長比城

2014年04月25日 | 滋賀百城

 長比城は、近江の秀峰、伊吹山より派生する尾根上で、
滋賀県と岐阜県にまたがる野瀬山の山頂に位置している。
古来この辺り一帯を「たけくらべ」と称した。いつ
頃か
ら称しているのかは定かでないが、一条兼良の『藤
川記
』(文明五年)に「たけくらべというは近江とみの
との
山を左右に見て行所なり」とあるように、長比城眼
下を
通る東山道(中山道)の両側(南北)にそびえる
山々が
その背丈を競い合っているようであることから、
その名
がつけられたのであろう.つまり、長比城は東山
道(中
山道)を押さえる要害の地に構えられているので
ある。

 さて、戦国時代の近江は江南を守護である佐々木六角
氏が治め、江北を佐々木氏の流れを汲む京極氏が領国と
していたのである,さらに、戦国期の後半には京極氏の
内紛によりその家臣であった浅井氏が台頭し、江北を支
配していったのである,こうした江南と江北の境に加え
て、湖北地方、特に現米原市は東側で美濃国(岐阜県)
と接する国境地帯でもあった。このため、こうした国境
地帯は、領国の境目として「境目の城」「国境の城」と
いった国境警備の軍事拠点の山城が構えられた,長比城
もその一つである、



長比城跡東側曲輪

 長比城が「境目の城」「国境の城」としてその性格を
一層明確にしていくのが、元亀元年(1570)の浅井
長政による織田信長の離反である、元亀元年四月、織田
信長は朝倉義景を討つため三万余の大軍を率いて越前に
攻め入り、金ケ崎城を攻略した。ところがこの時、信長
のもとに妹お市の方の婿である浅井長政が反復し、朝倉
氏と結び信長を攻撃してきたのである.信長は、朽木越
えで京都に逃れ、最大の危機を脱したのである。
 岐阜に戻った信長は軍勢を整え、元亀元年六月浅井長
政の討伐に向かった。これに対して、浅井・朝台車は、
美濃の国境に防御ラインを設けるのである。『信長公記
』(元亀元年六月条)には、「去程に、浅井備前越前衆
を呼越し、たけくらへ・かりやす両所に要害を構え候」
とある。信長の侵攻に対して、越前衆の力を借りて、長
比城・苅安城(ヒ平寺城)を築城したのである。しかし、
『信長公記』の続きには、「信長公御調略を以て、堀・
樋口御忠節仕るべき旨脚請なり、6月19年、信長公御
馬を出だされ、堀・樋口謀反の由承り、たけくらへ・か
りやす取物も取取へず退散なり、たけくらへに一両日御
逗留なされ、」とあり、守備していた堀秀村・樋口直房
は信長軍に内応し、浅井・朝倉両氏との思いとは裏腹に
両城はあっけなく落城するのである。



 長比城は、現在でもその姿をよく留めている。JR柏
原駅から中山道を東に向かい、JRの踏切(野瀬踏切)
を越えて更に東へ。左手にある神明神社の鳥居をくぐり、
突き当たり(ダム堰堤)の左に「長比城」の木札があり、
そこが登り口。山腹の秋葉神社から尾根伝い(踏み跡)
に登り、山頂の西側の曲輪に到着する。
 長比城の遺構は、大きく東と西の曲輪(郭)からなり、
「境目の城」に多く見られる、いわゆる「別城一郭」を
呈している。西側の曲輪は、東西約50メートル、南北
最長で約30メートルの規模を有している。特に残存状
況が良く、ぶ厚く高い土塁が巡り、東側にくい違いの虎
口を設け防御している。南側に数条の竪堀がある。東側
のくい違いの虎口を抜け、少し登ると東の曲輪へと続く。
西の曲輪よりひと回り大きく、東側の土塁はぶ厚く高い。
東側と北側にくい違いの虎口を設けており、東側(美濃
側)を意識した構造と呈していることが読み取れる。築
城に際して、越前衆によって工事が実施されていること
など、朝倉氏の築城技術を垣間見ることができる。

                   (桂田峰男)
 出典:  

    

 

 

【エピソード】

 

【脚注及びリンク】
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1.
こころに残る滋賀の風景 - 滋賀県
2.野瀬山-長比城址 - 山聲
3.滋賀県米原市 成菩提院 - Japan Geographic
4.虎御前山争奪戦
5.神明神社 - 万葉集を携えて

6.中仙道:柏原宿(滋賀県)(その1)
7.姉川の戦い - 戦国の姫たちの越前・若狭
8.
堀秀村
9.樋口直房
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