「生きている意味を知るという事」は、「人間が死んでいくという事を知る事」だと前々から思っていた。厚生労働省の調べでは、1950年代前半、8割の人が自宅で死んでいった。2004年には病院で「死」を迎える人が8割に達している。つまり、自分の祖父や祖母、両親などの親族の「死」に目の前で接する機会が極端に減少したのである。つまり、「死を目撃する経験」も少なくなった。それが「生きる事の意味」、ひいては「命の大切さ」を忘れがちにさせる世の中を作ってしまったのではないかと僕は思う。連日起こる、かつては考えられない殺人事件や事故。僕が「なごみの里」に興味を持ったのはその辺りの関連性について考え続けてきたからである。
「なごみの里」とは?
人口 770 人の離島、島根県隠岐郡知夫里島。この島に特別養護老人ホームが作られたことは一度もありません。そのため、介護が必要になったお年寄り達は、島外の施設に移っていくしかありませんでした。その状況を打破するため、2002 年 5 月、看取りの家「なごみの里」は開設されました。
自分の生まれ育った場所で美しく歳月を重ねたのに、その終末期は慣れない場所で死を待たなくてはならない。それは正しいことなのでしょうか? 私達は私達自身の死に場所を選ぶ事ができず、人生の幕を下ろす時でさえ孤独と戦い続けなければならないのでしょうか?
それは決して、正しい形であるとは思えません。私達は、お年寄りの方々がその最期を迎える時まで、一人の人間として尊厳を尊重されることを望み、そしてそんな場所であることを実践し続けています。(「なごみの里」HPより)
http://nagominosato.org/
内容(「MARC」データベースより)
以前はマクドナルドで企業戦士として、トップを走った筆者は、やがて失意の底で命を絶とうとした…。いま、高齢の方々のかたわらで、看取りの日々を送りながら、これまでの半生を綴り、若い人へ語りかける。死なないで、と。
内容(「MARC」データベースより)
「ババはこの島に生まれたんだ。やっぱり、この島で死にてぇよ」 延命よりも自然死を望む「幸齢者」たち…。人生の最期とどう向き合うのか? 隠岐の小さな島での「幸齢者」との暮らしから、いのちと死の尊さを問いかける。
内容(「MARC」データベースより)
隠岐の離島にある看取りの家「なごみの里」。人生の終末期に寄り添い、幸せな最期を支える看取りの現場から、生と死を見つめる。『西日本新聞』生活面「シニア」欄に掲載された「この島で逝きたい」を含む文章を収録。
内容(「MARC」データベースより)
隠岐の離島で美しい看取りの情景を見つめてきた著者が、子供たちに贈るいのちの物語。父親の最期を看取る少年の姿を通して、死と向き合って生きることの大切さを伝えていく。生と死を繋ぐ、ピュアな心を伝える一冊。