太尾山城はJR米原駅の東側にある比高約170メー
トルの山上にある,
築城は在地の土豪米原氏によって行われたと伝えられ
ているがその詳細は不明である。戦国期の文明三年(1
471)に美濃の斎藤妙椿が近江に侵入し「米原山」で
合戦が行われたとするが、この「米原山」が「太尾山」
とみられている。山手を通過する中山道(東山道)と共
に米原には湖岸沿いを通過する街道があり、近江の南北
をつなぐ交通路の中継点となっていたのであろう。
天文七年(1538)の六角氏による江北攻めでは、
湖西から参戦した永田伊豆守や能登殿が「太尾」に着陣
している。この後、永禄年間にかけて太尾山城は江北の
京極・浅井氏と、江南の六角氏の国境線に位置した「境
目の城」として佐和山城や鎌刃城・菖蒲嶽城・磯山城・
朝妻城など共に攻防が繰り返された。
大尾山城には浅井方から中嶋宗左衛門(浅井郡)や、
六角方から佐治太郎友衛門尉(甲賀郡)や吉田安芸守(
蒲生郡)など、領国の後方から城主が派遣されていた。
天文二十一年の六角義賢から佐治氏への書状には「為太
尾山番勢、入城辛努候、傀気遣肝要候」とあり、長期に
わたる敵前での過酷な任務の様子がうかがえよう。この
年、京極高広は今井氏に大尾山城攻略を命じたが失敗し
ている,永禄四年(1561)に吉田安芸守が守備する
太尾山城を浅井方は磯野員昌・今井定清か夜襲によって
攻略したが、今井定清か同士討ちで戦死している(『嶋
記録』)。
浅井氏の下では中嶋宗友衛門が在城していたが、織田
信長の近江進攻と南北抗争の終結によって境目地域は消
滅し、元亀争乱によって大尾山城も役割を終えて廃城と
なったようである。
城は北城と南城からなる「別城一郭」と呼ばれる構造
で、共に尾根上に曲輪や土塁・堀切を階段状に並べてい
るが、両城の間は自然地形を残している。
北城は北・東面を土塁で囲んだ主郭を中心に、北側は
堀切こそ無いものの土塁囲いの曲輪が防御を固めている。
主郭から東へ派生する尾根続きへは堀りと腰曲輪を設け
て遮断する。主郭から南は三段ほど曲輪が並び端を堀切
で遮断している。主郭からの眺望は伊吹山や湖西・湖北
のほか、鎌刃城・佐和山城を望むことができる。
太尾山城跡を望む
南城はやや小さい山頂の主郭北側に土塁囲いの曲輪(
副郭)を設けている。いずれも方形を指向した平面形
で他の曲輪からの比高差も大きい。その北側には虎口を
持った曲輪が置かれ、北・東の尾根続きに配した堀切へ
斜面が続いている。南側へはやや削平が不完全な曲輪が
連なり西への尾根続きをかなりの落差を持った堀切によ
って遮断している,
こうした土塁囲いの曲輪や、堀切による厳重な遮断、
曲輪の方形平面の指向は近江の中でも比較的進んだ縄張
りであり、境目地域に最新の築城技術が役人されていた
ことがうかがえよう。先述の別城一郭構造は大尾山城の
南方に位置する菖蒲嶽域にもみられ、境目の城における
特徴とも言われている。
近年行われた発掘調査では、北域・南域ともに主郭と
その北側の土塁囲いの曲輪で礎石建物が検出されてい
る。これは『大原観音寺文書』の「中嶋宗左衛門直頼書
状」にある「太尾門矢蔵之用、上野より材木三本召寄候
云々」の門・櫓の存在を裏付けるものである。南城の土
塁囲い曲輪では区画溝や集石遺構も検出されている。ま
た土師器皿や天目茶碗・擂鉢などの出土遺物もあり、境
目の城としてかなり恒常的な施設や生活が営まれていた
ことが明らかとなった。
現在、青岸寺から北城、湯谷神社から南域へと二通り
の登山道が整備され、城跡には各所に調査成果を反映し
た写真入りの解説版が設けられており遺構の理解を助け
てくれる。
(早川 圭)
出典:
【エピソード】
【脚注及びリンク】
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1.太尾山城
2.太尾山城・その1
3.太尾山城・その2
4.太尾山城・その3
5.中世の伊吹山と山伏−『大原観音寺文書』が語ること
6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏-滋賀県
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
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