つれづれに 

老いてゆく日々、興味ある出来事に私見を添えた、オールドレディーの雑記帳です。

なつかしい「和文タイプ」・・・

2006-11-15 | Weblog
 13日のテレビ東京系「徳光の時空タイムス」の番組中で、「和文タイプ」という、なつかしい言葉を耳にした。昭和55年に和文タイプ団体競技の部で27連勝した金沢の尾山台高校の、個人の部でも優勝した当時の3年生エースのその後を訪ねるというものである。

 今の若い子に「和文タイプって知ってる?」と聞くと、みんな「知らない」という。今のパソコンとは比べ物にならない熟練度が要求される、戦前戦後を通じて印刷業には欠かせない機器であった。私の商業高校時代にも選択科目にあったが、本格的にタイプを習い始めたのは昭和48年2月、32歳にして一念発起したのである。
 最初は文字の配列表を前に、新聞記事を見ながら指で文字を探す練習から始まった。文字配列表は、ひらかな・カタカナ・数字・記号などが中心にあり、左右に第1水準の漢字が、イロハ順に並べてある。この活字配列は向こう向きで、パソコンのキーボードを反対側から見るのと同じである。だから、基本盤面だけでも1000字を越える中から、適切な文字を探して一文字ずつ打つため、相当の記憶力が必要であった。
 やがて機械を使って練習が始まったが、文字の配列が覚えられないと、漢字1字を探すのにうろうろしてしまう。昼は機械で、夜は配列表で一生懸命練習して、入学して2ヶ月くらいで全国検定3級の試験に合格することができた。試験は10分間に、正確に何字打てるかのスピード問題・作表問題・筆記問題の3種目である。
 パソコンのワープロのように、ひらかなで打って変換すれば熟語が表示されるというものでなく、熟語は1字1字打つので、読みが分からなければ打つことができない。予備活字を入れると活字の数は3000字以上あり、その中から文字を探し出すのは容易なことではなかった。また、文字盤の持ち運びは不便で、盤をひっくり返して、それを並べ直すのに何日もかかったこともある。
 タイピストになろうと上級試験を目指したが、そのスクールが出版業を兼ねており、印刷製版の仕事をやらないかと請われて、自分で機械と文字盤・予備の活字(第2・第3水準)など一式を購入したが、機械が25万円、その他の活字・備品をそろえて40万円近い金額だった。しかし、自宅で始めた製版作成の仕事は、他所からも受注が来るようになり、やがて締め切りに追われるまでになった。昭和50年始め頃、当時女性が勤めても給料はしれていたが、私は特殊な技能のおかげで投資した金額などなんでもないくらい稼いでいた。おまけに自由業なので時間が自由にできたことは有難かった。
 その頃、英文タイプも習い、英文テストの問題集などを打っていたが、和文タイプに比べるとキーの数が少なく、キーの配列は現在のパソコンのキーボードを同じであり、和文タイプより楽であった。 
 欧文タイプに比べて、機構が複雑で操作に熟練を要し、価格も高価であったため一般家庭にまで普及することはなく、会社、役所、印刷所等での使用に限られていた。昭和和40年代にはタイピストは女性の花形職業の1つであった。しかし、日本語ワードプロセッサーが普及し始め、和文タイプは徐々に姿を消していった。そして、ワープロ・パソコンと機器を替えて引き続き仕事は続けていたが、やがて、学校・会社・家庭にもパソコンが普及し、昭和72年税務署に廃業届を出した。そして現在、週3日のパートで、相変わらずパソコンと格闘している。もう忘れかけていた遠い昔のことだが、懐かしく思い出した。
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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
懐かしい思い出 (野村敏子)
2006-11-27 01:24:51
こんばんわ。今和文タイプの事を拝見しました。私も
10年勤務した会社で、このタイプ
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