近江塩津駅

2014年05月15日 | 湖周鉄道

 

 




近江塩津駅は、滋賀県の駅では最北端の駅に当たり、
近畿統括本部管区でも最北端の駅。大阪近郊区間の終
端駅の一つで、ICOCA等のICカードが利用できる駅も案
内上は当駅までとなる。そのICカードは敦賀方面や米
原駅から大垣方面に乗車する場合は使用できない

1957年10月1日に深坂トンネルなどを含む木ノ本駅 -
敦賀駅間の新線切り替えと交流電化完成とともに開業
した。当時は1面3線の小さな駅であった。明治初期の
北陸線敷設当時に一旦この塩津を通るルートが検討さ
れたものの、深坂トンネルの掘削が難しく、柳ヶ瀬越
えにルート変更して鉄道が開業した。ところが、昭和
になり柳ケ瀬越えが輸送上のネックとなったため、再
び塩津ルートが検討され、戦争で一時中断したものの
5.1km強の深坂トンネルなどで開通となった。

 

その後、湖西線の開業(1974年7月20日)に合わせ湖西
線部分が従来の構内に張り付く形で拡張された。湖西
線が東海道線 - 北陸線の短絡線であることから、特急
や貨物列車など多くの列車が湖西線から北陸線へと直
通している。湖西線開業時の普通列車は近江今津駅 -
敦賀駅間の気動車列車が運転されているだけであった
ため、湖西線から北陸線下りへの本線にはホームが設
けられていない。

もともと湖西線と北陸線の相互をまたぐ流動はほとん
どな
かったが、近年滋賀県が鉄道整備事業として琵琶
湖環状線構想を進めており、敦賀駅までの直流化やそ
れに伴う列車増発、各種観光施策を打つなど湖西 - 湖
北間の移動の利便性を高める施策を行っている。長浜
駅 - 近江今津駅直通電車運転に際し渡り線を新設し、
さらに2006年10月21日のダイヤ改正(敦賀駅までの直
流電化完成)に合わせ、一部ホームの短縮と引き上げ
線の整備、渡り線の追加新設が行われ、湖西線 - 敦賀
駅間列車と当駅 - 米原方面列車が対面乗り換え可能と
なるよう工夫されている。このような列車増発・イン
フラ整備に加え、県の補助施策による小学生対象の琵
琶湖環状線体験学習(平成20年度で6000人目標)など
の利用増加のための施策もあり、当駅を挟んで列車を
乗り継ぐ乗客も増えているという。

●隣接駅 永原駅 - 近江塩津駅 - 新疋田駅

●歴史
--------------------------------------------
1957年(昭和32年)10月1日 - 国鉄北陸本線の木ノ本
       駅 - 敦賀駅間の新線切換と同時に開業。
1960年(昭和35年)8月1日 - 貨物の取扱を廃止。
1974年(昭和49年)7月20日 - 湖西線開業により、同
       線との接続駅となる。
1984年(昭和59年)4月1日 - 無人化。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、
       西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。
2006年(平成18年)10月21日 - 当駅までICOCAを導入。
--------------------------------------------



西浅井町は、かつて滋賀県北部にあった伊香郡の町。
2010年1月1日、伊香郡および東浅井郡の6町全域と
ともに長浜市へ編入し消滅した。町北部は福井(敦賀)
との県境を形成する野坂山地で、豪雪地帯である。塩
津地区は琵琶湖の最北端に面する。

・湖沼:琵琶湖
・河川:大浦川

 

 


 

【エピソード】    

       

 

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.
アーバンネットワーク, Wikipedia
2.湖西線 永原駅 駅調査, 2009.08
3.JRおでかけネット
4.永原氏

5.湖西の駅

6.きのもとレンタルサイクル
7.
都市基盤-駅を活用したまちづくり, 長浜市
8.近江湖西線全駅下車の旅(その1),クハ481-103の駅
  巡り旅のページ

9.近江塩津駅(JR湖西線)周辺の観光地図
10.北淡海・丸子船の館
11.塩津海道 あぢかまの里
12.奥琵琶湖パークウェイ
13.山門水源の森
14.海津大崎 滋賀県
15.道の駅 マキノ追坂峠
16.長浜市広域観光マップ
-------------------------------------------------
  

 

 


永原駅

2014年05月14日 | 湖周鉄道

 




永原駅(ながはらえき)は、滋賀県長浜市西浅井町大浦
字羽部にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)湖西線の駅。
 
アーバンネットワークエリアの最北端に位置する。西隣
のマキノ駅とは7.1㎞離れ、湖西線では駅間距離がもっ
とも長いとされる。以前は電化方式の違いから、当駅か
ら近江塩津方面へと抜ける普通列車の本数は少なかった
が、敦賀駅(福井県)までの直流切替工事が終了したた
め、2006年10月21日に新快速を中心にした直通列車が増
発された。当駅より先に行く列車は2・4両編成の列車で
、6・8両編成の列車は当駅で折り返している。

 

 

島式ホーム2面4線を有する地上駅であるが、盛土の上に
ホームがあるため高架駅の趣がある。
以前は無人駅だっ
た(時間帯によって近江今津駅から駅員が派遣されて、
乗客に切符を手売りしていた)が、2000年4月頃に「Koti
(コティ・フィンランド語で「ふるさと」を意味する)」
という名のコミュティハウスが同居するログハウス風の
駅舎が建てられ、現在は簡易委託駅となっている。管理
は堅田駅が行っているという。
マルス端末・POS端末・
自動券売機とも設置されておらず、切符は携帯型発券機
によるレシート状のものであるため自動改札機は通れな
い。無人時間帯のために乗車駅証明書発行機もある。
ICOCA利用可能駅で、ホーム下通路にはICOCA等のICカー
ド用にカードリーダーが設置されている。

 

日中時間帯は上下線とも新快速のみ1時間あたり1本が停
車する。朝晩には当駅折り返しの列車もある。特に後者
は開業以来2006年10月20日まで京都方面からの列車を中
心に多数設定されていたが、前節の当駅-敦賀駅間の直
流化により激減。
「滋賀県統計書」によると、一日平均
の乗車人員は滋賀県内のJRの駅では最も少ない。

●隣接駅 マキノ駅 - 永原駅 - 近江塩津駅

●歴史
--------------------------------------------------
1974年(昭和49年)7月20日 - 日本国有鉄道湖西線の開
       業と同時に設置。

1987年(昭和62年)4月1日 -国鉄分割民営化により、西
       日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。

2006年(平成18年)10月21日 -敦賀までの直流化開業に
       よる当駅以北の大幅増便。ICカードICOCA供用開始。

2008年(平成20年)
 3月15日 - ダイヤ改正により当駅以北で6時台と19時台、
           さらにもう1往復ずつ増便
          (その増発分はともに521系が担当)。

10月18日 - JR京都線桂川駅開業に伴うダイヤ修正で土・
           休日ダイヤ実施日の22時台に223系8両単独
           編成の当駅乗り入れが復活。
2009年 (平成21年)7月1日 - アーバンネットワーク各
        駅共通で当駅も終日全面禁煙化(湖西線は当駅
        までで、近江塩津駅は対象外)。
--------------------------------------------------



【エピソード】    

       

 

 

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.
アーバンネットワーク, Wikipedia
2.湖西線 永原駅 駅調査, 2009.08
3.JRおでかけネット
4.永原氏

5.湖西の駅

6.きのもとレンタルサイクル
7.
都市基盤-駅を活用したまちづくり, 長浜市
8.近江湖西線全駅下車の旅(その1),クハ481-103の駅
  巡り旅のページ

9.永原駅(JR湖西線)周辺の観光地図
10.北淡海・丸子船の館
11.塩津海道 あぢかまの里
12.奥琵琶湖パークウェイ
13.山門水源の森
-------------------------------------------------
  

 

 


山崎山城

2014年05月13日 | 滋賀百城



 山崎山城は比高60メートルの独立丘陵である山崎山
の東側稜線上にある。朝鮮人街道を能登川方面から彦根
に向かう際、宇曽川の手前で大きくカーブする箇所で行
く手をふさぐようにあるのが山崎山である。
 城は従来、在地土蒙である山崎氏の居城と伝えられて
きた。山崎氏は六角氏の庶流で、山崎山周辺に勢力を維
持していた。竹生島奉加帳に名がみえ、天文七年(15
38)の六角氏の坂田郡出陣にも従軍している。後に浅
井方に付いたようだが、織田信長の近江進攻後はこれに
従っている。織豊政権下でも存続し、摂津三田に移封さ
れるものの近世に至る。
 城は南北を急な斜面にはさまれ、東は宇曽川へ向かっ
て急激に落ち込んでいる。尾根続きは西側のみでここに
堀切がみられ、曲輪面と僅かながら石垣も露出していた
ようだ。



 平成五年(1993)から行われた給水タンク建設に
伴う発掘調査では、この僅かに露出していた石垣がさら
に大掛かりなものであったことが明らかとなった。大規
模な「城破り」が行われたらしくかなりの部分は崩され
ていたが、東・南面では多量の裏込めの栗石を伴った石
垣が検出されている。また、この石垣は明瞭な算木積み
がみられ、一部で横矢掛り状に㈲曲するなど、安土城の
石垣との類似性が指摘された。この調査成果をうけて彦
根巾指定史跡となり、保存されて公園整備が行われてい
る。


 城内は西端の堀切内側を最高所として、東側に向かっ
て階段状に低くなっている。この西側では石垣を伴った
櫓台や、穴蔵もしくは枡形と思われる空間も検出されて
いる。堀切の土橋を渡った威迫は、堀切を制圧する櫓台
の下で左折し北側から城内に入ったとみられる。これら
は残念ながら、城破りによる破壊のためか、調査不足の
ためか、図示した複数の石垣列を含め不明な点が多い,
さて、城内東寄りにも基壇状の石垣が確認されており櫓
台があったようだ。南面で検出された石垣は二、三段を
残すのみであったが直線的な塁線で、複数の西を持ち多
量の裏込め石を確認している。岩盤上に築かれた東西や
北面の石垣は直角に曲げられ、特に北面では塁線を屈曲
させている,このように山崎山城は、主要部分が石垣で
構成されたコ石の城」であった。
 検出された遺構と共に注目されるのは城の立地である,



 冒頭で触れたとおり現在の朝鮮人街道は山崎山の南側
で大きくカーブしているが、織田政権ドで整備された下
街道やそれを踏襲した朝鮮人街道も能登川方面から直線
的に進んできたものが、山崎山で西側へ迂回させられ山
の北側で再び直線化している。あたかも山崎山を基準に
街道を設定しているかの如くである。この点で、城の南
面の石垣は南方から北上してくる街道からの視覚を意識
していると考えられる。城からは北は彦根城や佐和山城、
南は観音寺城や安土城を一望することができ、街道をか
なり意識した築城と言えよう。



 以上のことから、安土城に類似した織豊系城郭の特徴
を有した構造と、近江の南北をつなぐ街道を意識した立
地が指摘できるが、これを在地土豪である山崎氏の居城
と考えることは難しい。むしろ、織田政権下で築城され
山崎氏が管理を任されたと考えることが妥当である。『
信長公記』には天正十年(1582)に山崎に「御茶屋」
を設け、山崎源大左衛門が接待した記録がある。「御茶
屋」は佐和山や柏原、美濃の今須にも設けられているこ
とから、岐阜から安土を結ぶ街道の中継施設と考えられ
る。このことから山崎山城は、山崎氏が自前で石垣の城
を築き街道を曲げたとは考え難く、信長の政策の下で御
茶屋とも関連して、安土・佐和山間の中継点かつ街道の
警備用に築城されたのであろう。



 ところで山崎山城は公園整備されたものの、東面や北
面で検出された石垣は大半が埋められてしまい、城内の
櫓台状の石垣もほとんど見えない状態となり、堀切から
入った城道は櫓台を直登してしまっている。破壊を免れ
て保存整備が行われ、湖東平野を一望できる絶好のビュ
ーポイントとなっていることは喜ばしいが、城跡公園と
してはやや残念なところである。    

                   (早川 圭)

出典:

    

 

【エピソード】    

      

 

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.
彦根市指定文化財 「山崎山城跡」 山崎山城の特徴
  を観る~

2.近江 山崎山城(彦根市)/登城記|タクジローの日
  本全国お城めぐり

3.「山崎山城」―安土城と佐和山城の中継点、歴史手
  習塾「戦国彦根の城郭講座」第3弾,2010.05.28

4.彦根市指定文化財「山崎山城跡」築城者と築城時期

5.山崎片家 - Wikipedia

6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
11.佐々木六角氏の歴史
12.荒神山/山崎山, 山聲
-------------------------------------------------
  

 

 

 


ラグナ湖

2014年05月11日 | 世界の湖沼百選

 



 


Save the lakes of the world! / GNF

Detaled Data :

ラグナ湖は、フィリピン北部ルソン島にある湖で、表面
積949km²はフィリピン最大の大きさである。フィリピン
首都マニラ近郊にある。この最大面積をもつバイ湖(
=ラグナ湖)は首都マニラとカラバルソン地方に跨り、
Wの形をしている。湖の中にはタリム島が中央に浮かび、
この湖の南西部に位置する、最深のタール湖の2つは汽
水湖である。バイ湖は表面積は949km2だが、平均水深は
2.8mしかなく地形からみてかつてはマニラ湾の一部だっ
たとされる。この湖から流出するバシグ川はマニラを通
ってマニラ湾に注ぐが、逆流することもある。一方、タ
ール湖はカルデラ湖で、面積250 km2、周囲長40 km、水
172mで、この湖ではテラピアの養殖が盛である。湖の
中には、中央火口丘のタール火山が湖面から300mの高さ
でそびえ、このタール山の火口もまた湖(直径1.2km
80m)の二重カルデラ構造をとる。
集水域人口を1,350
万人を抱え、その流域はマニラ首都圏を含む14市47自治
体にまたがる。近年の急速な経済発展により、森林の伐
採、農地化、宅地化の進行により、雨期における洪水は
年々深刻になっている。特に伝統的な農村地域と都市地
化振興地域では、洪水対策、防災教育も進んでおらず、
深刻な被害が生じており、洪水に対する警戒態勢の整備
が急がれている。

 

●ラグナ湖の水質変動/1990-1999

 

 

 

 

 【エピソード】     

    

ラグナ湖のサバヒー(ミルクフィッシュ:Milkfish)は
畜養魚は盛んに行われ、日本の環境・水産業などトータ
ルな専門家との緊密な交流が大切だと再認識する。
 

【脚注及びリンク】 
---------------------------------------------
1.フィリピンの最新水質環境、三重県環境科学センター研究
  報告 第19号(1999). 

2. ミルクフィッシュ養殖事業における太陽光発電利用の普及,
    2013.04  
 

3. Laguna Lake Development Authority

4. ラグナ湖周辺農村地域への地域経済密着型の河川簡易監視カ
     メラシステムによる防災システム

5. Analyzing flood risk and related impacts to urban communities
    in central Vietnam

6. Mount Sembrano 、Wikipedia
7. Restoring Balance in Laguna Lake Region  203.10.21
8. Ecosystem and People The Philippine Millennium Ecosystem
   Assessment, 2007.09.18

9. The Current State of Aquaculture in Laguna de Bay, Danile
    C. Israel, 2008.02.01

10.Milkfish Production and Proceeing Technologies in the Ph-
     ilippines, 2007.06.14

-------------------------------------------------- 
 

 

 

 

 

 


彦根城

2014年05月06日 | 滋賀百城

 

 慶長五年(1600)の開ケ原合戦の論功行賞によっ
て石田三成の旧領は井伊直政に与えられた。直政は.旦、
三成の居城である佐和山城へ入城し、新城の築城を計画
するが、同七年に病没した。新城の造営は嫡男直継に引
き継がれ、彦根山に新城の築城が決定された。その工事
は慶長八年に計画され、翌九年より着工が開始された。
築城に際し幕府は三人の奉行を派遣し、ヒカ国十二大名
に手伝普請を命じている。彦根築城は大坂城の豊臣秀頼
への押さえとして完成が急がれ、石垣の石材は佐和山城
跡、長浜城跡、安土城跡などから集められた。また、天
守は「不落目出度殿主」として徳川家康より大津城の天
守を賜わり、移築したものである。また、天秤櫓は長浜
城より移築されたものである。


 さて、彦根城を歩いてみよう。まず、「いろは桧」か
ら佐和口を経て、城内を目指そう。佐和口は正面左側が
江戸時代に築かれた多聞櫓で、端部に二重櫓を構えて
いる。右側はコンクリートで復元されたものである。こ
の佐和口を入ると左手に馬屋がある。現存する日本唯一
の城郭内の馬屋で、番所小屋が付設している。
 表門の橋から内堀を渡り、郭内を訪ねてみよう。内堀
の石垣は上端の鉢巻石垣と、下端の腰巻石垣によって構
えられており、その間は芝土居となる。近畿地方ではほ
とんど見ることのできない石垣構造である。表門を渡る
と彦根城博物館が建てられている。その外観は明治まで
残されていた表御殿を再現したものである。築城当初御
殿は山上の本丸に構えられていたが、大坂落城後の第二
期築城工事によって山麓に御殿が移されたのである。こ
の御殿の移転は臨戦体制から平和への移行を示すものと
して注目される。
 



 御殿から登威迫を登ると、天秤櫓直下に至る,ここは
太鼓丸と鐘の丸を限る堀切の底部である。軍事的には太
鼓丸に構えられた天秤櫓と鐘の丸より挟撃されるキルゾ
ーンとなる場所である。近世城郭でこうした堀切が構え
られる構造は珍しく極めて戦国的な構造といえよう。鐘
の丸の南東端と
南西端から山麓に向けて登り石垣(竪石
垣)と、竪堀が構えられている。古図ではこの登り石頂

上に瓦塀の設けられていたことが知られる。さらにこの
登り石垣遺構は着見櫓より裏門へと、西の丸の北東隅、
北西隅から山麓へと五ヵ所にわたって構えられている、
これらは表御殿や、大手門を山上と一体化して防御する
ために設けられたもので、敵の斜面移動を完全に封鎖す
るものである,こうした機能をもつ登り石垣は豊臣秀吉
によ
る朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で朝鮮半島南岸に築
かれた
日本軍の城、いわゆる倭城に多用された防御施設
であり、
彦根築城もその影響を受けたものと考えられる。
彦根城の
普請として最大の見所といっても過言ではない
だろう。

 

 鐘の丸より望む天秤櫓は実に美しい。しかし、美しい
だけではない。天秤櫓の土台となる石垣に注目してみよ
う。左右で積み方がまったく異なっている。向かって右
側が築城当初の石垣で、左側は幕末に積み直された石垣

である。鐘の丸から天秤櫓に架だけではない。天秤櫓の
土台となる石垣に注目してみよう。左右で積み方がまっ
たく異なっている。向かって右側が築城当初の石垣で、
左側は幕末に積み直された石垣である。鐘の丸から天秤
櫓に架られた橋は元来は廊下僑で、敵が到来すると落と
すこ
とができた。

 いよいよ本丸へ、その表門として構えられているのが
太鼓門である。その前面の石垣をよく見ると石を積むの
ではなく、自然の岩盤を削り出して築かれている。その               
太鼓門を潜った疋面に天守は建つ。切妻破風、千鳥破風、
唐破風に飾られた屋根は変化に富み、実に美しい。とこ
ろが、井戸曲輪、つまり搦手側より本丸を望むと石垣塁
線上に天守と多聞櫓が頭上に聳えており、天守が一斉射
撃の可能な攻撃的施設であったことがよくわかる。本丸
の北西に構えられた西の丸にはその北西隅に西の丸三重
櫓が配されている。小谷城の天守を移したと伝えられる
が、単なる伝承に過ぎない。『井伊年譜』に小谷山の粘
土によって瓦を焼いた記録がこうした誤伝を生じさせた
のだろう。
 西の丸から山崎曲輪を経て現在梅林となっている米蔵
跡を通って大手門より二の丸に戻り、玄宮園、楽々園を
見学してほぽ彦根城の郭内見て歩きは終わる。なお、彦
根城では外郭ラインも結構残されており、門跡や土塁、
足軽組屋敷を訪ねることもぜひお勤めしたい。
                  
                   (中井 均)
 

 

出典:     
   

 

【エピソード】     

     

 

 

【脚注及びリンク】
-------------------------------------------------
1.
彦根城~戦国から近世にかけての城郭の精華を観る~
2.彦根城の桜、近江路観光ガイド
3.彦根城のご案内 - 公益社団法人 彦根観光協会
4.公益社団法人 彦根観光協会

5.彦根城 - Wikipedia

6.近江の戦国時代 京極氏と六角氏
7.近江の戦国時代 浅井氏の台頭
8.近江の戦国時代 信長の近江侵攻
9.近江六角氏はなぜあっという間に敗れ去ったのか?
10.琵琶湖岸の地理的環境と戦国時代の近江の水城
11.彦根城ガイド
-------------------------------------------------