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『まんがで名作 ロウソクの科学』

2025年03月13日 | 読書日記ー実用


原著 マイケル・ファラデー(角川まんが学習シリーズ S3)

《内容》
一本のロウソクで科学の楽しさと驚きに出会える!

《この一文》
みなさんの時代が来たときに
一本のロウソクにたとえられるのに
ふさわしい人になっていただきたい


最近すごいなと思うのは、名著の多くが漫画化されていること。『ロウソクの科学』も私は岩波文庫だかで読んだことがあったはずですが、冒頭のクリスマスに子どもたち相手に講演するというところくらいまでしか覚えていませんでしたが(冒頭にも程がある)、今回漫画で読むことでロウソクが燃えるという、ただそれだけの現象が持つ不思議さ面白さの一端にようやく少し触れられたような気になりました。

火が燃えている、そのことを深く見つめ考える人がいる。科学って素晴らしいですね。素晴らしい成果の時代を生きられることに感謝!


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東京タワー

2025年03月10日 | もやもや日記


高所恐怖症ゆえに一生登ることはないだろうと思っていた東京タワーに登ってきました。
真ん中の灰色で四角いところが展望デッキ。
地上150mだそうです。

なぜこんなことに…。この日は息子がかねてより友達と計画を立てていた東京ツアーを実行していて、私はその引率として同行したわけです。行く先が東京タワーって! いいけど! 登らなくてもいいじゃないの…! しかも、エレベーターではなく「外階段」って…! なにそれ、信じらんない…!

外階段は全部で600段あり、階段のところどころにご丁寧に「◎◎段目」「ただいま〇〇m」とかいう表示がありました。
正直言って120段目くらいで既に気絶しそうになっていましたが、連れがいたのでその子(息子の友達。やはり高所が苦手)を励ましながら、私も外界のことは強制的に頭から追い出して、ヒイヒイ言いながら汗だくになって600段を上り切りました。

どうにか展望デッキにたどり着いたものの、そこには特に爽快感もなく、依然として高所の恐怖で足がガクガクするばかり。疲れによってもガクガクしていました。

けれども、こういうことでもなければきっとこんなところまで来なかっただろうと思うにつけ、人生は何があるか分からないものですね。うんうん。



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『厳重に監視された列車』

2025年03月06日 | 読書日記ー東欧



ボフミル・フラバル 飯島周訳(松籟社)

《あらすじ》
 20世紀チェコの作家ボフミル・フラバルによる中編小説の日本語版。
 舞台は1945年、ナチスの保護領下におかれたチェコ。若き鉄道員ミロシュは、ある失敗を苦にして自殺を図るが未遂に終わり、命をとりとめた後もなお、そのことに悩み続けている……

《この一文》
“この二人はそんなことができっこない、二人ともこんなにかっこいいんだから。ぼくはいつも美しい人たちが怖くて、そんな人たちとまともに話すことができなかった、冷や汗が出て言葉がつっかえた、美しい顔をそれほどあがめており、目がくらむほどだったので、美しい人の顔をのぞき込むことができなかった。”


 青年期を、いや青年期に限らず人生のある程度の時期を、自分にはどうしようもできないような社会の混乱の中で生きるというのはどういうものだろうか。社会がどんなに混乱していても、そこにはいつも人間の生活があるわけで。それぞれの人間の思いがあるわけで。

 戦争の時代に占領された国で生きるというのはどういうものだろう。そこにある青春は。愛とか悲しみとかは。
 というよりも、青春とか愛とか悲しみとかいった人間の生活の時々に、戦争が起こっていたりそうでなかったりするということか。生きる時代を自分では選べない人類の歴史は悲しいな。

 語り口が鮮やかであることで、さほど長くもないこの作品でしたが、最後まで読みとおすのはなかなか苦しかったです。




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「家族写真」

2025年03月05日 | 夢の記録



 西の空の雲と雲が三角形に区切れた隙間から、沈みかけの細い月が燃えるように輝いているので、私はそれを写真におさめようとデジカメを構えるのだが、車が揺れるのでいつも以上にぶれた写真を撮るしかできない。

 私は息子とともに田舎へ帰省しているところで、この日は母と姉と私と、どこかへ出かける途中だった。

 目的地へ着いてみると、一間ほどの幅の玄関口がある細長い木造の建物があり、そのわきには大きな梅の木がちょうど満開になっていた。朝の10時の開館までまだ数分時間があるので、私達は表で待っている。周りには他にも待っている人がたくさんいる。何の施設だかよく覚えていないが、葬儀とか、故人に供物を捧げるといったようなことをする場所であった気がしている。

 忘れんぼうの母がいつもの通り「あっ、Tちゃん(私の息子)の描いてくれた漫画を持ってくるのを忘れた!」と言う。息子が鉛筆で描いた漫画を小さな冊子にして綴じたものを、お供えするつもりだったのだ。

 すると、父が、「いいよ大丈夫、もう持ってるよ」と言う。

「それより、みんなで写真でも撮るか」と、父が、促すので、父と母と姉を並べて私はデジカメを構える。
 すぐそこに満開の梅の木があるのにそれを背景にせず、燃えるように輝く美しい月も背景にせず、ただ父と母と姉と、息子がこの場に不在なのを残念に思いながら、開館を待つ群衆を(不在の息子の代わりのように、見知らぬ男の子がカメラを見つめて立っていた)私は写真に撮った。

 お父さん、今度はちゃんと漫画を持ってくるよ。


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 父が私の夢に出て来る時は、これまでは若い頃からずっと「父が死にかけていてヤバイ」みたいな夢であったのですが、今朝はじめてこんなに穏やかで死にかけてもなくヤバくもない父と夢で出会いました。
 昨年末に父が亡くなってからずっと、私は自分で予想していたよりもずっと強い衝撃を受けていて、心がずっと重苦しく落ち着かない感じだったのですが、もう大丈夫なような気がしています。



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ゆうべの月

2025年02月12日 | もやもや日記


最近、枝のひろがりが気になる。
夕方に振り返ったら、ちょうど木の枝がひろがっていて、そこに満月に近い丸い月がかかっていた。


「きれいなものは心に留めておくんだ」というスナフキンの言に従いたい気持ちはあるけれども、あれもこれも次々に忘れ去っていく私は、もっと良いカメラを持ち歩くべきかもしれない。でも、写真に撮ってもなあ、保存しておける容量が気になるしなあ。しかもそれほど見返さないんだよなあ。見返すことは目的ではないのかもしれないけれどもなあ。やっぱり、美しいものを見てただそれを心の中に残そうとするのが一番よいのだろうか。いつか心に残ったものだけが、私の人生だったと思う時が来るのだろうか。

ずっと昔に「忘れたって大丈夫なんだ」と結論しているのに、いまだに迷いが尽きない。

満月に近い丸い月が。



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