男気を感じる。涙が出そうになる。その「ヤマカズさん」が70歳で亡くなって、10年近く経つだろうか。あの笑顔が忘れられない。怖かったけど好きだった。可愛かった。そんな個性的なディレクターの存在が許された時代でもあった。「ヤマカズさん」は紺色の帽子を被り、茶色のサングラス。いつもクリーニングし立ての白いワイシャツ。紺のズボンにはピシッと線が入り、女優さんが見たら、この人に撮って貰いたいと思わせる「演技」をし続けた。ほんとはお酒も飲めるのに、TBSでは「下戸」で通し、フリーのスタッフと新宿・歌舞伎町のラウンジに行っていたと後に聞いた。スタイリッシュな人だった。服装も生き方も。
亡くなった時も、密葬。TBSの人達も僕らも後で知り、最期まで「スタイリッシュ」な生き方を貫いた人だと心に深く刻み込んだ。今日は、「ヤマカズさん」を知っている人と飲んだので、こんな事を無償に書きたくなった。「ヤマカズさん」を知らない人には、何の話?????という事かも知れないが、人と人のそういった繋がりを大事にしなければ、テレビもダメになる。僕はそのことが言いたかったんだと、今、思った。「遊び」が無いテレビなんて、要らない、と僕は思う。特に最近は。視聴率至上主義。テレビは「おもちゃ箱」だと思う。いろんな番組があった方がいい。すべての番組が高視聴率になる訳が無い。トータルでちゃんとペイすればOKでは無いのだろうか・・・人間が働く現場の事も分からず、或いは分かっていても考えていないふりをして、「どーんと視聴率の取れる番組を作れ!」と言われても、「何だかなぁ~」と思ってしまう。言っている本人が「視聴率の取れる番組のイメージ」を持っていないのだから。キャスティングをしてみろ、スタッフを掌握して自分の思い通りにコントロールしてみろ、と言いたい。テレビというメディアは老若男女が観ているもの。視聴率が確実に取れる法則を見出した人は・・・素晴らしいのか・・・どうか。











