昨日、何気なく新聞を見ていたら、演奏会の宣伝が大きく写っていたのが目に入った。都響こと東京都交響楽団によるマーラー・ツィクルスというのをやっているらしい。なんと運がよかったことに、今日、みなとみらいホールの公演が行われ、しかも席も余っているということを知った。指揮者はエリアフ・インバル氏、演奏は東京都交響楽団。インバル氏はマーラーやブルックナーに定評のある指揮者。twitterなどでもよい情報が流れていたうえに、主人もぜひ聴きたいと言った。私もマーラーの「巨人」は思い出もなじみもある曲だった上に、マーラーの生演奏をぜひ聴いてみたいと思った。急遽行くことにした。
演奏者、曲目は以下の通り。
指揮:エリアフ・インバル
管弦楽:東京都交響楽団
ソリスト:小森輝彦(バリトン)
さすらう若人の歌 バリトン:小森輝彦
Ⅰぼくのあの娘が式をあげる
Ⅱ野に出かけたよ 朝露まぶし
Ⅲもえたぎる刃が ぼくの胸の内にはある
Ⅳぼくのあの娘の 青い双の目
休憩
交響曲第1番「巨人」
第1楽章 ゆっくりと、引きずるように
第2楽章 力強い動きを持って、急がずに
第3楽章 厳かに威厳をもって、引きずらぬように
第4楽章 嵐のように激しく
プログラムの解説にこう書いてあった。与えられた形式の範囲内で言いたいことをまとめきる作曲家と、書いているうちにどんどん言いたいことが膨張して、収拾がつかなくなってしまいがちな作曲家がいる、と。そしてマーラーは後者だと。強く同感。作曲年代、初演の年代と独唱者、指揮者、楽器編成もきちんと書いてあり、解説文もいいと思っていたら、なんと西洋音楽史について鋭い見解を示している岡田暁生氏だった。
さすらう若人の歌は初めて聴いた曲だ。マーラーの処女作であり、「巨人」と双生児のような関係にあると書いてあったが、Ⅰの曲からいきなり「巨人」のモチーフが登場したのには驚いた。祝祭とはいえ、いとしい人の婚礼でどことなく悲しくきしんだような雰囲気だった。Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの曲とも、マーラーらしいモチーフがあちこちに散らばっていて親近感がわいた。今後のマーラーがどのようになっていくかという芽のような雰囲気がよく出ていた感じがした。
交響曲第1番「巨人」はるかかなた遠方でかすかなpp。何の楽器だろうと思ってみたらヴァイオリンがかすかな音を鳴らしていた。そこからテーマが登場するまでの絶え間なく鳴りつづけるppやpの抑えた感じがたまらなかった。次第に解放されまろやかなテーマへと入っていくまでの過程が。。。そして解放!オーボエによるかっこうの歌声が美しい。オケなので当然特定の場所に楽器が配置されていて配置されたあるべき場所から立体的に音が鳴っていてしっくりとしたものになっていた。楽器の配置による音響効果もマーラーは考えながら作曲していたのかもしれない。音楽の森のステージだった。
スラブっぽい弾むような雰囲気ではじまる第2楽章。大好きな楽章だ。第1楽章からほとんど切れ目がなく、アタッカで始まったところからかっこよかった。その後もずっしりとしながらも躍動感にあふれていて、まさに生の歓びを体全体で表しているような感じがした。インバル氏は非常にめりはりのあるパリッとした動きをしており、その彼の動きから伝わる思いをオーケストラの方たちがしっかりキャッチしているのが感じられた。ホルンのざらざらした音(ミュート)や、弦楽器をたたく音が登場するなど遊び心が感じられた(マーラーがそのような指示を出していたのだろうかが非常に気になるところ )音楽の歓びが全体からずっしりと伝わってきて、私も思わず体を動かしてしまった。
しばし間の後第3楽章。有名な葬送行進曲。この曲を聴くと映画「マーラー」を思い出す。フランス民謡の「鐘がなる」を不気味な短調にしたようなインパクトの強さが、話の不穏な進展とぴったりで非常に印象が強かった。この曲、出だしはコントラバス、そしてファゴットなんですね。楽器のことは全く意識せずに聴いていたのだが、実際に見てみて、どんな楽器で演奏されているのかが分かってよかった。インバル氏、両手をあげて思いっきり広げられたりと、抽象的な指示を出していた。指揮者は単に拍子をとるものではなく、イメージをその瞬間瞬間で伝えるということをしているのだと痛感した。もちろんその前に綿密なリハーサルがあると思うが、それでも、やはり、指揮者が体全体から瞬間で放出するイメージや言語による力の大きさが感じられた。退屈しやすい楽章とも言われているが退屈どころかすっかり楽しみながら聴かせていただいた。
そして第4楽章!プログラムの解説には「冒頭における、ナイフを自分の胸に突き立てるような第1主題の阿鼻叫喚」と書いてあったが、もう、この阿鼻叫喚から盛り上がるところが好きで好きで、今回も祈るような気持ちで聴いていたらやってくれましたよもう。涙が出そうでたまりませんでした。そこからは音楽の流れにすっかり乗せられ我を忘れていた状態。ここまで甘くなってもいいのかと思えるようなやさしく美しいメロディーが天から降り下りてきたり、かと思ったらそれまでの甘さを遮断すべく厳しく激しいシーンになったり。知っていたはずのシーンだが、それぞれのシーンの動きが耳だけでなく体全体からしみ込んでいくようだった。インバル氏と都響のメンバーたちのエネルギーと想像力をふんだんがでていたような、そんな演奏だったように感じた。
マーラーの「巨人」は、感情の振れ幅も、音の振れ幅もここまで大きい曲だったのか、と感じた。CDでも、曲の壮大さは感じられるけれども、実際の音の振れ幅を正確に感じ取ることはできないのかもしれない。音の遠近感や振れ幅を肌で感じるのは生演奏が一番だと、実感してしまった今日の演奏会だったのだった。
音楽で大切なものは伝えたいものをはっきりとさせることだというのも感じた。インバル氏はそれをはっきりと持っていて都響のメンバーに明確に伝えていた。そのためめりはりと立体感のある演奏になっていた。
演奏会終了後は割れんばかりの拍手。オーケストラが去った後も拍手は鳴りやまず、指揮者のインバル氏が再登場したときは再び拍手。本当に終わるのが名残惜しい演奏会だった。あの巨人がリピートされたらいいのに、と思ったぐらい。
オーケストラに詳しくない者の、思いのたけを書いた感想文なので読みにくいところが多々あると思いますがご了承ください。
この瞬間、マーラーと都響とインバル氏のファンになってしまったのでした。オケいいなあ、もっと聴きたい、しょっちゅう聴けたらいいのにと思ったのでした。
かといってピアノを放置というようなことはしませんのでご心配なく。