青島 幸男(あおしま ゆきお、1932年7月17日 - 2006年12月20日)は、東京都中央区日本橋出身の作家、作詞家、タレント、放送作家、映画監督。その他、元参議院議員、元東京都知事などの政治家としても活躍。多彩な経歴を持つ。長女は放送作家・エッセイスト・タレントの青島美幸・長男は放送作家の青島利幸。
政治家としては都知事就任以前はカリスマ的人気を誇り、選挙期間中は選挙運動を一切しないのに高得票で当選した。しかしながら、都知事時代はめぼしい業績を残さなかったことや都市博中止以外の公約を反故にした行政をしたことにより、そのカリスマ性も薄れ、以後、選挙に出馬するも落選する。
経歴
1932年日本橋堀留町の仕出し弁当店・弁菊の次男として生まれる。
1955年4月に早稲田大学第一商学部卒業後、大学院商学研究科修士課程商学専攻に進学し、その後療養生活を送る。
1956年6月同大学院中退。
1966年映画『鐘』を製作、主演・製作・脚本・監督を担当した。同作はカンヌ映画祭の国際批評家週間に入選した。
1981年『人間万事塞翁が丙午』で同年上半期の直木賞を受賞。
2006年12月20日午前9時31分、骨髄異形成症候群による合併症のため永眠。享年74。
政歴
1968年、参議院議員選挙に全国区から立候補し2位で初当選。タレント議員のパイオニア的存在となる。無所属議員による院内会派第二院クラブに所属。或る日佐藤栄作が「自分は参院選の応援の為に日本全国を回った」と得意気に話すので、「自分はテレビでの知名度が有って当選できた。選挙の立候補者も放送を通じて政見を述べれば良い」と答える。そして青島の提案に拠り、政見放送が実施される。
1971年予算委員会の代表質問において、与党自民党に対する財界からの政治献金の莫大さを批判、首相の佐藤(自民党総裁)を「総理は財界の男妾」と一刀両断、大いに物議を醸した。
1974年の2期目の参院選より、候補者の青島自らが街頭演説などの選挙運動を一切しないという独自の選挙活動を行う。これは青島が超有名人気タレントだから可能な戦法であった。
1989年4期目途中で消費税法案の強行採決に抗議して議員を辞職するが、直後に予定されていた参院選に立候補するものの落選した。この行動は、中途辞職による比例代表名簿下位登載者の繰り上げ当選と、自身の当選によって所属会派の議席増をもたらすため、「比例代表制度を恣意的に利用するものである」と批判された。
1992年の参議院選挙で、国会議員に返り咲く。
1995年の東京都知事選挙に初当選。
2001年、二院クラブ代表に復帰。参院選に比例区から出馬するが落選。
2004年の参議院選挙に東京都選挙区(定数4)から無所属で出馬したが落選。
人物像
東京都立第二十一中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)に入学するが学制改革に遭い、数ヶ月で新制早稲田大学高等学院に転校。早稲田大学第一商学部に進学(旧制高等学校と新制高等学校の入れ替え時期と重なり、特例にて無試験入学)。卒業間際に結核を患ったので就職を断念した。
療養中に銀座でバー「カランタス」を経営。そのとき書いた漫才台本がNHKのコンクールで採用されたことをきっかけに放送作家としての活動を開始。『おとなの漫画』(フジテレビ)、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)等の構成をし、放送作家本人が画面に登場する「青島だァ!」のギャグで一躍有名になる。
コミックソングの作詞家としても才能を発揮し、番組で関わったハナ肇とクレージーキャッツや坂本九らの作詞をする。特に作曲家萩原哲晶とのコンビでの作品で数多くのヒットがある。代表曲として『スーダラ節』、『黙って俺についてこい』、『ハイ、それまでよ』(クレイジーキャッツ、植木等)、『明日があるさ』(坂本九)がある。
金丸信と東京佐川急便の癒着疑惑につき、検察庁が罰金のみの略式起訴で幕引きを図ったときには抗議のハンガーストライキを行い、多くの国民の支持を集める。
1995年の東京都知事選挙は、当初、与野党相乗り候補で内閣官房副長官を長年務めた石原信雄の当選が有力視されていた。しかし、青島は開発中の臨海副都心地区で開催が予定されていた世界都市博覧会を中止するとの公約を掲げ、東京都知事選に無所属で立候補し、大方の予想を裏切り1,700,933票を獲得して、自民、社会、公明、新党さきがけ相乗り推薦の石原信雄を破って初当選する。「国民の政党に対する不信感の表れ」と評された。都市博中止決定への異議に対し、「中止補償は金で購いが着く。青島は約束を守れる男かそうでないのか、信義の問題なんだ!」と一喝した。しかし、都市博中止以外に特に目立った施策はなく、その上、都市博中止でもっとも迷惑を被った零細企業・町工場に対する保償は不十分であった。以後は二信組救済の税金投入せず等他の公約を守る事も無く官僚・役人任せの行政に終始した。1期を務め1999年に任期満了で退任、後継指名した鳩山邦夫は次点。
青島幸男の当選について、功績を残さず、また公約を破り都民の期待を裏切ったという点で批判が多く、自民党支持者など石原信雄の当選を望んでいた人からは行政実績のある石原のほうがよかったと主張する向きもある。また野党支持者からも、官僚任せにせず青島の公約を支持する野党や市民運動などと協力しながら政治を行うべきだったとの批判がある。これに対して、青島の当選は鈴木都政の継承、与野党相乗り候補、官僚畑である石原信雄候補に対する反発という形で表れたものであり、その点、政党の側にも都民の顔を向いた都政を行おうとしなかったことに対する反省が必要だとの意見があり、評価は分かれている。野坂昭如が青島を批判したところ青島が「てめえなんかホームレス以下だ」と発言し批判される一面もあった。スーダラ都政と週刊誌に皮肉られた事もある。
2004年の参議院選挙に東京都選挙区(定数4)から無所属で出馬。ポスターには「選挙にも行かないでがたがた抜かすんじゃねぇこの野郎!! 青島だぁ文句有るか!?」の極めて挑発的な言葉を書き、自分が嘗て作詞した歌『どんと節』の選挙版の替え歌(自己パロディ)を陽気に3回も熱唱し歌の合間に政見を少し話すという極めて異色な政見放送を行った([1])。596,272票を獲得したが、次点で落選した。自らの後継として、娘の青島美幸を立てるなど、それまで批判してきた世襲政治をも踏襲し、政治家としての評価は地に落ちた。
その他
俳優として、テレビドラマ『意地悪ばあさん』(長谷川町子原作 / レギュラー放映:1967年~1969年、1970年~1971年、1981年~1982年)に主演の意地悪ばあさん(波多野たつ)の役で出演。自身で作詞した主題歌『意地悪ばあさんのうた』も歌った。
ちなみに、日本のテレビで最初にエイプリルフールネタを披露したのは彼であるといわれている。おとなの漫画内でギザギザの線が書かれた紙を上下に動かしテレビの故障を思わせる演出だったが、当時そういったことが一般的ではなかったために当然ながら苦情が殺到した。
また、テレビ司会者としても1968年より11年間に渡り「お昼のワイドショー」(日本テレビ)、高見知佳との名コンビで広く支持された「追跡」(日本テレビ)、議員初当選以前には「TBS歌のグランプリ」(TBS)など、数多くの番組で活躍した。
なお1998年には絵画「循環」で二科展入選を果たしたこともある。
また高度経済成長期に「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ」(ハナ肇とクレージーキャッツ『どんと節』)と作詞して<ニッポン無責任時代>を演出した立役者でもあるが、青島自身にサラリーマン経験は皆無。「うちのお父さんはサラリーマンですが、ちっとも気楽じゃありません。あんな歌はやめてください」という苦情の手紙を受け取ったことがある。青島は「卒業、就職の時期に結核を患い、やむなく大学院に籍を置いて、療養生活を余儀なくされ、身の保証の何一つないヤクザな稼業に追いやられた私としては、『サラリーマンがナンボのもんじゃい』とうらみがましく思っていた」(『わかっちゃいるけど… シャボン玉の頃』)と語っている。
あまり知られていない仕事としてドラマのストリーテラーというのがある。1969年~1970年にかけて円谷プロダクションが製作した大人向けの特撮ドラマ恐怖劇場アンバランスで青島はストリーテラーとして全13回すべてに出演していたのである。これは製作元の円谷プロがアメリカの怪奇ドラマミステリー・ゾーンに倣いストーリーテラーが案内してドラマが始まるという筋立てで製作して倣った作品のロッド・サーリングに相当する人物として抜擢したわけである。しかしフジテレビがスポンサーがつかないとの理由で3年間店晒しにしたためこの功績はまったく知られずにとなってしまったのである。
影響
漫画『天才バカボン』のバカボンのパパは知らないルールがあると「国会で青島幸男が決めたのか?」、また自分で勝手にルールを作ったときには「国会で青島幸男が決めたのだ!」と問うのが決まり文句だった。
ドラマ『踊る大捜査線』では主人公の青島俊作が「都知事と同じ青島です」と自己紹介していた。
岸田 今日子(きしだ きょうこ、1930年(昭和5年)4月29日 - 2006年(平成18年)12月17日)は、日本の女優、声優、童話作家。東京都杉並区出身。血液型はA型。自由学園高校卒業。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士(くにお)、母は岸田秋子。姉は詩人で童話作家の岸田衿子、従兄弟は俳優の岸田森。元夫は俳優の仲谷昇。吉行和子、冨士眞奈美は親友。
1963年、テレビドラマ「男嫌い」で越路吹雪、淡路恵子、横山道代、坂本九などと豪華メンバーでブレイク。当時、同番組は「カワイ子ちゃん」「かもね」「そのようよ」などと、さながら流行語の台風の眼であった。
経歴
劇作家の岸田國士・秋子夫妻の次女として生まれる。自由学園在学中に舞台美術に興味を抱き、卒業と同時に裏方として文学座の研修生となるが、その後女優に転じ、1950年に『キティ颱風』で初舞台。1954年、同じ文学座の俳優仲谷昇と結婚。1960年、三島由紀夫演出の『サロメ』で主役に抜擢されて以降、テアトロン賞を受賞した『陽気な幽霊』をはじめ、数多くの舞台で多くの大役、難役をこなす。
映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、1964年には『砂の女』でブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派舞台女優としての地位を確立した。
1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じていた芥川比呂志、小池朝雄、神山繁、山崎努らと共に文学座を脱退。「劇団雲」を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立に参加し、『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実作の大半の作品に出演。1978年に離婚。その後もテレビ・映画出演と並行して舞台女優としても第一線で活躍していた。近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価が高い。
人気アニメ『ムーミン』ではムーミンの声を担当。『ムーミン』の仕事を請けたのは、娘に自分の仕事を理解してもらうためだった、と後にトーク番組で語ってもいる。ナレーションでも、他に得がたい存在として、ドキュメンタリーからバラエティまで幅広く起用される。著作も多く、エッセイから翻訳など幅広い分野で健筆を振るった。特に児童文学、童話については造詣が深く、所属する「演劇集団 円」では、毎年年末にシアターΧで上演される、幼児にも楽しめる舞台「円・こどもステージ」の企画を担当していた。
2002年、ポップシンガーUAのシングル「DOROBON」で詩の朗読に参加。幅広い活動を続けた。
2006年12月17日午後3時33分、脳腫瘍による呼吸不全のため東京都内の病院で死去。享年76。
主な出演作品
ドラマ
赤穂浪士(1964年、NHK大河ドラマ あぐり)
大奥(1968年、フジテレビ)
春の坂道(1971年、NHK大河ドラマ 淀の方)
傷だらけの天使(1974年、日本テレビ 綾部貴子)
前略おふくろ様(1976年、日本テレビ 三宅花恵)
非情のライセンス 第2シリーズ(1976年、NET 深海綾)
赤い運命(1976年、TBS)
破れ新九郎(1978年、テレビ朝日)
影の軍団III(1982年、関西テレビ 千愁尼(本理院孝子))
少女に何が起ったか(1985年、TBS)
武田信玄(1988年、NHK大河ドラマ 寿桂尼)
世にも奇妙な物語 『闇の精霊たち』(1990年、フジテレビ系)
世にも奇妙な物語~オープニング・ナレーション(1991年、フジテレビ系)
世にも奇妙な物語 『8時50分』(1991年、フジテレビ系)
法医学教室の事件ファイル(1992年~、テレビ朝日)
最高の恋人(1995年、テレビ朝日)
御家人斬九郎(1995年~2002年、フジテレビ)
不機嫌な果実(1997年、TBS)
徳川慶喜(1998年、NHK大河ドラマ 松島)
ランデヴー(1998年、TBS)
グッドニュース(1999年、TBS)
蜜蜂の休暇(2001年、NHK)
ナースマン(2002年、日本テレビ)
私立探偵 濱マイク(2002年、日本テレビ)
赤ちゃんをさがせ(2003年、NHK)
動物のお医者さん(2003年、テレビ朝日)
ぼくの魔法使い(2003年、日本テレビ)
相棒(2004年、テレビ朝日)
奥さまは魔女(2004年、TBS)
女医・優~青空クリニック~(2004年、フジテレビ)
犬神家の一族(2004年、フジテレビ)
あいのうた(2005年、日本テレビ)
映画
黒い十人の女(1961年、市川崑監督)
秋刀魚の味(1962年、小津安二郎監督)
砂の女(1964年、勅使河原宏監督)
ノストラダムスの大予言(1974年、舛田利雄監督 予言の声)
犬神家の一族(1976年、市川崑監督)
犬神の悪霊(1977年、伊藤俊也監督)
地獄(1979年、神代辰巳監督)
この子の七つのお祝いに(1982年、増村保造監督)
海と毒薬(1986年、熊井啓監督)
学校の怪談2(1996年、平山秀幸監督)
八つ墓村(1996年、市川崑監督)
春の雪(2005年、行定勲監督)
屋根裏の女たち
ウール100%
舞台
光明皇后(1962年、文学座)
ヘンリー四世(1967年、劇団雲)
マクベス(1972年、劇団雲)
火のようにさみしい姉がいて(1977年、木冬社)
一軒の家・一本の樹・一人の息子(1978年、演劇集団 円)
雰囲気のある死体(1980年、演劇集団 円)
冬のライオン(1982年、演劇集団 円)
プラトーノフ(1983年、演劇集団 円)
おたまじゃくしはかえるのこ(1985年、演劇集団 円)
もーいいかい・まーだだよ(1988年、演劇集団 円)
今日子(1989年、演劇集団 円)
欲望という名の電車(1989年、演劇集団 円)
わが師・わが街(1992年、演劇集団 円)
桜の園(1993年、演劇集団 円)
春のうららの隅田川(1997年、演劇集団 円)
遠い日々の人(1999年、演劇集団 円)
当世流・雨月物語(2001年、演劇集団 円)
西へ行く女(2003年、演劇集団 円)
THE OTHER SIDE 線のむこう側(2004年、新国立劇場)
オリュウノオバ物語(2005年、演劇集団 円)
アニメ
ムーミン(1969年・1972年、ムーミン役)
まんがこども文庫(1978年、ナレーション)
地球へ…(1980年、グランドマザー役)
吸血姫美夕(1997年、OPナレーション)
プリンセスチュチュ(2002年、ナレーション)
死者の書(2006年、ナレーション)
カンニングの中島忠幸さん死去
中島 忠幸氏(なかしま・ただゆき=漫才コンビ「カンニング」のメンバー)20日、東京都内の病院で死去、35歳。福岡県出身。
92年に竹山隆範さん(35)とコンビを結成し、バラエティー番組などで人気を博した。04年12月から急性リンパ球性白血病で休業していた。
2人とも小学校時代からの同級生。吉本総合芸能学院(NSC)で1992年結成。吉本福岡在籍時代のデビュー当時は竹山が赤・中島が青のタキシードを着て漫才をしていたが、さっぱり売れず借金だけが残った。その後一時期ワタナベエンターテインメントに在籍。自分達で事務所を立ち上げた事もあったがうまくいかず1年で解散。現在はサンミュージック企画プロジェクトGETに所属。
コンビ名の由来はなんとなく語呂がよかったから命名したもので、特に深い意味はない。竹山は不動産屋でアルバイトをしていた時期があり、中島は中野区の惣菜屋で副店長まで任されていた。お笑い界きっての料理の腕で知られる。その為「いつかは小さな店を開き、中島が厨房で料理を作り竹山が接客して、馴染みの客に芸人時代のことを照れながら話してみたい」と(冗談半分ではあっただろうが)語ったことがある。
2001年に『虎の門』のコーナー「お笑いTIGER'S GATE」内で一部的に賞賛を受ける。その後、次第に番組のセミレギュラーに昇格。一部の番組で「僕たちはテレ朝っ子です」とネタの中で発言するのは、このブレイクする前からの『虎の門』出演が所以だといえるだろう。
2003年に『めちゃ²イケてるッ!』のコーナー「笑わず嫌い王決定戦」に出演して注目を集める。この時は「中野のケーブルテレビでは人気者」と紹介された。
2004年、すでに結成10年を超えて出られなかった第4回M-1グランプリに覆面をして「とんこつなんこつ」のコンビ名で出場、3回戦まで進出。その後、『笑いの金メダル』で同コンビ名&覆面姿でネタを披露した。同年10月21日に左とん平のカバーで日本クラウンからCDデビュー。発売記念イベントなども行われたがさっぱり売れなかった。そのほかにも売れないことを逆手に取った自虐ネタを持ちネタとし、2004年にかけてお笑いブームに乗って一躍人気芸人の仲間入りを果たした。
『エンタの神様』などの番組では数々の問題も起こしており、最も好き嫌いが明確な芸人といえる。五味一男曰く、「昔のビートたけし、とんねるずみたいな感じ」とのこと。また、『ズバリ言うわよ!』にゲスト出演時、ネタ見せと鑑定で長井秀和ら他の芸人のネタでは顔色一つ変えなかった細木数子から、「面白かった。けれどコンビでの仲の悪さが見えてる」と言われた。同じく細木数子出演の『幸せって何だっけ』で竹山は「38歳辺りまでに結婚したほうがいい」と言われ、番組を通じて同棲中の女性にプロポーズし、その後FNS25時間テレビで「2007年春には正式に結婚する」と発表した。
2004年12月には、中島が急性リンパ球性白血病で長期休養することになり、竹山がピンで活動する事になった。コンビの名残からか、現在に至るまで「カンニング竹山」と称されることが多い(竹山の希望という説もある)。同年、DVD『カンニングの思い出づくり』を発売。中島の復帰は当初「年内から2006年春(遅くとも4月末頃)には復帰」と言われていたが、予定から大幅に伸びてしまい、2006年11月には「2007年5月ごろに復帰」との情報が出たものの、2006年12月20日、中島は白血病ウイルス性肺炎のため帰らぬ人となった。
『笑いの金メダル』で、竹山のみ笑金オールスターズとして2度目のCDを出す。更に、第5回M-1グランプリでは山崎邦正とコンビを組み、「竹山崎」として3回戦に進出した。
またカンニングはロックバンド「Janne Da Arc」の応援リーダーとしても活動中だが、シングルCDの告知CMでキレまくっていた為か、ファンから「Janne Da Arcに近づくな!」などの抗議が来たと後日『ミュージックステーション』で語った。この際、『絶対買うなよ!』とCMでキレたら(Janne Da Arc)CDは沢山売れたが、自分達のCD(ヘイ・ユウ・ブルース)で同じことをやったら本当に売れなかった、とも語っていた。
メンバー
竹山隆範(たけやま たかのり、1971年4月2日 - )血液型O型
福岡県出身。ボケ担当。中島の復帰が予定されていた2007年春に結婚の予定。
中島忠幸(なかしま ただゆき、1971年6月14日 -2006年12月20日)血液型O型
福岡県出身。ツッコミ担当。
出演番組
虎の門(『虎ノ門』時代~)(テレビ朝日)
エンタの神様(日テレ系)不定期
笑いの金メダル(朝日放送・テレビ朝日系)
カンニングのDAI安吉日!(BSフジ)
出演作品
CD
カンニングのヘイ・ユウ・ブルース(日本クラウン)2004/10/21
DVD
エンタの神様 ベストセレクション Vol.1(バップ)2004/12/22
エンタの神様 ベストセレクションVol.2(バップ)2005/1/26
エンタの神様 ベストセレクションVol.3(バップ)2005/2/23
カンニングの思い出づくり(ポニーキャニオン)2005/1/14
イエヤス 爆笑セレクション Vol.4(ビデオメーカー)2005/12/23
今日はこの三人の訃報を聞き、本当にびっくりした。特に「青島幸男さん」は「しゃぼん玉ホリデー」の構成作家であり、数々の東宝喜劇映画(クレージキャッツ主演)の歌の天才的作詞家だった。
岸田今日子さんは「独特の存在感」を持たれていて、余人に代えがたい女優さんだと思う。
カンニングの中島さんは若過ぎる。今の日本で年間三万人の自殺者が出ているが、生きたい人が若くして逝ってしまうのは余りにも悲し過ぎる。三人の御冥福をお祈りします。