国道三六五号を走っていると、湖北町山本に「山本山
城跡」と記された道路標識が目につく。戦国時代の城跡
の標識は大変珍しく、つい、国道を曲がってしまいたく
なるほどだ。
山本山は琵琶湖に突出した山塊の先端部を指しており
その姿は大変美しい,朝日山または阿閉山とも呼ばれ、
かつては西側および南側では湖沼が山麓にまで追ってお
り、今以上に要害の地であったことが知られる。この山
本山へは山本の集落から登山道がついている。まず登っ
てゆくと平坦な山腹に到達する。ここには県指定史跡の
若宮山占頂がある。全長52メートルの前方後円頂で四
世紀後半に築造されたものである,ここから山道は一気
に急になる。登ること約30分ほどで山本山に到着する。
ここからの景色は絶景で、眼下に奥琵琶湖が一望でき、
山道の疲れも吹っ飛んでしまう。さらに山頂に残る山本
山城跡の遺構を見ると疲れどころか、遂に元気になって
くる。
さて、山本山城については平安時代末期に以仁王の平
家追討の令旨に応じた源氏方山下兵衛尉義経が籠もった
「近江山下城」がこの山本山城であったと考えられてい
る。戦国時代には、京極氏の被官である阿閉氏が本拠と
していたが、永正年間(1504~1521)には尾上
城の浅見氏が詰城として用いていた,浅見氏は一時小谷
城の浅井亮政と反目していたが、次第に浅井氏の勢力下
に組み込まれ、小谷城の支城となる,
浅井長政は再び阿閉氏を山本山城に配備し、小谷城を
防御する最重要拠点とした,元亀元年(1570)、浅
井長政は突然織田信長に反旗をひるがえす 信長は同三
年に山本山城の攻撃を開始する。『信長公記』には「阿
閉淡路守楯龍もる居城山本山へ木下藤吉郎差し遺はされ
麓を放火候、然る間城中の足軽百騎ばかり罷り出て相支
へ候。」とあり、山本山城の抵抗を伝えている。しかし、
翌大正元年に阿閉氏は織田方に降り、その結果浅井長政
の立てこもる小谷城は孤立し、ついに落城してしまった。
小谷籠城戦にとってこの山本山城は非常に収要な位置を
占めていたのである。その後阿閉氏は秀吉方に属したが、
大正十年(1582)の本能寺の変後、明智光秀方につ
いたという。「浅野家文書」に所蔵されている秀吉の波
状には阿閉氏一族の頚を刎ねたことが記されており、大
出ト年頃に滅亡したようである。阿閉氏の滅亡とともに
山本山城も廃城となったようである。
その構造については主郭の周囲に土塁を巡らせ、雨東
・北西・東側の三ヵ所に虎口を設けている。その規模は
東西23メートル、南北約38メートルを測る。この
主郭の南側には南北70メートル、東西約40メートル
を測る巨大な副郭が設けられているが、東辺を除いて土
塁もなく、なによりも曲輪内が平坦ではなく、南方へだ
らだらと下がっており、曲輪としては様を成さない。こ
れは近年ブルドーザーによって破壊されたしまったため
である。主郭東側約50メートル下がった尾根上には土
塁で囲まれた小削平地が設けられている。この地は西阿
閉と山本へ下りる尾根筋の分岐点に当たるため、北国街
道を監視する重要な場所であった。主郭の北方は細い尾
根筋を堀切、曲輪を交互に配置して防御を固めている。
その数、堀切六条、曲輪八ヵ所におよんでいる。曲輪に
はやはり土塁が巡らされている。
このように土塁を多用している点や、後方に堀切を多
用する点などから、現存する遺構は戦国期後半に築かれ
たものであることはまちがいない。おそらくは元亀三年
の小谷城攻防戦に伴って改修されたものと考えられる。
なお、この山本山は賤ケ岳と連なっており、賤ケ岳ま
での尾根道がハイキングコースとなっている。七キロば
かりであるがアップダウンもなく、大変歩きやすい。途
中の尾根筋には国指定史跡古保利古墳群が位置してお
り、前方後円墳や円墳などが点々と築かれている。それ
らを散策しながら賤ケ岳へ出て、リフトで下って帰るの
も楽しいコースである。
(中井 均)
出典:
【エピソード】
【脚注及びリンク】
---------------------------------------------
1.阿閉貞征、Wikipedia
2. 源平合戦に始まる城史、山本山城址
3. 近江 山本山城(別名 阿閉城)
4. 山本山~賤ヶ岳(421.1m) - 宇賀神社 ~ 余呉湖畔
5. もう一人の義経、近江源氏山本義経(その1)
6. 近江歴史回廊倶楽部 もう一つの近江源氏
7. 阿閉貞大、Wikipedia
8. 須賀谷温泉のブログ - 山本山城跡
--------------------------------------------------