(九) 維新前後
【文久の警備】
文久三年ペルリ来朝の一投石によって国内の物情騒然として参り、毛利藩でも各地に武器を整え
農兵引立役が設けられ、小松町にも遠崎(注・現・柳井市遠崎)屋代、小松、三蒲、椋野を区域と
して小松稽古場がおかれ、農兵引立役として、中原彦太郎、秋元茂治右衛門の両名が任命され農工
商の中から講武の方法を講じたのである。仝四年には揃場と云うものが出来て、諸兵、社人、地下
医、僧兵、農兵その他は、一朝事ある場合にはこの揃場に集合すべく命じられたが、屋代、小松、
三蒲の揃場は小松稽古場と指定された。
(参照)文久四年五月夷鑑降伏の祈願が志駄岸八幡宮で行われた。
【四境の戦い】
四境戦に於ける小松町には、松山藩の兵士が来朝していたのであるが、慶応二年六月十四日に
左の如く編製された討幕軍が笠佐島に来たって十五日から戦闘を開始した。
屋代進撃軍、第二奇兵隊、洪武隊、清水一小隊、大島土兵一小隊、(全部八小隊)
沖浦進撃軍、大野小隊、上関小隊、大島小隊(全部七小隊)
三蒲・椋野進撃軍、浦一小隊、村上亀之助五小隊、村上河内三小隊、其の他
かくて戦闘三日、十八日には郡内に敵影をみなくなったのである。
(参照)慶応元年六月十日 松山藩士松本定右衛門、岩岡巳之助が京屋(今の金満為之助氏邸)
いたのを同町の森 品蔵が生捕りにした。
(注)幕府軍が広島方面隊と伊予から攻め込み一時、屋代島は陥落します。
真っ先に逃げだしたのは大島の最高行政責任者の大島代官です。
仕方なく各地で戦っていいた郷土部隊も本土の遠崎へ後退します。
そこへ高杉晋作がオテントー号に乗って援軍に来て、逃亡の大島代官を罵倒したのち
全軍を取り纏め屋代島奪回作戦を実行します。
高杉は未明に久賀沖の幕府軍艦をめくら撃ちにし
奪還部隊は笠佐沖に集結し、暗闇の中、屋代川河口(通称)瓢箪に上陸し
一部隊は屋代川沿いに西連寺(当時・反撃隊総司令部)方面へ
また一部隊は小松から三蒲への峠を越えて椋野方面へ
また一部隊は開作水車から志佐・沖浦方面へ 進撃していきました。
近年、沖浦方面は笠佐島から船部隊は上陸したと書いてある地元郷土史家の本がありますが
これは錯誤です。敵が充満している屋代島にバラバラで上陸しては防衛がおぼつきません。
高杉晋作の了承の許、一か所(屋代川河口)上陸作戦が行われました。
(注)事実は森は一人を京屋で自白しなかったのでその場で殴り殺し、一人は毛利藩の前線基地
遠崎(現・柳井市遠崎)に送り、その後大島の処刑場である屋代川河口大川で首を刎ね
墓は飯の山の麓に丁寧に葬った(元入道松付近の墓場)
今も現場に首切り地蔵があり「周防大島町教育委員会」はこの首切り地蔵の説明に
京屋に忍び込んだ松山兵の首を切ったからこの「首切り地蔵」があるとしていますが
松山兵の首も処刑場であるここで切りましたが、首切り地蔵の縁起は昔昔の享保の
時代の百姓一揆で久賀代官所(宰判)へ直訴した人たちの供養のために建てたもの
であり、四境の役の松山兵斬首とは関係ありませんが、その方が観光資源になると
思ったのでしょうね(笑) 史実はどんどん変えていけます。
旧大島町誌は首切り地蔵は享保の百姓一揆の犠牲者と書きますが、四町が合併すると
新教育委員会は郷土史を変更してしまいます。たぶん地元のメンバーのいない他町
の人が(東和・橘・久賀町)の人がいい加減に説明文を書いたのでしょう。
尚、色気のない話ですが、大川の首切り地蔵は元々首切り地蔵ではなく、地震か何かで
落ちて首が折れたのでしょう。昭和30年代初頭にはまだ折れた首が側に置いてありました。
いつの間にかこの首はなくなりました。堤防をかさ上げしましたので元の首切り地蔵は
2M以上、下にありましたから上げる時に紛失したのかもしれませんね。
色気がない話ですから忘れて下さい(笑)
四境の戦いについては詳しくは「山口県史 維新編 大島口戦い」に詳しいので興味の
あるかたはそちらを参照してください・
尚、京屋は旧星出醤油の手前に現存しています。村上河内隊とは和田の村上家のことで
「一学家」と通称されます。当主も現存していますが、家史に詳しいのは養子に行った
四男四郎氏と考えます。
村上亀之助隊は和田村上家の本家で中世の瀬戸内村上海賊宗家の村上武吉の本流家です。
【文久の警備】
文久三年ペルリ来朝の一投石によって国内の物情騒然として参り、毛利藩でも各地に武器を整え
農兵引立役が設けられ、小松町にも遠崎(注・現・柳井市遠崎)屋代、小松、三蒲、椋野を区域と
して小松稽古場がおかれ、農兵引立役として、中原彦太郎、秋元茂治右衛門の両名が任命され農工
商の中から講武の方法を講じたのである。仝四年には揃場と云うものが出来て、諸兵、社人、地下
医、僧兵、農兵その他は、一朝事ある場合にはこの揃場に集合すべく命じられたが、屋代、小松、
三蒲の揃場は小松稽古場と指定された。
(参照)文久四年五月夷鑑降伏の祈願が志駄岸八幡宮で行われた。
【四境の戦い】
四境戦に於ける小松町には、松山藩の兵士が来朝していたのであるが、慶応二年六月十四日に
左の如く編製された討幕軍が笠佐島に来たって十五日から戦闘を開始した。
屋代進撃軍、第二奇兵隊、洪武隊、清水一小隊、大島土兵一小隊、(全部八小隊)
沖浦進撃軍、大野小隊、上関小隊、大島小隊(全部七小隊)
三蒲・椋野進撃軍、浦一小隊、村上亀之助五小隊、村上河内三小隊、其の他
かくて戦闘三日、十八日には郡内に敵影をみなくなったのである。
(参照)慶応元年六月十日 松山藩士松本定右衛門、岩岡巳之助が京屋(今の金満為之助氏邸)
いたのを同町の森 品蔵が生捕りにした。
(注)幕府軍が広島方面隊と伊予から攻め込み一時、屋代島は陥落します。
真っ先に逃げだしたのは大島の最高行政責任者の大島代官です。
仕方なく各地で戦っていいた郷土部隊も本土の遠崎へ後退します。
そこへ高杉晋作がオテントー号に乗って援軍に来て、逃亡の大島代官を罵倒したのち
全軍を取り纏め屋代島奪回作戦を実行します。
高杉は未明に久賀沖の幕府軍艦をめくら撃ちにし
奪還部隊は笠佐沖に集結し、暗闇の中、屋代川河口(通称)瓢箪に上陸し
一部隊は屋代川沿いに西連寺(当時・反撃隊総司令部)方面へ
また一部隊は小松から三蒲への峠を越えて椋野方面へ
また一部隊は開作水車から志佐・沖浦方面へ 進撃していきました。
近年、沖浦方面は笠佐島から船部隊は上陸したと書いてある地元郷土史家の本がありますが
これは錯誤です。敵が充満している屋代島にバラバラで上陸しては防衛がおぼつきません。
高杉晋作の了承の許、一か所(屋代川河口)上陸作戦が行われました。
(注)事実は森は一人を京屋で自白しなかったのでその場で殴り殺し、一人は毛利藩の前線基地
遠崎(現・柳井市遠崎)に送り、その後大島の処刑場である屋代川河口大川で首を刎ね
墓は飯の山の麓に丁寧に葬った(元入道松付近の墓場)
今も現場に首切り地蔵があり「周防大島町教育委員会」はこの首切り地蔵の説明に
京屋に忍び込んだ松山兵の首を切ったからこの「首切り地蔵」があるとしていますが
松山兵の首も処刑場であるここで切りましたが、首切り地蔵の縁起は昔昔の享保の
時代の百姓一揆で久賀代官所(宰判)へ直訴した人たちの供養のために建てたもの
であり、四境の役の松山兵斬首とは関係ありませんが、その方が観光資源になると
思ったのでしょうね(笑) 史実はどんどん変えていけます。
旧大島町誌は首切り地蔵は享保の百姓一揆の犠牲者と書きますが、四町が合併すると
新教育委員会は郷土史を変更してしまいます。たぶん地元のメンバーのいない他町
の人が(東和・橘・久賀町)の人がいい加減に説明文を書いたのでしょう。
尚、色気のない話ですが、大川の首切り地蔵は元々首切り地蔵ではなく、地震か何かで
落ちて首が折れたのでしょう。昭和30年代初頭にはまだ折れた首が側に置いてありました。
いつの間にかこの首はなくなりました。堤防をかさ上げしましたので元の首切り地蔵は
2M以上、下にありましたから上げる時に紛失したのかもしれませんね。
色気がない話ですから忘れて下さい(笑)
四境の戦いについては詳しくは「山口県史 維新編 大島口戦い」に詳しいので興味の
あるかたはそちらを参照してください・
尚、京屋は旧星出醤油の手前に現存しています。村上河内隊とは和田の村上家のことで
「一学家」と通称されます。当主も現存していますが、家史に詳しいのは養子に行った
四男四郎氏と考えます。
村上亀之助隊は和田村上家の本家で中世の瀬戸内村上海賊宗家の村上武吉の本流家です。