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『ファーザーランド』

2009年07月31日 | 読書日記ー英米


ロバート・ハリス 後藤安彦訳
(文春文庫)


《あらすじ》
ベルリン、1964年。ヒトラー総裁75歳の誕生祝賀行事を一週間後に控え、ジョゼフ・F・ケネディ米大統領がデタント交渉に訪れようという冬の朝、老人の死体が湖畔で発見された。男は古参のナチ党員で………第二次世界大戦勝利から20年、ヨーロッパ全土を支配下におさめる大ナチ帝国を舞台に展開される気宇壮大な政治ミステリー。


《この一文》
“過去のことも、自分の属している世界のことも、自分自身のことも、何もかもまったく知らないで、自分の人生を生きるとは、ひどく滑稽なことだと、マルヒはそのあとで思った。それでいて、そんな生き方をするのはじつにたやすいのだ! ”




同じ人による『アルハンゲリスクの亡霊』という上下巻の小説を、以前読んだのですが、こちらの『ファーザーランド』もなかなか面白かった。とてもドラマチック。もしもドイツが第二次大戦で勝利していたら――という設定に興味津々だった私は、いつか読んでみたいと思っていたのです。

かつてUボートの乗組員であり、現在はベルリン刑事警察の捜査官、大隊指揮官のマルヒは、有能だがやや反抗的傾向がありゲシュタポから目をつけられている40歳代の男前という設定です。そして、無能だが実直で信頼できる友人でもある同僚。跳ねっ返りの若い美貌のアメリカ人女性記者。マルヒの行く先々に現れる親衛隊。マルヒの離婚した妻とその息子。そして湖畔で見つかった老人の死体。事件を追ううちに、隠されていた壮大な秘密が明らかになり、マルヒもその周囲の人々の運命も激流の中に飲み込まれていく……というお話です。典型的な政治サスペンスという感じ。

もしドイツが第二次大戦で勝っていたら――という設定ですが、私はそれを楽しみにしていたはずでしたが、読んでみた感触では、なぜその設定が必要だったのかいまいち分かりません。いや、物語はハラハラさせられるし、ものすごく盛り上がって面白いのですが、架空のドイツを舞台にしなければならなかった理由はあまり感じられないよなーと思ってしまいます。もちろん、私が歴史に疎いせいもありますが。実在の人物が多く登場するので、詳しい人が読めばもっとすっごく楽しめたのかも。しまった。私にはまだ早かったのか……。
それから、アルハンゲリスクの時のスターリンの描き方が迫力あって強烈だったので(あまり出てこないけど)、今回もインパクトのあるヒトラー像を期待していたのですがねー。(以下の一文→ネタバレ注意!)ヒトラーは出てこなかったよ(/o\;)


でも、とりあえずある種の閉塞空間で、自分の生きる環境に疑問を抱き、別の人生の可能性を考えたりするひとりの人間の物語としては面白かったです。

『アルハンゲリスクの亡霊』でもそうだった気がしますが、この作者は巨大な謎と秘密をめぐって複雑に錯綜する人間関係を描くのがうまいようです。緊迫感があります。また、謎が謎を呼び、最後まで事態が二転三転して、真相や事件の顛末を予測できません。クライマックスでは本当に気が抜けませんでした。

たまにはこういうのも面白いものですね。政治サスペンスとかミステリーとか、私は映画ではたまに観たりするのですがね。『ボーン・アイデンティティ』以下のシリーズも面白かったし。
小説では、このジャンルの名作と言えば、ほかには何があるのでしょうか。トム・クランシーとか? ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』なんかも結構面白かったんですけどねー。あとは何でしょう。おすすめとかあれば、どうか教えてくださいませ!



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スカッ

2009年07月30日 | もやもや日記

今日の空(部分)




久しぶりにスカッと晴れました。清々しい~!
空の青いところだけを写真に写しましたが、本当は大きくて薄暗い雲もいくらか浮いています。だけど、晴れてる。気持ちいい。私は曇りは苦手なんです。湿ってると最悪です。夏の暑いのは苦手ですが、私は日光にじりじり焼かれるよりも、むわっとした湿気に覆われる方が駄目なのです。晴れていて暑くても、カラッとしていれば大丈夫。

ちなみに昨夜は恐ろしく蒸し暑くて、とても寝られたものではありませんでした。ここしばらく涼しい夜が続いていただけに辛さは一層です。身も細る蒸し暑さ。そう言えば、この1ヶ月で見るからに痩せ細ってしまった私ですが、上半身だけしか痩せないのはいつも不思議……。上だけ鶏ガラって、見苦しいなー(/o\;)


しかし今日はちょっと雲が多いけど、カラッとしていていいですねー!
それだけで、テンションも上がるというものです。わっはっは!!
この勢いでいってほしい!
……でもたいがいは夕方から蒸してくるんだよなー。あ、言ってる側からちょっと空が暗くなってきた。夏らしい日はいつになったら来るの?

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気の滅入る短篇ふたつ

2009年07月29日 | 読書ー雑記



全然私の好みではないのだけれど、ものすごく心に残り、しかしもう二度と読みたくない、それについては感想を書くのも辛い、という物語と遭遇してしまうことが時々あります。こういうのは少し困りますね。勢いで感想を書いてしまえることもありますが、どうしても書けないこともしばしばあります。物語をふり返っても、何も言葉が出てこないのです。まったく駄目。真っ黒な気持ちが胸に広がるばかりです。
嫌いかと言うと、そういうことでもないのです。間違いなく優れた作品であるとも思います。だけど、触れたくない。ふり返りたくない。

詰まらない物語ならすぐに忘れてしまえますが、この手の印象的でありながらも受け入れがたい物語というのは、いつまでもその苦い味が残って、忘れようにも忘れられません。誤ってふたたび読んでしまわないように注意することくらいができるだけです。

そんな後味の悪すぎる短篇を、ここ数ヶ月で2つばかり読んでしまいました。忘れるかと思いましたが、忘れられないですね、暗過ぎて、もう。そんなドス黒い印象を受けた短篇は、以下の2篇。

 *夢野久作「死後の恋」

 *アンドレーエフ「深淵」

ふたつともご存知の方ならお気づきのように、両者には共通点がありますね。ロシアを舞台にしているという以外にも。私はこの種類のお話がとても苦手であります。ああ、滅入る~。


夢野久作の「死後の恋」も相当に残虐趣味で鬱々としてしまいますが、アンドレーエフの「深淵」は、とくに本当に気が滅入ります。人間という存在の弱さや惨めさ、卑劣さを、嫌というほどに思い知らされます。無垢のまま気高いままでは存続できない人間の弱さ。弱い人間には幸福を願う資格すらないと言うような惨めな結末。それはそれは絶望的です。堪え難い。

悪意に満ちた暴力は、他人を征服するためにはあまりにも簡単な手段なのです。力のないものはまるでそれを受け入れるより仕方がないというように、あっさりと踏みにじられます。おまけにやりきれないことには、そこには犠牲者への憐れみや哀しみがあると同時に、相手を屈服させたことの歓喜が、それだけの力を持つことへの憧れがあるということを、私は自分の心の内側に発見してしまうのです。

しかし、この問題に正面から取り組み、何らかの解決策を見いだせたなら(あるいはせめて見いだそうとする意志を持てたら)、人間として素晴らしく成長できそうなのですがねー。今の私には到底無理です。今どころか永遠に無理です。深淵はあまりに暗いのです。ああ、うっかり思い出してしまった……! 滅入ってきたぜ……

思い出しついでに少し感想を書いてしまったわけですが、おかげでひとつ気がついたことがあります。この物語には希望がまったくないのです。だから私は何も言えなくなってしまう。絶望を前にして、何か言うことがあるでしょうか。実に恐ろしい物語です。人間であることへの嫌悪感、怒り、憎悪が燃え上がってしまいます。
もう読みたくない。読まなくたって当分忘れられそうにもないのですけれど。


 これは一体何のためなんです?

「深淵」に登場する青年が絶叫するこの一言が、ずっと忘れられません。これは一体何のためなんだか、分かりません。そして私にはこの痛みと苦さを取り除くための手だては何もないのですけれども、でもちょっと元気のあるときくらいは、この問題について考えてみるのも悪くはないかなと、今ふと思えてきました。別にそれが全部無駄に終わったとしても構わないじゃないですか。私はここに絶望しか感じられないと嘆きつつも、しかしそうではない、そんなものであるはずがない、あっていいはずがないと言いたくてたまらない気持ちもあるではないですか。
もしかすると、悪とか汚れとか幸福とか美とか世界とか、そういったものに対する認識を、私は作り直す必要があるのかもしれません。そういうきっかけを与えられたのかもしれません。いずれにせよ、これらの作品は、私が愛するいくつかの物語と同様に、私を強く打ったことは間違いないのでありました。


というわけで、人間の世界の暗い暗い闇を、つい落ち込んでしまいそうな深淵を覗いてみたい方には、このふたつの物語はおすすめ! というお話でした。




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ゼリー★ゼリー☆

2009年07月28日 | 手作り日記


ラズベリーゼリーな昼さがり。




ゼリーの絵がなかなか評判良かったので(←たぶん)、続きを描いてみました。


出来上がりとしては、こちらのほうが良く出来ましたかね。なんとなく、構図的に。だけど、背景とテーブルの色合いはもうちょっとなんとかすればよかった。なんでこれでいいと思ったんだろう……。私はテーブルのこの青色が好きで多用するんですけれども、なんて言うか、相変わらず色彩感覚が欠乏してますね。今さら悩んでも仕方がないけど、うーむ。

おまけに白いネコはいつも背景の淡色に埋没してしまうのですが、まあ、いいか。それから頭がでかいので「大福みたいだね」と一部で言われてますけれど、それもまあ、いいや。夏らしくていいですよ(大福はともかくとして)。


前作と並べるとこうなります。



* 一緒に ゼリー★ ゼリー☆ *
(クリックで超拡大)



友達と並んで座って
ゼリーなんかを食べたい今日この頃。





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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』

2009年07月27日 | 映像(アニメーション)




このあいだの金曜ロードショーで放送されていたので観てみた。

テレビアニメシリーズを観たのはもう何年も前のことですし、この前の劇場版もこりゃいったいどうしたらいいんだーと思った記憶しかない私ですが、この『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』はなかなか面白かったです。

エヴァという一連の作品については、今さら私が説明することもないので省略。私がこれらを好きか嫌いかはともかくとして、エヴァがどれほど衝撃的な作品だったかは私も少しは理解しているつもりです。たしかにものすごいインパクトがありました。なにしろ主人公のシンジ君のネガっぷりが尋常じゃない。

今回の『序』でも、相変わらずシンジ君の超絶ネガティブぶりが堪能できますが、でもちょっと印象が違いましたね。なにか未来に希望が持てそうな風に描かれていたでしょうか。彼の言動にイライラさせられることが(思ったより)少なかったです。展開が早かったせいもあるのでしょうか。
ま、私がシンジ君を見ていてイライラするのは、それはつまり同族嫌悪といったようなものなのではありますが、彼は彼で色々と大変なのかも、と思えるようになりました。私も少しは大人になったのかもしれません。

それから、今までも気持ち悪かったけど、今回の使徒もやっぱり恐ろしく気持ち悪かったです。どうしてこんなに気持ち悪いんだ。私は使徒が出てきたり、彼らが倒されて赤い液体がドシャーッと盛大に飛び散ったりするたびに、うぎゃー! やめろー! キモイ!! とか喚いていたので、一緒に観ていたK氏は大変に迷惑そうでした。いやでも気持ち悪いよね。
リリスの下半分が根っこのように枝分かれしているのですが、その分かれたところのひとつひとつが白いタイツを履いたおじさんの足のようにピクピクしているのが、もう……!!
それから、あの美しく反射する菱形のやつ(上の画像参照)。きらきらときらめく綺麗な立体なのに、めくるめく変形を繰り返すさまは、やっぱり脳髄を直撃して痺れさすような気持ち悪さ。どうしてこんなに気持ち悪く、かつ恐ろしげに表現できるのかしら。私はこれが一番怖かったです。


イライラするとか気持ち悪いとかしか言ってませんが、でも、面白かったです! 映像の迫力が素晴らしいですし、これは劇場で観たら凄かったんだろうなー。現在公開中の『破』を観てきたK氏によると、そちらもいっそう面白い作品だったそうですし、完結編まで出揃う日が楽しみです。

というわけで、えーと、まだ物語は序の部分なので、ストーリーについては特に何も感想はありません。とにかく続きが気になりますね。


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ゼリー食べたい

2009年07月26日 | もやもや日記

描きかけの絵(部分)
ゼリーとネコ




夏になると、ゼリーが食べたくなりますね。
でも、私が最後にゼリーを食べたのは、いつだっただろう…。うーむ。あんまり記憶にない。ヨーグルトはよく食べるけど、ゼリーは食べないんだよなぁ。好きなのに。

それにしてもゼリーって、透き通ってて美しいですよね。うっとり。表面のつるつる感も好きですね。紫色のゼリーが食べたい。オレンジ色でもいいや。緑とか、赤だっていいんです。

 ゼリー食べたい

買ってくるか。うむ、今日は買ってこよう。


*Blueberry Jelly*(完成品)



透き通るブルーベリーゼリー。綺麗…。
ところで……ス、スプーン。
スプーンをひとつもらえます?

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『ロシア 心の闇(後編)』

2009年07月24日 | 学習

NHKハイビジョン /プレミアム8
「ロシア 心の闇(後編) 亀山郁夫が読む革命の芸術家たち」


《内容》
新訳「カラマーゾフの兄弟」を世に送り出した亀山郁夫さんが、映画監督エイゼンシテイン、詩人マヤコフスキー、作家ブルガーコフ、作曲家ショスタコーヴィチ、4人のロシア・アヴァンギャルドの表現者たちに迫る。



ブルガーコフを取り上げるというので見てみました。なかなか面白かったです。4人の偉大な芸術家の生涯と作品、思想についてを、亀山先生が分かりやすく簡潔に解説してくれます。

私はエイゼンシテインとマヤコフスキーについてはほとんど何も知らなかったのですが、これを見て、ちょっとその作品に触れたくなりました。映画『戦艦ポチョムキン』とか『イワン雷帝』なんかはものすごく有名ですよね。革命期を生きる映画監督というのは大変な苦労があったようです。伝説的な名場面が多数あるというエンゼンシテインの映画ですが、いつか観てみたいと思います。番組で取り上げられた部分を見るだけでも、たしかに迫力ある画面が続いていて、とても面白そうでした。イワン雷帝のタイトル画面がすごく格好良かった。さすがロシア。


マヤコフスキーについては、その生涯があまりに悲惨なので、不謹慎ながらそっちにもとても興味が沸きます。愛した女性がみんな政府から送り込まれた密告者だっただなんて…可哀想すぎるぜ。言葉の力で、声の力で世の中を変えられると信じながらも、その一方で詩情を生み出すのに欠かせない人間の心を失っていくことに絶望したらしいマヤコフスキー。番組で引用された詩が、胸にしみました。

 ぼくの精神には一筋の白髪もない
 年寄り臭い優しさもない
 世界を声の力でうち砕き
 ぼくは進む
 美男子で
 二十二歳
   ――「ズボンをはいた雲」マヤコフスキー
 


理想とか、信念とか、そういった強くて美しく、若々しい希望に溢れていたはずのものが、次第に薄汚れ、弱り、死にかけてゆくのは何故なんでしょうね。いったい何のためにそんなことが起こるんだろう。どうして留まってくれないのでしょうね。そんなのは当たり前だと思いますか? いいえ、私にはそうは思えないのです。きっと何かが足りなくて、どこかで何かを見落としたりしていて……。


ブルガーコフのところでは、やはり『巨匠とマルガリータ』が取り上げられていました。久しぶりに読み返したくなります。亀山先生は、ブルガーコフを “第一級の芸術家である” と評しておられましたが、私も同意。
善の立場から悪を憎むことがヒューマニズムであるとしたら、善と悪とは一枚のコインの表と裏であると考えるのはヒューマニズムではない。ブルガーコフは、後者にあたる。とのことでしたが、なるほどそう言われるとそうかもしれないと思います。二者択一ではなく、それを越えたさらなる高次なところ、真なるもの、不滅の、ブルガーコフという人は、そういうものを求めていた人なのかもしれません。
それにしても番組では、『巨匠とマルガリータ』のオチを思い切りばらしていましたが、良かったのでしょうか。だけど、あの部分がこの物語のもっとも感動的なところで、それを聞いたら、「どんなお話なんだろう?」ときっと興味が沸くだろうからいいのか。そう言えば、私も人に勧める時はまずそれを引用してたわ。だって、あまりにも感動的だから。あ、やっぱ読み返そう。

それにしても、スターリンから直接自分宛に電話がかかってくるとか、怖過ぎ……。


ショスタコーヴィチの交響曲第5番についての話も面白かったです。「ハバネロ」にある4つの音からなる有名なフレーズを自分の曲にも盛り込むことで、自らの密かな意思を音楽の中に込めたというショスタコーヴィチのこの曲。音楽って、そういうことが出来るのか、とひたすら感心してしまいました。奥深い! なにも知らない私などは、「お~、なんか盛り上がってすごい曲」くらいにしか思っていませんでしたけど、そんな反骨精神溢れるメッセージが込められていたとは!

それにしても、スターリンって、ほんと怖過ぎ。いったい何者だったのですかね。


というわけで、一人あたり20分ほどの短い時間でまとめられてあるものの、おそらく基本的な要点は抑えてあるんだろうなーという、なかなか面白い番組でありました。
芸術とは何かということについて、しばし考えさせられますね。私個人としては、芸術とは、人間をこれまでとは別の、もっと高いところへ押し上げる力を持った、人類の共有の財産であるべきものだと考えます。まあそれって、当たり前のことか。ただ、芸術を、芸術家を、社会はどう扱うべきかという問題は、きっと今でもまだ問題があるところなんだろうなーとも思ったりします。
人間の魂を圧倒する芸術を、本当に認めたり、本当に理解したりするためには、どうしたらいいのでしょう。時には自分にとってその意図や魅力がまったく分からない芸術作品もある、ということが、私を悩ませるのでありました。

話が逸れてしまいましたが、ロシア革命周辺の激動の時代にも、多くの優れた芸術家が抑圧に苦しみながらも素晴らしい作品を世に残していったという事実は、とても励まされることですね。私には何が正しくて、何が間違っているのか、何に価値があって、何には価値がないのかをきっぱり判断することはできないけれど、抗いがたい激しい流れに負けない人々がいるのです。それでも人類は素晴らしい、と思わせてくれるものが、芸術。と言ってしまっても、それはきっと間違ってはいないのではないでしょうか。



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昨日の

2009年07月23日 | もやもや日記
東京で見た日食を写真に撮ったものを、K氏からもらいました。
(上の写真)

え??
全然、ただの曇り空じゃ……;



と思いきや、ズームしてみると、たしかに欠けている(らしい)のが分かります。
(下の写真)



ありがとう。すごいね。一応写ってるね。
あー、しかし、昨日の午前中も今日みたいに晴れてれば良かったのに。




本当は書きたいことがあるのですが、そこはかとなく忙しくて文章をまとめられないので、適当にお茶を濁しております。オーウェルの『1984』のこととか、ピエール・ルイスの『ポーゾール王の冒険』のこととか、ほかにも、書きたいことはあるんですがねー。

今日は久しぶりに夕立が激しくて、契約中のスカパーの番組は、電波状況が悪過ぎて映りません。なんてこったーー! この時間はやめてくれよ! ちなみに、スーパードラマTVのベルトアワーで放送中の『スタートレックDS9』を観る予定だったのに…夜中に再放送があるからいいか。と思ったら、今日はなぜか違う番組をやっていた。ラッキーだった――のか?


ところで、夏はモロヘイヤが美味しいですよね。オクラも好きです。


(なんの脈絡もなく、おわる。。。)



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日食は?

2009年07月22日 | もやもや日記


今日はいよいよ日食が拝める日だと思って楽しみにしていましたが、あいにくの曇り空!! そろそろ梅雨が明けてほしいんですけど。もう夏休みなのに、小学生の方々などは、プールとか楽しめなくないですか。こんな悪天候続きでは。ひょっとして、いつかの夏みたいに梅雨明けたと言いながらもずるずると曇りがちの日が続いて、秋になってから「実は今年の夏は梅雨が明けてませんでした…」という衝撃の告白を聞かされることになったりして。まあでも、まだ7月だからな。これから明けるかな。


しかし、大阪でも欠けた太陽が見られると思ったのになー。無念だ!


 *追記

11時くらいに、外がざわざわすると思って見てみたら、道ばたに人だかりが。あっちのオフィスからもこっちのオフィスからもお勤め中の人々が、買い物途中のお母さんたちも、学生らしきお嬢さん方も、皆で空を見上げてました(この時間が大阪では最大に欠ける時間らしい)。

で、「おおっ」とか「わあ~」とか声を上げているので、もしやと思い私も飛び出して太陽を探しました。すると雲の隙間からちらっと太陽がのぞいています。……でも、あれ、……欠けてんの? 分かんねー。大阪は最大80%くらい欠けると言ってたけど、雲に隠れてるだけのようにしか……見えません!!


でも、なんて言うか、この一体感。皆で一斉に空を眺めることがあるだなんて、この一見殺伐としたかのような現代社会において、なんというメルヘン。ファンタスティック。くふふふふ。

3年後くらいには、金環日食があるらしいですよ。


 *追追記

午後1時現在。大阪はやや晴れています。
…あと、あと2時間早く晴れてくれれば……!! くっそー!

が、しかし!

piaaさんが、部分日蝕の様子を激写なさっています!
これだけ欠けてるのかー、わあ~~!!
超すごい! 感動的!! こちら→→ P&M Blog

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酷薄

2009年07月21日 | もやもや日記






雨が、まだ続きますね(大阪は)。


ついこのあいだの話。


外をふらふらと歩いてたら、歩道の車よけの上に、ずぶ濡れの小さい猫が死んで横たわっていました。一瞬、ぬいぐるみだと思った。このまえうちの窓の下で鳴いてた黒い猫と同じくらいの、まだ若い茶色い猫でした。

その前日の夜には、雷がすごくて、私はスペクタクルだなーと思って喜んでいたのですが、もしかしたらその大雨のせいで、この猫も死ななくてはならなかったのかもしれないと思うと、なんとも言えない気持ちになります。

もしも本当に優しい人だったら、あの猫をどこかへ埋めてあげたでしょうか。でも、この近くにはどこへも埋めてあげられる場所がないんですよね。土が見えている場所を思いつかないし、そもそもどこにも私の好きになる場所がない。
そんなことをまず第一に考えてしまう私は自分でも冷たい奴だと感じます。私にはこういう酷薄なところがあるんですね。

猫のことはとても可哀想だとは思ったけど、それよりもびっくりしてつい素通りしてしまった。
ついでに、私がまだ子供だった大昔の大雨の晩に、実家の開いた窓から2階へ逃げ込んできて寝ていた雀を(なぜか雨の夜なのに、窓が開いている、そんな家でした)、暗闇のなかで母がそれを踏んでしまって、雀の死骸を恐れる母のかわりに、朝になってから私が庭に埋めてやった時のことも思い出したりしました。
あの時は、私は雀が可哀想というよりも、ああ、雀って軽いんだなーと思ったりしていたのです。
ほんとうに、私は冷たい。物事を、遠くから眺めるような、すっとそばを素通りしてしまうような、絶対に自分から何かしようとかどうにかしようとか思わないあたりが、実に私らしい。

だけど、これはつまり、こういうことなのかもしれない。私は、私に向かってどっと押し寄せてくるものに対しては反応できるけれど、私のほうから誰か、何かに向かって働きかけることができない。猫や雀は死んでいて、死んでいるという事実以外、他にはなにも訴えてこないから、私は何か物でも見るような気持ちでいるのかもしれません。

と、死んだ猫を前にして、結局は自分のことばかり考えていることにも我ながら驚くというか情けないというか、どうなんだろうとつくづく考えてしまいました。
それに、よく考えてみると、私は死んだ生き物に対してだけでなく、時には生きている人たち、私を好きでいてくれる人たちにもこんな態度ではなかったでしょうか。いや、こんな態度でした。それも、「時には」というよりも、むしろ「頻繁に」。何か遠くにある物みたいに。


死んだ猫のことは、しばらくすると忘れてしまいました。でも、時折ふと、あの猫の口が少しだけ開いていたのを思い出して、私は甲斐もないことを考えてしまいます。私には何もしてやれないと思ったけれど、本当にそうだったろうか。たとえばそれが偽善とか自己満足とか、そういうものに過ぎなかったとしても、たとえ相手から返ってくるものが何もないと分かりきっていたとしても、私はなにか思うところがあるならば、そのようにすべきではなかっただろうか。

どうして私はいつも素通りしてしまうのだろう。私は冷たいやつだけど、でも、みんなが、できるだけ幸福であってほしいと願ってはいるのに、そのための具体的なことが、何一つ思いつかないし、思いついたとしてもきっと行動に移せない。もしかしたら、ささやかなことから始めるべきなのかもしれないけど、それさえも出来ない。

ああ、それにしても、美しい嵐の夜の下に、こういう悲しみがあるのだということを、いったいどう考えたらいいのだろう。世界はたぶん、私のこんな悲しみを簡単に通り越してしまう。お構いなしに押し流してゆく。私はほんの少しだってそれに抗うことができない。


あの猫、あのあとどうなったかな。私はそれさえ確かめに行けないでいる。今日も少し雨。




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