●寺島実朗の「朝鮮通信使」
『雨森芳洲(1)』のつづき。今回は岩波書店の『世界』、2014年4月
号に掲載されている-「朝鮮通信使」にみる江戸期の日朝関
係─17世紀オランダからの視界 (その21)-寺島実郎をもとに
雨森芳洲の思想的背景を考察した。前回の考察と重複すると
ころが多々あり、徳川幕藩体制→明治維新富国強兵政策(国
民皆兵役制導入、靖国官制神社→征韓論・朝鮮併合の歴史的
経緯を踏まえ「複雑に屈折する日本と朝鮮半島の関係を考え
る時、歴史の曲折を静かに確認する視界が大切」と結んでい
ることなど、同じ歴史認識に立つと共に、雨森芳洲の対朝鮮
外交の遺業への深慮をうかがい知ることができる。
冒頭、著者が「江戸期日本において287回行われた長崎オ
ランダ商館長の江戸参府と共に、多くの日本人が「外国」を
認識する機会となったのは12回行われた朝鮮使節一行の来
日であった。その大行列のインパクト、使節に象徴される良
好な日朝関係が明治期に反転していく歴史の断層には深く考
えさせられる」と吐露しているように日本側の歴史認識の転
換に焦点が当てられている。以下、その考察を順序追って見
てみる。
1. 朝鮮李王朝の世界観と日本認識
朝鮮李王朝は1392年に始まり1910年の日本による朝
鮮併合に終わるが、17~19世紀にかけては日本の江戸時
代と並走したことになる。その性格を理解するには、それに
先駆けて朝鮮半島を統一し五百年に亘って半島を支配した高
麗王朝を知る必要がある。高麗王朝はこ1259年にモンゴ
ルの侵攻に降伏し「モンゴル化」という苦難の時期に入る。
第25代忠烈王はフビライ・ハン(世祖)の実娘を王妃に迎
え、息子の第26代忠宣王もモンゴル女性を王妃としたため
第27代忠粛王に至っては「四分の三がモンゴル人の血」と
なってしまった。朝鮮史においては「日本征伐」とされる元
寇(1274年文永の役、1282年弘安の役)もモンゴル
支配下の高麗による日本侵攻でもあった。その後14世紀に
おける東シナ海は「倭寇」による無法の海と化すが、倭寇の
鎮圧に功績のあった高麗の将軍李成桂のクーデターによって
1392年に成立したのが李王朝であった。したがって李王
朝は徹底してモンゴルの影響を排除し、中国において再興す
る漢民族の明にアイデンティティを求める傾向を強めた。李
王朝が抱いたアイデンティティについて、河宇鳳は「自らを
中華と同一視して『小中華』と称し、中華である明と一体化する一
方、周辺国家の日本・女真・琉球を他者化し、『夷秋』とみ
なした」(『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』、2007年)
と述べる。
李王朝は室町期の「日本国王使節」を対等ではなく一段低く
見て接遇し、野蛮な「倭寇の巣窟」、文化的にも低い存在と
見ていた。17世紀に「中華」の中核たる明朝が衰亡し女真
(満州族)の清により消滅すると、朝鮮こそ中華の唯一の継
承者であり守護者であるという思い入れが強まり、「朝鮮中
華主義」との自我意識に埋没していく。この自我意識が近代
史における朝鮮の悲劇の伏線になっていくのである。
その朝鮮にとって豊臣秀吉による二度の朝鮮出兵(「文禄
・慶長の役」、朝鮮では「壬辰倭乱」)の衝撃は大きく「五
万人」ともされる捕虜を日本に連れ去られ、悲惨な消耗を強
いられた。
2.徳川家康の世界観を投影した朝鮮半島との和解
朝鮮出兵を巡る日朝間の緊張緩和が徳川政権の課題であっ
た。家康は慶長の役に反対し秀吉の死後前田利家と共に撤
兵を主導した。関ケ原の直後から対馬の宗氏に国交回復交
渉を指示、「内々に書を遣わして尋ね試み、合点すべき点
あれば公儀よりの命と申すべし」と、戦後処理に向かう姿
勢を示した。
宗氏は動いた。徳川政権と李王朝の間に入って双方の面
子を立て国交回復への道を探った。ここに「国書偽造とそ
の露呈」という事態が起こる背景があった。最大の懸案事
項は拉致された捕虜の返還であった。1607年に国交が
回復し、江戸幕府の体制になって最初の朝鮮使節が来訪す
るが、朝鮮側の呼称は「通信使」ではなく「回答兼刷還使
」であり、目的は日本側からの国書への答礼と倭情探索、
そして何よりも被虜入刷還にあった。事実この時1400
人もの捕虜を連れ帰っている。1617年、江戸期になっ
て二回目の朝鮮使節が来訪するが、この時も弓二人の捕虜
を連れ帰っており、通信使という呼称で「泰平の祝賀」と
純粋な交流促進の目的で朝鮮使節が訪れたのは第四回、1
636年のことであった。
朝鮮出兵の戦後処理という課題がいかに根深く日朝関係に横
たわっていたかを考えさせられるのが、1719年の朝鮮使
節(第8回)が引き起こした「方広寺大仏殿前招宴拒否事件
」で使節からすれば秀吉が建てた方広寺など参拝できないと
いうものであった。ここには高さ14メートルという京都最
大の大仏が存在した。秀吉が建立した大仏は慶長大地震で倒
壊、関ケ原に勝利した家康が豊臣の財力を削ぎ落す深慮で「
亡父供養」の名目で秀頼に再建を促した因縁の大仏だった。
問題は大仏殿の近くに朝鮮出兵時に戦果の象徴として朝鮮兵
士の耳や鼻を削いで持ち帰ったという「耳塚」があり、使節
訪問に際して幕で遮蔽するなどの配慮がなされたようだが
恒例の大仏殿見物は1748年の第10回使節以降中止とな
った。
対馬の宗氏にとって朝鮮半島との貿易の独占は極めて重要で
あり、日朝の国交修復にも真剣にならざるをえなかった。1
809年には貿易協定を実現し、釜山には倭館と呼ばれる貿
易の出先を設け、「10万坪、五百人」という体制で布陣し
た。江戸期を通じて朝鮮からの重要な輸入品は京都西陣に供
給する中国産の絹の白糸と朝鮮人参であった。朝鮮人参は
ハ代吉宗によって国産化への試みがなされるが、高級な薬品
として珍重され宗氏に大きな富をもたらした。何としても李
王朝と徳川との関係を密にしたいという宗氏の思いの強さが
「柳川一件」といわれる国書密造事件が起こる背景にあった
。
宗氏は幕府から李王朝への国書を偽造してまで日朝国交回復
を図ったのである。それが貿易再開、朝鮮答礼使節の来訪を
もたらしたのだが、思いもかけぬ形で国書偽造が露呈する。
それが「柳川一件」である。1633年、対馬藩家老柳川調
興が主家に反逆し幕府に国書偽造の顛末を訴え出た。柳川は
対馬藩士であるとともに直参旗本という微妙な立場にあり、
徳川が対馬を抑えるために送り込んだ存在でもあった。16
35年3月、事態は江戸城の将軍家光の前での裁決に持ち込
まれ意外な決着を迎えた。対馬藩の取り潰しも予想されたが
柳川は津軽に流罪、柳川の指示で国王印の偽造を行った松尾
七衛門は死罪、藩主宗義成は不問、藩主の勝訴であった。既
に三回の使節を受け入れ軌道に乗り始めた朝鮮外交の安定的
継続を優先させ、そのための対馬の役割を重視したのである
。ただし、それ以降対馬の動きを掌握し対朝鮮外交力を高め
るべく、朝鮮との意思疎通能力を持つ漢籍に明るい京都五山
の優秀な僧侶を輪番で対馬に張り付かせた。対馬藩も藩儒を
召し抱え、教養の高い使節に向き合う体制を整えた。その代
表格が18世紀初頭の対朝鮮外交に足跡を残す雨森芳洲であ
る。
芳洲は木下順庵門下で新井白石とは兄弟弟子、対馬藩の真文
役(外交担当)として仕官、第八回(1711年)と第9回
(1719年)の使節に対応。『交隣提醒』を著し、誠心外
交の重要性など四十数項目を指摘した。漢籍のみならず朝鮮
語、中国語にも通じ高潔な人格は朝鮮側にも強い印象を残し
た。
江戸期の日朝関係を考える時、朝鮮王朝を揺さぶった東アジ
ア情勢の変化に目を向けておくべきであろう。日本との親交
を求めた朝鮮王朝の本音には背後に遣る満州族の後金の圧力
に配慮せざるをえない事情があり、対日関係を安定化させて
おきたいとの思いがあったことは間違いない。満州族を統一
したヌルハチが1628年に建国した女真は次第に明朝をも
圧迫して清を建国(1636年)し、中原に覇をなすに至る。
李王朝が後金そして清から受けた屈辱は尋常ではない。ま
ず1627年には三万人の後金兵力の侵攻を受け、16代仁
祖は首都満城から四〇キロメートルの江華島に避難、明との
断交を約束し講和を余儀なくされた。さらに1836年清に
国号を変えた満州族は12万人の兵力で侵攻、仁祖は満江の
辺で清の二代皇帝太宗の前に脆き屈辱の謝罪をさせられ、賠
償金と皇子三人を人質として瀋陽(当時の清の首都)に差し
出すことを強いられた。仁祖は憎しみに燃えて復讐を誓い、
この心理が日本との親交に向かわせたともいえる。「小中華
」をアイデンティティとする朝鮮王朝とすれば、「中華」本
体の明が滅びていく混迷の中、必死に後門の安定を図らざる
をえなかった。
3.朝鮮通信使の意味-近代史に投げかけたもの
通信使は江戸期に始まったのではない。1413年、室町幕
府将軍足利義持の時朝鮮王朝は「倭寇禁圧の要請と国情調査
」を目的とする通信使派遣を決定したが正使の病気で中止。
しかし1596年の派遣まで8回にわたり使節を送った。
1596年の使節は文禄の役後の講和交渉が目的で、小西行
長や宗義智が尽力したが秀吉との謁見はかなわず空しく帰国
した。江戸時代の通信使は正確には再開である。現在日韓共
に研究が深まっており、李元値・大畑篤四郎他『朝鮮通信使
と日本人』(学生社、1992)、『大系朝鮮通信使・全八巻』
(明石書店、1996)、仲尾宏『朝鮮通信使と江戸時代の三都
』(同、1993)、辛基秀『朝鮮通信使』(同、1999)、西村
毬子『日本見聞録にみる朝鮮通信使』(同、2000)等が示唆
的である。
間違ってはならないのは、通信使は朝貢使節ではなく、「通
信」とは信義と誠を通じるの意で、対等な友好使節だという
ことだ。既に述べたように三回目までの江戸期朝鮮使節は被
虜人の刷還が主目的だったが、次第に外交的意味だけでなく
文化的意義を大きくしていった。1811(文化8)年の最
後の通信使は人員も328人にとどまり対馬での国書の交換
で終わったが、それ以外は約5百人にも上る大型使節で、儒
学者・絵師や楽団まで加わって日本側の知識人と筆談唱和し
書画や贈答詩を残しながら文化交流を深めた。箱根湯本の早
雲寺には『朝鮮国雪峯』(書使として1643年と1665
年使節に参加した金義信)の墨跡が、品川の東禅寺にも雪峯
の『海上禅林』の書が残されている。新井白石も1682年
の使節に自作の『陶情詩集』を示して序文と蹊文をもらった
ことが木下順庵に注目される契機となり、幕府に登用される
道を拓いた。白石は1711年には通信使迎接役になり手腕
を発揮した。一行の楽団パレードは多くの日本人に衝撃を与
え、唐人行列、唐人踊、馬上才(曲馬)は今日の韓流ブーム
どころではない人気を博して各地の行事や芸能に影響を残し
た興味深い偶然もあった。第四回使節(1636年)の行列
を江戸参府中のオランダ商館長クーケパッケルが目撃し、「
行列が通り過ぎるのに五時間かかった」と記述している。オ
ランダ商館長一行の参府は、あくまで株式会社の地域代表の
表敬訪問だが、朝鮮通信使は国家を代表する外交使節であっ
た。
この良好な日朝関係が、皮肉にも明治維新以降の関係の暗転
をもたらす。「親徳川」の空気を内在させた李王朝にとって
明治維新は薩長藩閥による武力クーデターであり、新政権の
承認には躊躇が生じた。それまでの国書とは異なる書式に違
和感があり、それが意思疎通における誤解を増幅する事態も
起こった。日本側には「無礼だ」とする認識が高まり、早く
も明治六年に「征韓論」が登場することとなった。李王朝の
悲劇は、隣国日本が列強模倣の「明治近代化路線」を走り「
富国強兵」へと進む中、小中華意識を潜在させながら自己変
革へと進みだせなかったことである。朝鮮半島を取り巻く列
強の利害に振り回されて迷走を続け、ついには日本による「
朝鮮併合」という事態に追い込まれ歴史の被害者となってい
く。今日に至るまで複雑に屈折する日本と朝鮮半島の関係を
考える時、歴史の曲折を静かに確認する視界が大切である。
【脚注及びリンク】
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- 平井茂彦(2006) 「雨森芳洲」サンライズ出版
- Web版 図書館 しが、No.173,2007.08.01
- 『交隣提醒』に現れる雨森芳洲の外交の心得、
伊藤大悟 - 雨森芳洲『交隣提醒』から 長崎県対馬 : 名言巡礼
- ぶらっと彦根、2005、雨森芳洲「誠信の交わり」
- 雨森芳洲さんが書かれた「交隣提醒」とはどの
ような内容なのでしょうか? - 朝鮮通信使に息づく「誠信の交わり」、信原修
- 木下順庵(1621年7月22日-699年1月23日)
- 朝鮮通信史、Wikipedia
- 小中華思想、Wikipedia
- 仲尾宏「延享度通信使の事跡と話題」(『大系
朝鮮通信使』第6巻 明石書店、1994) - リチャード。アンダーソン「征韓論と神功皇后
絵馬」(『列島の文化史』第10巻) - 島田昌和「第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢
栄一」 - 海游録―朝鮮通信使の日本紀行、東洋文庫
- 東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
- 「朝鮮通信使」にみる江戸期の日朝関係─17世
紀オランダからの視界 (その21)、寺島実郎 - 朝鮮王朝時代の世界観と日本認識、明石書店
- 雨森芳州再考、近世日本の「自-他」認識の観
点から、2006.02.05 - 混一疆理歴代国都之図、Wikipedia
- 文禄・慶長の役、Wikipedia
- 方広寺大仏殿跡で巨大柱穴確認,2013.10.31
- 朝鮮通信使の足跡をたどる、朝鮮通信使縁地連絡
協議会
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