鎌刃城は、中山道の宿場町である番場の南東山中にあ
る。霊仙山系から西に突き出た比高約180メートルの
山頂に位置し、山麓の中山道や、周辺に点在する佐和山
城・菖蒲嶽城・太尾山城などを見下ろすことができるほ
か、湖北・湖東方面まで眺望が利く立地である。
鎌刃城の築城については斎場の土豪土肥氏によるもの
と伝わっていたが定かでない。文明四年(1472)に
坂田郡の今井秀道が堀次郎左衛門の龍る鎌刃城を攻めた
という記録が最古である。戦国時代の近江は江北の京
極・浅井氏と江南の六角氏が争う構図であり、当時の今
井氏は京極方、堀氏は六角方であった,鎌刃城は坂田郡
南部に点在する他の城砦群と共に、この南北両勢力の国
境に位置する「境目の城」として機能していたのである。
琵琶湖側に位置する磯山城・佐和山城・太尾山城に対し
て、鎌刃城は山間を抜ける中山道やその他の間道を監視
する役目を担っていた。
鎌刃城模型
堀氏や今井氏は坂田郡南部の国人で、南北抗争の中で
しばしば服属先を変えている,その度に鎌刃城では攻防
戦が行なわれた記録がみられるが、永禄二年(1559)
以降は浅井氏に属した堀氏が入城し、浅井方の城となっ
ていた,
元亀元年(1570)に浅井長政が織田信長に反抗す
ると、長政は織田方に降った堀氏に換えて百々越前守を
入れるが、姉川合戦後は信長が堀氏を入れている。天正
二年(1574)に堀氏が改易され、翌年に城内にあっ
た米穀二千俵が徳川家康に与えられた後は記録にみえな
くなり廃城になったようである。
鎌刃城は霊仙山の東尾根から派生する支尾根の東端に築
かれ、中山道の番場宿を見下ろす位置にある。番場宿は
西には琵琶湖の水運を利用できる朝妻港を控え、東は美
濃、南は京へと続く中山道と、木之元宿を経て越前に通
じる北国街道が交差する交通の要衝にある。
こうした要衝の地をめぐって、天文年間から永禄年間に
かけては江北の浅井氏と江南の六角氏の戦いが繰り返さ
れ、中山道に沿っては鎌刃城以外にも菖蒲岳城、太尾山
城、および地頭山城などが点々と築かれている。
鎌刃城は尾根頂部の主曲輪を中心として、北と東に延び
る尾根上には連郭式に曲輪が配され、南尾根は幅2mほど
の痩せ尾根にもかかわらず八条の堀切を入れるなど徹底
した防御が図られている。鎌刃城の名前は、この尾根の
形状が鎌の刃状であることに由来しているのかもしれな
い。
主曲輪から延びる北尾根には小曲輪も含め7つの曲輪を
階段状に築き、尾根の先端は3条の堀切で処理している。
また、西に延びる尾根にも小曲輪を連ね、堀切と切岸に
よる防御が主体であるが、尾根の先端部斜面には三条の
畝状堅堀を配するなど、近江では数少ない防御がなされ
ている。
こうした連郭式の縄張りを持つ鎌刃城が、他の中世城郭
と一線を画するのは、石造りの城という点にある。
1999年から発掘調査が実施されるまでは、石垣といえば
主曲輪から東に延びる尾根先端の曲輪(ここでは、仮に
三の曲輪としておく)の南斜面に高さ3~7m、長さ40m
ほどの石垣(通称:大石垣)だけであった。
しかし、1999年から2002年までの3年間に渡る発掘調査
で主曲輪周囲を石垣で固め、虎口は山城としては異常に
大きい石造りの枡形虎口を備えていること、また三の曲
輪にも石造りの枡形虎口を有するなど、要所要所は石積
みで固められていることが判明。
出典:
【エピソード】
【脚注及びリンク】
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1.鎌刃城コース|戦国の舞台 近江を歩く - 滋賀県
2.戦国の山城・近江鎌刃城
3.鎌刃城公式サイト
4.鎌刃城の近江戦国史における歴史的な意義づけ
5.箕浦の合戦
6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
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