今年は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたるそうだ。
ちなみに特別攻撃隊(特攻隊)は、第二次世界大戦末期において行われた爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器を、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たり、自爆等させる戦死を前提とする必死隊的作戦であるという。
私が若かりし頃には、特攻隊員の青年と女学生の切ない恋を描いたラブストーリー映画が多数公開され、私もよく観に行った。突撃する前夜に「明日はお前だ」と知らされ、翌日、命を落としていく。むごい話である。
昭和50(1975)年4月、鹿児島県・知覧町に「知覧特攻遺品館」が開館したと知った。だが本土最南端の鹿児島、行けるとは思ってもいなかった。だが5年後、鹿児島へ行くことになった。
すでに2人ともあの世だが、私の弟の嫁は鹿児島出身である。嫁の父親が急逝し、8月13日の葬儀に私がわが家を代表して出席することになった。ちょうどお盆で下りの新幹線は混雑のピーク、やっとのことでグリーン車の予約がとれた。岡山駅までは在来線で、そこからは新幹線で博多まで。グリーン車の通路にも新聞紙を敷いて座り込む人がいっぱいいた。博多からは寝台特急で西鹿児島駅へ、到着は翌日の早朝6時ころだったと思う。義妹の実家は大隅半島の枕崎の近く、東シナ海が近いと聞いた。
早く着きすぎても困るので、タクシーのドライバーさんに事情を話し、車中観光しながら行くことになった。ドライバーさんにぜひにと勧められたのが「知覧特攻遺品館」で、下車して誰もいない館内をゆっくり見学した。
ここには陸軍沖縄特攻作戦で亡くなられた1,036名の隊員の遺影が、出撃戦死した月日の順に掲示されているとか。また、立体ケースには家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆などが展示してあったが、どれも涙なくしては読めなかった。10代、20代の青年が書いた筆文字とは思えぬほどみな達筆だ。両親、妻や子にあてた切ない思いの短い文に、より哀れさを感じた。
外へ出ると旧飛行場跡があり、空き地には草が生い茂っていた。その真ん中に1本の長い滑走路が海へと続いているのが見えた。ここから若者たちが飛び立って行ったのか、そう思うと胸がジーンと熱くなった。あたりの荘厳な雰囲気と静けさに心が癒された。
それから20年過ぎて、親友と南九州ツアーへ、また知覧を訪れることになった。「知覧特攻遺品館」は昭和62(1987)年2月、「知覧特攻平和会館」と改名され、新しい立派な会館になっていた。周辺には桜の木が植えてあり、土産物や飲食店がいっぱい並んでいる。展示品などはそのままだが、館内は近代的な空間に大変身、往時の面影はまったくない。旧飛行場跡も高い塀で囲まれて、滑走路はまったく見えなくなっていた。
往時の荘厳な雰囲気や静かさとは無縁の、にぎやかな観光地になっていたのにはがっかり。もう「特攻隊」を知っているのは私たち年代くらいだろうなあ。歴史が繰り返されないことを祈るのみだ!
いつか「観光地」のように人を呼ぶ材料になってしまう罪深い現代人。
知覧の旧飛行場での海へと続く1本の滑走路」記事を読むだけで飛び立って逝かれた10代20代の方々へ思いを馳せ涙が出ます。
祖国の為に殉ずる覚悟はこの方々で終わってしまったのでしょうね。
ひめゆり平和祈念館、戦没学生慰霊美術館無言館
広島平和記念資料館どれも尊い命の犠牲の上に
有ることを忘れず敬虔な気持ちで訪れたい場所です。
故に、戦争体験にピンと来ない子供達も多くなった。
わたしの場合、学生の頃は戦争をテーマにした小説や映画などがありましたが、今は殆んどそういったものは放送されないようですね。
「火垂るの墓」のような、アニメでも戦場の惨禍が伝わるようなものが「残酷過ぎる」といった理由で放映されないのが腹ただしいです。
今ウクライナやガザなどで起きている戦争が、日本でもあったという事、多くの方が犠牲となり、戦災孤児として苦労されてきた方がいらっしゃったことを、「伝える」という事は難しいですね。
私が二度目に行ったのはちょうど桜の時季で、はらはらと散る桜花になぜか物悲しくなりました。
ぞろぞろと歩く観光客と一緒で、立ち止まってゆっくり感慨に浸ることもできませんでした。
広い草原のまん中に、海まで続く1本の滑走路、あの光景は絶対に忘れられません。また遺品館の前庭にポツンとおかれていた古い特攻機は、今では新館内の一隅に展示されていました。だが片道飛行のためだからか、なんともお粗末で、まるでおもちゃのように見えました。
昔のひっそりとした「遺品館」が懐かしく、今でもよく覚えています。
80年前のことを覚えているのは私の年代くらいでしょうね。戦争があったことを知っている人は少なくなり、残るのは記憶と遺品だけでしょうか。
私でも覚えているのは戦後のことだけ。岡山駅周辺に戦争孤児がいっぱいいました。昔は一晩中駅の構内が開いていたので、孤児たちはそこで夜を明かしていたようです。
トランプは24時間以内に戦争をやめさせると言いましたが、大ぼらもいいとこ。戦争がそんなに簡単に終わるものだったら、だれも苦労しません。
特攻隊の話にも我々は今でも「胸痛むシーン」ですのに観光の目玉になるなんて・・。
もう首相はじめ国会議員でも「あの闘い」を知る人は「歴史」の出来事の一つとしてでしょう。
私の記憶は実体験か聞きかじりか、よくわかりませんが、確かにあったことです。80年も経て覚えているのは我々年代が最後、語り部も少なくなっているようです。観光地としてにぎわってくれないと記念館の維持ができなくなるという現実が寂しいですね。
そう国会議員はみんな戦後生まれ、何不自由なく大人になった政治家たちに何が分かるというのでしょう。しっかりしてよ!