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エレンブルグ著作リスト(部分)

2010年10月06日 | 読書日記―エレンブルグ

年譜はこれが便利そう。






数年前からエレンブルグの本を集めているのですが、どれを持っていて、どれを持っていないのか、それぞれの作品はどの時代に書かれたものなのか、という基本的なことを私はしっかり把握していないので、ちょっと調べてみました。

蔵書をひっくり返してみたところ、河出書房新社の『世界文学全集Ⅲ-19 エレンブルグ(雪どけ)/ソルジェニツィン(イワン・デニソビッチの一日/マトリョーナの家)』の後ろに付いている「年譜」がとても便利そうです。これは見やすい、分かりやすい。本編も解説もまだ全然読んでいませんが、面白そうです。ついでに、私はソルジェニーツィンを一切読んだことがありませんが、上の写真に写り込んだ「マトリョーナの家」の結末部分を見る限りでは、これもなんだか面白そうであります。そのうちに読みたい。

さて、この年譜とネット古書店で見つかるものを、すでに手元にあるものと照らし合わせてみたところ、翻訳されているものでまだ持っていない本が判明しました。というわけで、以下、入手済みのものと未入手のものをまとめてみました。誰得リスト。私得。



*********
(赤字は未入手/黒字は入手済/青字は入手済・既読)

*長編『フリオ・フレニトの遍歴』1921
*短編集『十三本のパイプ』1922

*評論『それでも地球はまわっている』1922
*長編『トラストDE』1923
*長編『ジャンヌ・ネイの愛』1923
*評論?『西方の作家たち』(1926邦訳出版年)
*ルポタージュ『現代の記録』1927-35
*ルポタージュ『夢の工場-映画年代記』1931(邦題『これが映画だ』)
*中編『モスクワは涙を信じない』1932(『黄昏の巴里』)
*長編『第二の日』1932-33
*中編『息もつがずに』1934

*長編『パリ陥落』1940-41
*エッセイ・演説集『人は生きることを望んでいる』1947-
*長編『嵐』1946-47
*??『銃殺されたフランス共産党員の手紙』(1950)
*エッセー『西洋作家への公開状』1950

*長編『第九の波』1951-52
*エッセー『作家の仕事について』1953
*評論?『世界に平和を』(1950)

*中編『雪どけ(第一部)』1954
*中編『雪どけ(第二部)』1956
*エッセイ『日本印象記』(1957)
*評論『チェーホフを読み返して』1959
*エッセー『ふらんすノート』1959

*回想記『人々・年月・生活』1960(『わが回想』)
*評論?『芸術家の運命』(1964)
*評論『文学芸術論集』(1968)
*ルポタージュ?『燃え上がるスペイン』(ヘミングウェイ、エレンブルグ)(1973)


******************


詩集は省いたのと、その他にも抜けているもの(あるいは重複しているもの)がありそうですが、おいおい修正することにして、赤字のものはまだ未入手なので、近いうちに揃えたいところです。だいぶ集めたと思ったけど、まだまだだなぁ。
青字は既に読んだもの。途中までしか読んでいないものは青くしていないのもありますが、それにしても、まだ全然読めてないですね。とにかく読まないことには始まらないので、このリストをたよりに、なるべく年代順に読んで行こうと思っています。となると、次は『ジャンヌ・ネイの愛』で、その次のために『第二の日』『息もつがずに』を入手しておかねば。
『雪どけ』は別の翻訳で2冊重複して所有していましたが、気にしない!



また、年譜には翻訳されていない小説もいくつか記載されてあるのですが、これがとても気になります。たとえば、こういうの。

*長編『ニコライ・クルボフの生涯と破滅』1922
*短編集『軽い結末をもつ六つの物語』1922
*長編『ぺてん師』1924
*中編『一九二五年夏』1925
*中編『平等者の陰謀』1928
*長編『ラージク・ロイトシュヴァンツの波瀾万丈の生涯』1929

とくに、『破滅と生涯』、『陰謀』、『波瀾万丈の生涯』が読みたいですね。ああ面白そう、なにこのタイトル、なんて面白そう。読みたいなぁ。



というわけで、集め出してから何年か寝かせてきた本を、ようやく落ち着いた気持ちで読み始められそうです。たぶん10年以内に半分くらいは読めるんじゃないかな!と。よーし、がんばるぞ!!

















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『黄昏の巴里』

2010年10月05日 | 読書日記―エレンブルグ

イリヤ・エレンブルグ 原子林二郎訳(ソヴェト文化社)



《あらすじ》
巴里の陋巷の安ホテル――それは人生の縮図だ。落魄した亡命政客、売春婦、革命家、スパイ、生活の波に押し流された小市民、こうした人達の織りなす現実界の布はあまりにも侘しい。エレンブルグの「黄昏の巴里」はこうした世界をとりあげて、彼一流の感覚的な筆致で描破したものだ。彼の描く第一次大戦後の巴里の動揺は、そのまま第二次大戦後の今日の現実にあてはまるものではなからうか。それは自棄と絶望、愛情と憎悪にむれかへつてゐる。それだけにこの作品はかぎりなく哀しい。だが黒々とした魂の闇の裡に、よりよき未来へ、よりよき世界への郷愁がのたうちもだへてゐることを蔽ふことができない。(あとがきより)


《この一文》
“……が、メイは間もなく苦つぽい笑を浮べた。まるで天に唾を吐くやうなものぢやないか!……自分の生きてゐる時代が若いからといつて、腹を立てていゝものだらうか? どうもさうらしい。まるで絵葉書かなんかみたいなものだ。たつたそれだけだ。だが僕達の運命は独特だ。ジャングルから開墾地を作り上げたのだ。これも又芸術と言へるのぢやないだらうか? いゝや、僕達は幸福だ。僕は新しい時代に生れたのだ。この素晴らしい時代と共に生きてゐるのだ!……”





本書の翻訳は、1933年に発行された原題「モスクワは涙を信じない」(ソ連国立芸術文学出版所版)によるものとのこと。「モスクワは涙を信じない」って言葉があるんだ、モスクワの人達は涙を信じないんだ。そして事実正しいんだ。泣いちゃいけないんだ、生活しなくちゃならないんだ。そのときは信じない者も信ずるようになるだろうよ。モスクワは愛することだけを知っている。だから涙を流して悲しむ必要がないんだ……という文章がこの作品の中にあります。この頃のエレンブルグは故郷へ帰りたかったのでしょうか。どうかな。真意ははかりかねますが、しかし、深い悲しみがあるのはたしかです。


哀しい。とにかく哀しい。エレンブルグは初期の小説『フリオ・フレニトの遍歴』、『トラスト・DE』以降の作品は、少なくとも日本ではあまり高く評価されていないように感じますが、この『黄昏の巴里』を読んでみて、その理由がなんとなくですが分かってきたような気がします。哀しいんです。ただただ哀しい。フレニトやエンス・ボートのように、世の中に絶望するあまりそれを丸ごと滅ぼしてしまえ! という強烈なキャラクターが出てくることもなく、初期ではしばしば見られた弾けるようなおどけたようなユーモアもなく、ただひたすらに悲しくみじめな人々の様子を描いているのです。真顔の文学と言った感じ。どうしてしまったんだ。悲しくて、悲しくて、すっきりしません。

けれども、私にはこの『黄昏の巴里』はとても心を打つ小説でありました。
舞台は突然の不景気に襲われた(恐らく世界恐慌)直後のパリ。安ホテル『モンブラン』に住む人々のそれぞれの人生を、悲しみを描いています。「仕事がない」「金がない」、そのために人々は転落し、楽しみも、希望も、信頼も、愛情も、自尊心さえ失ってゆきます。目も当てられぬような悲惨。それもこれも、金もなく、仕事もないからなのです。こんなことってあるでしょうか。そんなことのために人生から滑り落ちなくてはならないとしたら、人生っていったいなんだっていうんでしょう。あまりに悲しくて、あまりに不条理なので、私は真夜中に読みはじめて60ページまで読んだところで寝入ったのですが、その夜は一晩中うなされました。ひどい夢を見た。そして、滅入ったまま読み進め、最後の30ページほどのところまではずっと深く滅入ったままでした。これは、あまりに悲しい。どうして世の中はこんなに悲しいんだろう。どうして人の世はこんなにみじめなんだろう?
最後の30ページまでは、というのは、最後の最後には物語の終わりがあるからです。悲しみはひとまず終わりました。そこにはいくらかの希望と安堵感がありました。私は物語の終わりを好みませんが、しかし、新しく始めるためには一度終わらなければならないということは分かっています。特にこの場合には、お話は終わってしまって良かったのです。


さて、主人公の一人にメイという画家がいるのですが、彼は絵の勉強をするためにロシアの地からパリへとやってきました。そして1年間を『モンブラン』で暮らすようになります。彼の存在のみが、この作品の真っ暗さのなかで、ほんのりと優しく光っています。私は、エレンブルグがいったいどのような気持ちで「彼」を生み出したのだろうか、また「彼」を結末ではパリから去らせ、恋人を残したまま故郷へと帰らせたのだろうかと想像しては、どうしてだか涙があふれてくるのを止めることができません。

エレンブルグの別の小説『十三本のパイプ』に「外交官のパイプ」という短篇があり、私はそのお話が大好きなのですが、その中にもペンキ塗りの男が登場します。彼はもう一人のメイ、メイはもう一人のペンキ塗りと言えましょう。人生を、人生そのものとして愛し、生きる男です。何に対してもこだわらず、とらわれず、鳥のように軽やかに、生活を、そのときそのときを愛し、いつも前を向いて生きてゆく男です。彼はあまりに純で幸福そうなので、周りの人からは馬鹿にされています。でも、人々が絶望し転げ落ちてゆく中で、彼だけが幸福に、生活の中を生きていけるのです。彼は自分の描く絵をむやみに売ったりしません。金に換えることよりも、絵は絵であって、それが誰かの心を動かすことを望んでいるのです。痛ましいほどに心の美しい人物。そのメイをパリに留まらせておくことができない、この悲しみ。故郷を離れパリで暮らし、パリの現実を見つめつづけたエレンブルグが、メイをパリに留まらせておくことができなかったという、この悲しみ。メイが美しく、朗らかに描かれれば描かれるほどに、私は悲しくて悲しくて悲しくてもう仕方がありませんでした。

ところで、エレンブルグ作品では、汚れ荒みきった世界にあって、希望を象徴する存在として描かれる人物には、画家や絵に関わる人物が多いような気がします。一方で、詩人や作家はろくでなしが多い。絵は世界の美そのものを描き出そうとするのに対して、言葉は世界の美しさを描き出そうとしても、同時に別の意味を、汚れた面をも織り込まずにいられないということの暗示なのでしょうか。もうちょっと他の作品も読んでみてから、また考察してみようと思います。

メイのほかにもう一人印象的だった人物が、ドイツ人の菓子売りクプファーです。クプファーは甘いもの嫌いのくせに菓子を売り、愚にもつかぬ論文を書き綴り、人の顔を見ればとにかく嫌味を言うような男として描かれます。メイがパリの『モンブラン』を去ったのに対し、クプファーは『モンブラン』など燃やしてしまえばいいと願いながらもそこに留まり、実際に彼が手を下したわけではないですが結果としてその通り『モンブラン』は焼失し、クプファーは捕らえられ、警察署長の取り調べに対して「僕はもううんざりしましたよ」と言って退場します。
私には、このクプファーのように、世の中を動かそうとする大きな流れがいくつかあるのに、そのどちらの正しさも信じられず、どうしたらいいのか分からず、ただ四方八方に当たり散らすしか出来ない人物の気持ちが分かるような気がします。(もっとも、作中人物の中で性質として一番私に近いと感じたのは、ロシアから流れてきた元貴族のゴルベフの奥さんエレーナでしたけど。もう死んでいるのに、勇気がないためにすっかり死んでしまうことができなくて、と言って生きていく希望も持てなくて、仕方なく暮らしているエレーナ。もちろん最後は破滅します)
クプファーは、彼自身を含め『モンブラン』の住人全員を見渡す一種の傍観者として描かれています。メイが希望の心を集めて造ったエレンブルグのひとつの面を表す人物ならば、クプファーは次々と襲う混乱と絶望の中で諦めて傍観者に徹するエレンブルグのもう別の面を表す人物と言えるかもしれません。心が引き裂かれています。




期待していた以上に、素晴らしい作品でした。私はエレンブルグが好きだ。この人の絶望と憎悪ゆえに、この人を愛します。この人の言葉に込められた深い絶望と激しい憎悪におののいてうなだれてしまいますが、こぼれ落ちる涙は、この人がそれでもなお抑えられなかった人類への希望と愛とを私に教えてくれるからです。私はよく泣くけれども、それはただ悲しくて泣くのではない。美しいから泣くんだ。

というわけで私は泣きながら物語を読みましたが、読み終える頃に、この本があまりの古さのためにバラバラと壊れてしまったことにもまた涙を禁じ得なかったのでありました。手放す気はないので、どうにか修復しようと思います。






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「犬の話」

2009年06月17日 | 読書日記―エレンブルグ


エレンブルグ 木村浩訳
(『現代ソヴィエト18人集2』新潮社 所収)



《内容》
エレンブルグが《青春(ユーノスチ)》の若い読者に語る、犬に関する愛情にあふれた話。

《この一文》
“かれはアベックを嫌った。連中はあまりに自分たちの愛情にかかずらっているからであった。ブーズー一世はアベックを感動させるわけにはいかないと、はじめからさじを投げていた。かれは肉の皿を食べている、独りぼっちの客を見つけると、特別な愛情をみせながら、相手にじゃれついた。やさしい客はビーフステーキの切れはしを投げてよこした。十五分もしてだめな場合には、仲間の犬を呼んだ。仲間の犬はナシを食べたが、ブーズー一世は果物が嫌いだった。私がかれを連れてモンパルナスへ散歩にでかけると、かれは先にたってカフェにたちより、サンドイッチを作っているスタンドに近づき、素早く、サーカスのような芸当をはじめるのだった。一切れのハムにありつくと、すぐ表へとびだし、《おそいですね?》といった顔つきをしながら、私を待っている振りをするのだった。”




エレンブルグの最晩年の一編だそうです。自分が飼っていた犬、家族や友人の飼っていた犬、すれ違っただけの犬、彼の人生に関わったさまざまな犬たちのお話。犬に対する深い愛情に満ちていて感動的です。

いろいろな性質と性格をもった犬が紹介されますが、もっとも印象的だったのは、上にも引用しましたが、エレンブルグの飼い犬ブーズー1世。スコッチテリアとスパニョールの混血。ものすごい自惚れ屋。…だめだ、すでにこれだけで笑えます。テリアって、ひげのおじさんみたいな容貌の犬ですよね。ぬいぐるみみたいな感じの。

短いながらも多くの犬たちのエピソードが満載されていますが、ブーズー1世のほかには、複数の主人のもとを渡り歩き、ときには電車に乗って遠方の主人のところまで移動する犬の話も面白かったです。色々な犬がいるものです。


私はエレンブルグの初期の小説にまず打ちのめされたのですが、晩年のエッセイなんかも面白くて好きですね。まだあまり読んではいないのですが…。好きすぎるともったいなくて読めなくなるのが私の欠点なのですね。

しかしこの人の文章は、正直に告白すると、私にはいったい何を言っているのかさっぱり理解できないところが多々あります。「このくらいは言わなくても当然わかるだろう」ということなのかもしれませんが、行間に込められたものが皮肉なのかユーモアなのか、それとも何でもないのか、どうも判断できません。でも、それでも面白い。いつかは読みこなしたい! と燃え上がるものを抑えられません。

それでもって、どこか泣きたくなるような気持ちにもなります。これはどうしてなんだろうなあ。はっきりと分かりませんけれど、この人の書くものには、なにか独特の雰囲気があるようです。淡々とした文章の中には、弾けるようなユーモアと同時に痛烈な皮肉が、みじめで哀れで残酷、容赦ない描写の中には深い憐れみと優しい愛情があったりするんですね、たぶん。とにかく、私はこの人が好きでたまらない。


犬、そしてテリア犬と言うと、私が田舎に帰省したとき、実家にもいました。灰色の巻き毛の小さな分別臭い顔をしたおじさん犬が。割とおとなしいけど、挙動がいちいち面白い犬です。食い意地が張っていて、家族の見ていないところでテーブルの上の塩鮭を盗み食いして、しかもそれが辛かったらしく水をごくごく飲み干し、さらに盗みの濡れ衣を父に着せて平然としていました。それを思い出しました。

内田百先生の『ノラや』も久々に読みたいな。あれは猫の話ですが。でも、クルツの話では泣いちゃうからなぁ…。

犬や猫、ともに暮らす身近な動物についてのエッセーというのは面白いです。そこには特殊な愛情が、いえ、これこそを愛情というべき美しい感情の流れが記されているから。



このエレンブルグの短い一篇を読むためだけに、【ソヴィエト18人集】シリーズ4冊をまとめて購入してしまった私……。いえ、ほかのも読みますよ、いつか……知らない人ばかりだけど、18人のうちはっきりその人と分かるのは2人だけだけど、いつかは。私が知っているエレンブルグともうひとり、ザミャーチンの「島の人々」だけはすぐにでも読みたいところです。



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『嵐』を読み始めた

2009年03月09日 | 読書日記―エレンブルグ




なんとなく雨が多い気がします。今日も雨。


エレンブルグの『嵐』を少し読んでみる。暗い。冒頭からもう薄暗い。『トラストDE』や『フリオ・フレニト』では、内容の激しさと悲惨さにもかかわらず、突き抜けるようなユーモアがあったのですが、『嵐』にはそういう雰囲気は今のところ見られません。おそろしく真面目で、沈痛な感じさえします。
しかし、『トラスト』や『フレニト』のころは作者のエレンブルグもまだ若く、物語は最初の大戦争である第一次大戦あたりを舞台にしていたのに対し、『嵐』は第二次大戦前後を扱っているようなので、それは暗くもなって当然というものかもしれません。戦争にはうんざりしている感じがします。まあ、うんざりするだろうな。

まだ最初の70ページほどしか読んでいないので、今後の展開に期待。物語はとても長いのです。今のところはちっとも笑えませんけれど、面白いことはたしかです。どうしてか、この人の文章を読むと泣きたくなるような気持ちになる。初期の作品でも書かれたまったく同じことが『嵐』にもやはり書かれてあることに、つい立ち止まってしまう。私はずっと同じことを続ける人が好きです。私はまだこの人のことをほとんど何も知らないのではありますが、エレンブルグという人はきっと少しずつ変わり続けながらも本質的なところはずっと変わらなかった人なのではないかと思って目が離せません。違うかもしれないけど、違うとしても、私はそれをちょっと確かめてみたく思う。
それにしても、『嵐』の前に、『パリ陥落』を読んだ方が良かったかなとも思います。まあ、いいか。


 “だが、問題はそんなことにあるんじゃない。それぞれの時代は
  独特のやり方で心をためすんだ、大切なのはどんな時代かとい
  うことじゃなくて、どんな心かということだ。ぼくは今そのこ
  とがわかったよ………。”
 ――『嵐』より


ここに登場する人物たちは、どういう『嵐』に見舞われるんでしょうか。どうして『嵐』に巻き込まれなければならないのでしょうか。どうしたら『嵐』を乗り越えることができるのでしょうか。

近いうちに、ちょっと集中して読みたいです。登場人物が多く、分量もあって複雑な内容かもしれないので、これは一息に読んでしまった方がいいような気がします。久しぶりの大物です。いろいろ片付けたら、2、3日閉じこもって読もうかな。さて、準備、準備!



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『ばら色の家』

2008年05月26日 | 読書日記―エレンブルグ
イリヤー・エレンブルグ 米川正夫訳
(『ロシヤ短篇集・米川正夫訳』 河出書房新社)


《あらすじ》
ニコロ・ペストフ横町の前三等官フグセーボフのばら色の家には、年老いたモデスト・ニキーフォロヴィチ=フグセーボフとその娘エヴラーリヤが暮らしていた。外からはありふれて見えるこの家の内部ではしかし奇妙な生活が営まれていた。
ロシアには革命があった。だが、エヴラーリヤはその事実を父である元将軍フグセーボフに知られないように、細心の注意を払っていたのである。


《この一文》
“モスクワ、なんという奇怪千万な町だろう、これこそまったく本当と思えないような町だ! 今までにどれだけ統計や、調査や、計算を並べたてたかしれない。けれど、モスクワの馬鹿らしさかげんは、まだ表に現したものがない。  ”



エレンブルグの短篇。いつごろに書かれたものなのか、原題は何と言うのか、どの短篇集に収められていたのか、ということはちょっと分かりませんでした。年譜を調べても載っていないし。
普段はこういうことを調べたりするような私ではないのですが、今回ばかりはちょっと気になったのです。なぜならば、どうもこれまでに私が読んできたエレンブルグ作品とは何か感触が異なる。作者を知らないで読んだら、きっとエレンブルグの作品だと気が付かなかったかもしれません。

真面目すぎる。

いえ、この人はいつも真面目なのです。ただ、私を夢中にさせるあの爆発的なユーモアが、この作品にはほとんど見られません。イリヤになにがあったのか心配になります。しかしもちろん、面白くなかったというわけでは決してありません。息も付かせぬ迫力と疾走感のある文体は、やはりこの人のものなのです。

ある親子の物語。病気で寝たきりの元将軍はながらく外出しておらず誰も訪れるものさえいないので、ロシアに革命があったことを知りません。娘は、父のことを思いやって、必死でその事実を隠し、ロシアはいまだ偉大な皇帝に治められているらしく大昔の新聞記事を取り出しては読んで聞かせるのでした。しかし、時代は確実に動いており、いつまでも嘘を突き通すのはますます困難になり……。

とにかく痛ましい。そして恐ろしく悲しい結末。
人間が、あらゆる状況に生まれでてくるのは、生まれるなり人種や階級やその他もろもろの他と我を区別し差別を生じさせるものを持たされるのは、いったい何のためだろう。こうやって際限なく争うためだろうか。
そんなことをいつも考えてしまいます。

つい悲しくなってしまったけれど、この短篇はもっと深く読むことができそうです。どうにか自分のものにしたい。



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『十三本のパイプ』

2007年07月19日 | 読書日記―エレンブルグ
イリヤ・エレンブルグ 小笠原豊樹訳(修道社)

《内容》
鬼才エレンブルグの機知と諷刺に充ちた傑作!
これは極めてエキゾチックな物語集だ。登場人物は世界各国人、十三本のさまざまなパイプが象徴する、その持主の数奇にして妖しいまでに喜劇的かつ悲劇的な人生図絵。
ソヴェート作家の中でも最も西欧的教養と視野を持つエレンブルグのみが描き得る独自の世界像である。

《この一文》
”だがこのパイプ―――世界一美しい都会パリ、パリ一の美人ガブリエル・ド・ボニヴェに殺された小さなポール・ルウの玩具は、偉大なにくしみについて私に語る。
   ―――「第二話 コンミュン戦士のパイプ」より  ”

”幼稚で自信満々の人たちは、人間は物の主人であり、物とは買ったり与えたり、売ったり棄てたりできるものだと思っている。これはもちろん、かずかずの事実によって、とうの昔にくつがえされた考え方だ。
   ―――「第十話 狂人のパイプ」より  ”

”だが彼はもう一つほかのものを知っていた。遠い日々のよろこび、モンスリー公園の木の間がくれに見たマルゴのほほえみ、他人の愛を。
   ―――「第十三話 愛のパイプ」より  ”






さまざまな作家と作品に生涯不変の忠誠を誓った私。その私はエレンブルグに対してはさらに加えて不滅の愛を誓いましょう。愛などなんの役にも立たないことは分かっていますが、何も持たない私が忠誠のほかに差し出せるものといって、愛いがいに何があるでしょうか。こんな気持ちははじめてだ。思うだけで涙が出そうになるのは、どうしてなんだろう。


さて、本書に描かれるのは、13本のパイプをめぐる奇妙な人生模様。《フリオ・フレニト先生の思い出に捧げ》られた短篇集。いずれの物語もいかにもエレンブルグらしい軽快なテンポに乗って、滑るように進んでいきます。そしてそこらじゅうにちりばめられた印象的な言葉の数々。美しくて鋭い言葉の数々にいちいち心を打たれます。

訳者の小笠原先生のあとがきに、エレンブルグについてのあまりに的確な評が書かれてあったので引用してみましょう。

「アラビアン・ナイトの語り手のようにエレンブルグはこの本の読者を、彼の夜――さまざまな形のパイプに飾られた彼の仕事部屋のうすくらがりのなかへ導き、一つ一つのパイプ由来を語ってきかせるのである。語り手の表情はゆらゆら立ちのぼるタバコの煙の動きにつれて実に多様に変化する。何げないことばで重大な真理を、荘重な口調でコッケイな事柄を、やさしい声音で残酷な事実を、冷い発音で愛らしい事物を、エレンブルグは倦むことなく語りつづけるから、読者は充分に楽しみながらも、時にいささかの戸惑いを感じなければならない。」

なんと的確な。私がいくら情熱をたぎらせようと、これ以上の説明を加えることはできますまい。ありがとう、小笠原先生。

トラストDE』しかり、『フリオ・フレニトの遍歴』しかり、エレンブルグの人間に対する深い絶望と激しい憎悪、しかしそれでもなお捨てきれぬ人間の美しさと優しさに対する愛着。爆発的な勢いを持ちときには攻撃的でさえある言葉の裏側に、その鋭さゆえに傷付きやすい精神をあらわしているこの人の物語。どうしてこれを愛さずにいられようか。

初期のこれらの作品以降は、文学的には下降に下降を続けたと言われるエレンブルグ。いいではないか、それでも。そうだとしても、私は『雪どけ』までのあなたの作品を、手に入るものの全てを読みますよ。
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『フリオ・フレニトの遍歴』

2007年05月02日 | 読書日記―エレンブルグ
イリヤ・エレンブルグ 工藤精一郎訳(「世界文学全集28」集英社)

《あらすじ》
エレンブルグはパリのカフェ《ロトンド》でひとりのメキシコ人と出会う。エレンブルグは即刻このメキシコ人、人類撲滅を目指すフリオ・フレニトの弟子となり、最終的にフレニトは様々な国の様々な人からなる全部で7人の弟子を得る。
第一次世界大戦の勃発とロシア革命を目の当たりにする彼らの運命を描く。

《この一文》
”「過去は不可能となった、そして人びとが思い出や、色あせた写真や、老人たちのふにゃふにゃ話によって自分たちのパルテノンを修復しようと、どんなにつとめたところで、どうにもなりはしない、かれらはノアの箱舟か、あるいは二十一世紀の便所か、どちらかを選ばねばならぬ。二十一世紀がきみたちには気に入らんのか? そうか――わたしもそうだ、それはさほど魅力がない、が、いずれにしても、十九世紀よりはよくなるだろう、老偽聖者のように、二つの醜悪のあいだに立ってシェリーかヴェルレーヌを朗読するようなことはしないだろう。そして前方には――三十世紀、あるいは五十世紀、あるいは百世紀――幸福の世紀がある、そしてせめて一歩でもそちらへわれわれを近づけるもの、すべてに――祝福あれ!
 きみたちは戦争を呪っている、が戦争は未来への一歩ではない、一跳躍なのだ。それはその多分となったすべてを殺し、殺さなければならなかったすべてを生み出した。《自由のための戦争》、ところが結果は、人びとは大きなあからさまなくびきのためにそれだけ成長し、もはや自由のフィクション、そのまぼろしのような幸福では満足できなくなった。《戦争は精神を高揚し、腐敗した唯物主義を葬るであろう》――哲学者たちや、全面的に空想にあこがれる単純で善良な人びとは絶叫した。ところが戦争は物質の助けでおこなわれ、みんなに物質の意義と力をさとらせた。何千という物体を破壊し、ものでものを絶滅しながら、人びとは物質をそういうものとして尊重することをおぼえ、世界の幸福な日々に愛さずにはいられぬものとして、それを愛するようになった。
 自分たちの時節到来と見こして、あらゆる宗教の僧侶たちがぞろぞろと這い出し、とっくに忘れられていた品物――死後の幸福をもち出した。ところが戦争はざんこくにかれらの足をすくった。人びとは現実の日常生活の破滅が近づくにつれて、生活に対する執着がますます強くなったのである。
 戦争――それは民族の民族に対する憎悪である、ところがその半面、いかなる世界同胞の宣教師も、いかなる作家の作品も、いかなる旅行も、いかなる民族の移動も、この塹壕生活の数年ほど、諸民族を近づけ、融合させ、国境を除去することはできなかった。これまた戦争のいたずらである。すべてが逆目とでた。すべての人びとが憎み、喜び、ひるみ、刺し、塹壕の中でたえしのび、すすり泣き、死んで腐っていったのである、――フランス人も、ドイツ人も、ロシア人も、イギリス人も――あきれるほど同じであった。ならんですわっていて――互いにそれを知った。ひとりがマンドリンをひき、他のひとりが猟槍をもって熊狩りをしているあいだは、どこかちがった人間のように見えた。あるいは、たしかに、熊のほうがマンドリンをキイキイやってる人間よりも近く、親しかったかもしれぬ。ところが同じことをやらされると――たちどころに双生児どころか、まったく生き写しで、違うといえばひとは肩胛骨の下にいぼがあり、他はときどきしゃっくりをするくらいのものだ、ということが明らかになったのである。
 さらに、戦争に希望をよせている者はだれか、それは旧教会政治や、多彩な神々や、あらゆる種類の絶対者を擁護する人びとである。皇帝は――日雇い労務者ではない、ロスチャイルドは――乞食ではない、詩人は――トイレットペーパーの製造主ではない、哲学者は――羊飼いではない等々。ところがここにも幻滅がある――もし貂の毛皮のマントや、燕尾服や、カラーをはぎとって、マドンナをたたえる詩も、トイレットペーパーも、実用主義もないこのような土小舎の中へすわらせたら、どれもこれも同じで、さっぱり区別がつかなくなってしまう。もちろん、肩章や、司令部や、上品な後方勤務士官などはある。だがここでたいせつなのはいまのところ本質ではなく、デモンストレーションである。地面からつきでた見わけのつかぬ死骸を見ただけでわかろう。ムッシュー・デレ、あなたの死者の十六等級は混乱してしまうかもしれん。そしたらどうなる?………
 わたしはこうしたことをのこらず見ている。だからきみたちが戦争を呪うとき、わたしはチフスにかかった最初の日のように、それを祝福するのだ。そのために人間は生まれかわるかもしれんし、あるいは死ぬかもしれん、いずれにしても新しい犬族のためか、あるいは勝ちほこる野ねずみや、蟻や、滴虫類の大軍のために地上を浄化するだけだ!」
 フリオ・フレニトのこの教えをわたしはよく記憶している。わたしたちは身辺をおびやかす危険を忘れて、真剣にそれをきいていた。 ”



トラストDE ヨーロッパ滅亡史』で既に私はエレンブルグの前に跪いていたので、この『フリオ・フレニトの遍歴』についても、相当の覚悟で臨まなくてはなるまいとは思っていました。しかし、私のその予想をはるかに超えて、この人のこの作品の前で、私は跪くどころか涙で重くなった頭を持ち上げることさえ困難です。恐るべき物語『トラストDE』は、むしろ牧歌的であったとさえ、今となっては思えてきます。甘い夢を見るだけの呑気な横っ面を激しくはたかれた私のなすべきことは、こうやってごりごりと地面に額ずいて、あまりにもこの人の言う通りの世界であることにおののき、わあわあと泣き喚くことでは、決してないというのは分かっています。でも、いったい他にどうしたら……


略奪、大量虐殺、戦争そんなものは文明化された我々の時代には起こりえないさと陽気に暮らしていたら、ある日《第一次世界大戦》が始まった。全ての狂気が実現し、人々はすっかり混乱して、恐怖のとりことなる。なかでも恐ろしいのは、ついには、狂気や恐怖が《日常》になってしまったことだ。

恐ろしい。私はとてもこの物語を、物語として読むことはできなかった。これは、あまりにエレンブルグが直に見たものそのものであり、飛ばされた青い服の少女の両足や、荒れ地に突き出たむくんだ死骸の足、なにもかも目の前にありすぎる。
また、この作品はその内容のあまりに予言的な点においても注目されているらしい。たとえば、《人類のためのショーとして歴史が定期的に要求するユダヤ人の大量虐殺 近日公開》(ちなみにエレンブルグ自身がユダヤ人である)や、《ドイツではなく日本のために取っておかれる小型の超強力爆弾》などなど。どれもこれも、どうして現実のものとならねばならなかったのだろう。

恐怖。狂気。絶望。絶望。絶望。
それを、この人はありったけのユーモアと諧謔とで包み丸めたとてつもなく強力な弾薬にして、そこら中に投げつけています。1921年のこの人の、これが処女作です。これほどに鋭敏な人が通らなければならなかった苛酷なこの時代のことを思うと(ところが、当時まだ若かったこの人の運命はその先もまだまだ苛酷なものでありつづけたのだそうです)、最初の作品の結末に「最後の接吻」を送らねばならなかったこの人のあまりに美しく強い理想を思うと、私は涙を流す以上のことが、しかし今はどうしても思い付かない。私にできる、つまらない、ほんのささやかなことはと言えば、この物語を空間と時間へと飛ばすひとつのちっぽけな種子となることだろうか。私はこれを大切に抱え続け、そのうちきっと誰かに譲り渡すだろう。いつか、これを必要としなくなる幸福な日々、この人の確信した未来の到来を信じる私と同じような誰かに。

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『トラストDE ヨーロッパ撲滅史』

2006年11月10日 | 読書日記―エレンブルグ
イリヤ・エレンブルグ著 小笠原豊樹・三木卓訳(海苑社)


内容については先日の記事『トラストDE ヨーロッパ滅亡史』(河出書房新社)を参照のこと。世紀の傑作を見逃すな! と言いたい。ひっくり返るほどに面白いのですよ。



注文していたものが、ようやく届きました。海苑社という、見たことも聞いたこともない出版社から出ている新しい本です。この海苑社というところからは、文学関係の本はほとんど出ていないようで、『トラストDE』のほかにはアポリネールの『虐殺された詩人』と、内容は忘れましたがなにかもう1冊の計3冊のみのようです。うーむ、一体どういうセレクションなのだろう……いや、しかし、河出書房新社で長らく絶版となっていた20世紀の名著『トラストDE』を復活させようというその志の高さは称賛されるべきであります。すばらしい。
現在も絶賛販売中なので、未読の方には是非ともおすすめしたい1冊です。


この海苑社版は四六版のハードカバーで、表紙には見るからに

  地獄

という感じの、かなり印象的な絵が使われています。ありとあらゆる残酷な地獄の責め苦を、実にユーモラスに描いてあるのでした。本の内容とも合ってるぜ。やるな。


というわけで、ようやくこの本が無事に手に入って、とても安心しています。やったー、これでよし。これで、いつでも好きな時に読めるというものです。うふふ。
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『トラストDE ヨーロッパ滅亡史』

2006年10月24日 | 読書日記―エレンブルグ
イリヤ・エレンブルグ 小笠原豊樹・三木卓訳(河出書房新社)


《あらすじ》
モナコ王子の放心によってこの世に送り出された男エンス・ボート。もしアフリカへ行っていたならば、ダチョウの卵集めやライオン狩りをしただろう冒険家の彼は、しかし老いさらばえたヨーロッパでは何もすることがなかった。やがてアメリカへと渡った彼は3人のアメリカ人富豪とともに《トラストDE》(Trust for the Destruction of Europe)を結成する。この組織の目的は、ヨーロッパ撲滅。
単なる空想小説ではなく、歴史の必然性と著者のヨーロッパ生活の体験に基づいた物語。


《この一文》
” 三億五千万以上の人間が住んでいた一大陸を滅ぼすための十二年という歳月は、かなり長いものだった。だが、その歳月もエンス・ボートの心の中の偉大な愛を滅ぼしてしまうことはできなかった。もしわれわれの著作が一部の立派な学者先生に読まれずに終る恐れさえなければ、われわれは『ヨーロッパ滅亡史』という副題を抹消して、事件の真の本質によりふさわしい別の題に改めたであろう。すなわち『不滅の愛の物語』と。  ”



また凄いものと出会ってしまいました。私の「不滅の物語」のリストに追加決定です。とにかく、激しい。猛烈な勢いで、ヨーロッパは滅んでいきました。恐るべき物語です。この衝撃は、クストリッツァ監督の映画『アンダーグラウンド』(超傑作。人類の宝)を思い起こさせるものがあります。つまり、喜劇と悲劇の甚だしいギャップ。爆発的エネルギー。なんてことだ。

主人公のエンス・ボートは、モナコ王子がオランダを訪れた際、転がったチーズを追いかける女の後を追いかけて、その先の4分間の放心のために、この世に生み出されることになった天才です。彼は、父親から博打の才能を受けつぎ、職を転々としながらも、ついには一財産を築きます。しかし、それをあっさり放棄してアメリカへ渡った彼は、新しい事業に乗り出すのでした。《トラストDE》。それは表向きは《デトロイト建設トラスト》とされているが、その奥ではエンスが赤と青の鉛筆を振っており、その動きに従って、ヨーロッパ各地に広がる《DE》の頭文字を持つあらゆる業種の会社が、ヨーロッパを滅亡させるべく働いているのでした。

一言で言って、物語の多くの部分はユーモアに満ちていて笑えます。しかし、それだけに一層悲劇的でもあります。とにかく哀れです。たまらなく悲しい。エンスはたしかにヨーロッパ撲滅のために働きますが、直接的に攻撃を仕掛けたわけではありません。結局のところ、ヨーロッパの国々は自分達の持つものによってお互いに滅ぼし合ったのです。それが恐ろしい。彼らが滅ぼし合ったそのやり方も、あまりにリアルで恐ろしい。全然笑えません。

この物語は1920年代から1940年までを舞台としているのですが、いま、私達がヨーロッパの滅亡を体験しないまま2000年代に突入したからと言って、「そんなことは起こらなかったじゃないか」と言って安穏としてはいられません。当時の作者の危機感と絶望が、いまでもなお新しさを失わず、押し寄せてくるようです。滅亡は、ささいなことがきっかけで起こるのではないだろうか、はじまってしまったらもはや誰にも止められないのではないだろうか、それはいつでもどこでも起こりうるのではないだろうか--。実に恐ろしい物語でした。

前世紀の始めに生きた人々のなかには、命がけでものを考えた人が多かったのだろうと思います。人類がどこへ向かうのかという問題に対して、個人の考えが影響力を持ち得た、あるいは持ち得ると考えられていた時代だったのでしょうか。そこで生み出されたものは、あまりに熱い。現代の我々は、そういう苛烈な時代に戻ることはできないでしょうし、戻りたくないと願う以上は、その時代の人と同じような必死さでものを考えることもできないかもしれません。だからこそ、先人が遺してくれたものには敬意を表さねばなりますまい。私はせめてそれをじっくりと吟味するくらいのことはしなければならないのです。


怒濤の物語にも関わらず途中でウトウトしてしまった私(夜だったので)の手からこの本を抜き取って、先に読了したK氏は、私以上に衝撃を受けていました。「ほいきた、ヨーロッパ!」があまりにショックだったらしいです(読めばわかりますが、たしかに衝撃的)。そして「かつてないほどに恐ろしい物語」であると評していました。私は他にも恐ろしかった物語は記憶にありますが(アストゥリアスの『大統領閣下』とかバルガス・リョサの『世界終末戦争』とか。でもまあ、ちょっとそれとは恐ろしさの種類が違う気もしますので)、おおむね同感であります。

そのK氏と、エンスを駆り立てたのは結局は何だったのかについて話し合ってみました。ヨーロッパに対する激しい愛と憎しみに引き裂かれながらも相手を滅ぼさずにいられなかったエンス。おそらく筆者エレンブルグの分身であるエンスは、とにもかくにも滅ぼしてみたかったんだろうというところで、われわれの意見は一致をみたのでした。


衝撃の一冊。必読です。
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