映画「アントニーとクレオパトラ」を観る。かの名優チャールトン・ヘストンが自身で主演・監督も兼ねたという力作。
「ベン・ハー」や「十戒」、「エル・シド」で忘れがたい名演を残してくれたチャールトン・ヘストンがどんなアントニーを見せてくれるのか、とわくわくしながら、自室のDVDプレーヤーでミニ・ロードショー。
――やっぱり、見ごたえ十分で、一度も退屈することがなかった。やっぱり、スケールの大きな歴史映画って、素晴らしい!
と思うのも、古代ローマが好きで、「クレオパトラ」に至っては、リズのものはもちろん、ヴイヴイアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」を何度も観ている私だからかもしれないのだけど。
この映画は、シェークスピアの戯曲を忠実になぞったものだそう。だから、ストーリーや展開はよく知っている通り。実は、父がシェークスピアの戯曲集をシリーズごと持っていたこともあって、そのエンジと白の二色がアクセントになっている本を、私は小学生の頃から何度も読んでいた。もちろん、子供向けなどではなく、登場人物のセリフは格調高く、扉ページには、本国英国で上演されたとおぼしきモノクロの舞台写真が幾枚もあったもの。
その頃の記憶を懐かしく思い出してしまった私。あの扉の写真には、玉座に座って最後を迎えるクレオパトラの姿もあったなあ……と。「アントニーとクレオパトラ」は言うなら、滅びの美を描いた物語。アントニーは「あの若造」であるオクタヴィアヌスに敗れて死に、ローマでさらし者になることを悟ったクレオパトラは自ら死を選ぶ。
しかし、ここでのアントニーはもはや英雄などではなく、すごく見っともないのだ。決死の戦いである「アクティウムの海戦」でも、臆病風に吹かれたクレオパトラの後を追って、味方を捨て敗走。クレオパトラ自殺の誤報に惑わされ、部下に自分を刺すことを命じるものの、アントニーにどうしても手を下せない部下は、自分自身に剣を向け死んでしまう。その時、クレオパトラがまだ生きていると知ったアントニーは、瀕死の状態で、彼女の元へゆく。最後は、彼女に看取られて死ぬ――冷徹で、情に動かされないオクタヴィアヌスとは何という違いだろうか?
クレオパトラやアントニー、オクタヴィアヌスがかくも、ドラマチックで波乱に満ちた物語を繰り広げていたのは、紀元前のことで、はるか昔のこと。だから、とっくに生身の彼女たちの面影を知っている者などいる訳でもないのだけど、興味深いのは歴史や物語が伝える彼らの人物像が、ぶれることなく、はっきりしていることだ。
つまり、クレオパトラは才気に満ち、妖艶で情熱的、アントニーは開放的で、明るい性格の将軍。対して、オクタヴィアヌスは冷静で、情に流されない。
この映画を観て思ったのだけれど、もしクレオパトラという稀代の美女がいなくても、結局アントニーはオクタヴィアヌスに負け、ローマの利権は、このシーザーの甥の手に渡ったのではないだろうか。
アントニーは人間的魅力はあるかもしれないけれど、そう賢いとは言えない――冷静に情勢を判断することができなかったから「アクティウムの海戦」という、不利なはずの海の戦いに挑んだのだから。どちらにしても、この時のアントニーは、すでにシーザーが暗殺された時、元老院議員の前で名演説を繰り広げ、ブルータスを死に追いやった時の彼とは違っていたはずだ。
対して、オクタヴィアヌスは堅実で、冷たいほど理知的。もう四十前とはいえ、有名な美女クレオパトラを前にしても、自分の勝利を飾るためにローマへ連れてゆくことしか考えていない。たしかに、このオクタヴィアヌスなら、大叔父シーザーの失敗を、胸に刻んで、「自分が皇帝だ!」と声高に叫ぶことはなかったろうし、大ローマ帝国を築くこともできただろう。
どこかで読んだのだけど、オクタヴィアヌス(もしくは、アウグトゥス)が七十歳も過ぎ、死ぬ何年か前のこと――彼はローマ帝国内の視察におもむいた。そこで、湧きあがる「アウグトゥス万歳!」の歓声。
ここで普通の皇帝なら、さもうれし気に手を上げて答えるところ、彼は「民衆に」の金貨の入った袋を渡すのだが、それが「たっぷりの褒美」というのではなく、きっちりとしたつつましい金額だったというところ。
う~ん、この嫌になるほどの堅実さが、大ローマを作ったのですね。
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