おとといの朝、NHKの衛星放送で、「グレタ・ガルボ――秘密の恋」を観る。
いわずとしれた1920年代の美のアイコンであるガルボ。 その伝説的な美貌や、謎めいた人生と相まって未だに人々の関心と憧れを引き寄せてやまない存在である。
彼女のことは、ハリウッドスターとしての栄光を握る前の極貧の少女時代、映画界を去っての謎めいた隠遁生活……と一通りのことは知っていたのだが、やはり北欧の白夜のような神秘のヴェールがかかっていたことは否めない。だから、だいぶ以前、古本屋で入手した、「グレタ・ガルボ その愛と孤独」(確か、こんな題名だったと思う)上下2巻ある伝記本は、彼女の虚像が暴かれたようで、かなりショックだったもの。
伝記によれば、スウェーデンの最下層民の住む地区に生を受け、両親はまったくの無教養であった(父親は、道路掃除夫、母親も家庭の掃除婦)。おそらく、育ったアパートも、スラムに近い貧民窟であったに違いない。
ガルボの個人的友人だったという作家(といっても、かなり訳ありの人物であるらしい。この名誉棄損とでもいわれかねない伝記を残した後、謎めいた死を迎えている)は魔術的とさえいえる筆力で、少女時代のガルボの苛酷な生活を描いている。
その伝説的な成功と輝かしいスタア生活――彼女が銀幕を去ったのは、はっきりと理由が書かれていないが、晩年の彼女がその名声を利用して、金持ち連にたかる生活をしていたことが辛辣に描かれている。作家の想像力が見た、ガルボ自身の述懐として「私は、漂流しているようなものだ。年を取るにつれ、私は人に好かれない人間になっていった」というシーンがあったと記憶している。
ガルボは、華やかなロマンスが幾度もあったものの、生涯独身で夫や子供を持つこともなかった。世を去った時、84歳――36歳でスクリーンを去ってからの、永すぎる余生を彼女はどんな思いで生きていたのだろう?
哲学者ロラン・バルトが形容したように、人間の顔を越えた存在といえるガルボの美。私は、ガルボと聞くたびに、アンデルセンの童話「雪の女王」を思い浮かべてしまうのだが、あまりに完璧な美は、人を聖域に閉じ込めてしまうのかもしれない。
本の終章で、ガルボはスイスの村に隠遁している。「アルプスの花々に魅せられているからには、アルプスの一隅で花を枕にして、青空の下で永遠の眠りにつくのも悪くないと思った」とガルボは言うのだが、果たして彼女は幸福だったのだろうか?
私はロミーシュナイダーの伝記も持っているのだが、そこで伝記作家は「人々は映画スターの伝記を読みたがる。すべてを手に入れながら、その実何も手にいれられなかった人の物語を」と記していたが、これこそが真実かもしれない。
さて、このNHKのTVでは、もっと素朴な愛らしい素顔さえ持つガルボを見ることができる。大スターになる前のスウェーデン時代の、彼女の恋人――このラッセという男性は、現在では詳しい足跡をたどることもできない、秘密の恋人であるらしい――にあてて書いた手紙を読むと、この美神が、温かい血の通った女性であることがわかって、新鮮な驚きが。
そして、少女時代のガルボは太って、田舎臭い娘であったことも面白い。サンドリヨン(灰かぶり姫)が、魔法によって舞踏会に出かけていくように、ハリウッドの魔法がかけられたに違いない。
学校教育を受けられなかったことがコンプレックスだった、とガルボの知人は述懐していたが、私は彼女は極めて知的な女性だったのではないか、と思っている。だからこそ、夢のようなスター生活を惜し気もなく捨てられたのだろうし、「ハリウッド--あそこは、私が人生を浪費したところね」という肉声が残されているのだろう。そして、子供時代の辛酸が、スター生活や富、といったものに、醒めた距離感をもたらしたのだろう、とも思う。
ガルボの顔を今一度、眺めてみる。あらゆる人々が言ってきたように、女性的要素と男性的要素の溶け合ったマスク。20世紀のはじめの女性とは思えないほど、現代的で、未来的な感じさえする。その表情に漂う「謎」は、モナ・リザの微笑のようだ。
彼女に比べると、リズ・テイラー、ヴィヴィアン・リー、マリリン・モンローなど映画史を彩った美女たちさえ、「昔の人の顔だなあ~」と感じてしまうほど。
オードリー・ヘプバーンがそうであるように、グレタ・ガルボも古びることを知らないのでしょう。
宇宙飛行士の女性をガルボが演じても、違和感ないだろうなあ、きっと。