アルチバシェッフ
森林太郎訳(青空文庫)
《あらすじ》
医学士のソロドフニコフはある晩、特に用事もなかったのに思わず見習士官のゴロロボフの家を訪ねてしまう。ソロドフニコフは彼の人柄をよく知るわけではないが、普段から少し見下していたゴロロボフの口から、予想だにしなかったある深刻な問題が語られ始め――。
《この一文》
“ ソロドフニコフは歩きながら身の周囲(まはり)を見廻した。何もかも動いてゐる。輝いてゐる。活躍してゐる。その一々の運動に気を附けて見て、ソロドフニコフはこの活躍してゐる世界と自分とを結び附けてゐる、或る偉大なる不可説なる物を感じた。そして俯して、始て見るものででもあるやうに、歩いてゐる自分の両足を見た。それが如何にも可哀らしく、美しく造られてあるやうに感じた。”
天気予報によると、晴れるのは今日までで、明日からはずっと雨が続くんだそうです。そんな貴重な、晴れた、気持ちのよい日に、「死」なんていうタイトルの小説を取り上げるのはどうなのかというと、これはしかし、まさにそういう話だったのではないかと思うのです。
夜、ふと暗い考えが頭の中を横切ると、それはどんどん暗い方向へとめどなく進んで行ってしまって、なんだかもう死にたいとか、もうどうでもいいとか、どうせ人は皆死んでしまうのになぜまだ生きていなければならないのかとか、そんなことを考えてしまうものです。真っ黒な暗闇が身体ばかりではなく心の中にまで染み込んできて、そのまま飲まれてしまいそうになる。それを追いやろうとするには、私という存在はあまりにちっぽけなので、へなへなと萎れるような気持ちがすると同時に、むかむかと抑えがたい怒りのような気持ちも沸いてきたりします。ともかく、夜はそんなふうになりがちな時間帯です。
そうだ。
人は生れてしまえば、いつかは自分が死んでしまうということを分かっていて、毎日を過ごしている。死の恐怖を感じながら、それでいてそれがここまでやってくるのはまだ先のことだと、死ぬのは私ではなくてとりあえず今は別の誰かだと思いながら過ごしている。でも、死ぬ。誰も彼も死ぬ。それは明日かもしれないし、明後日、来月、来年、かならずどこかで死ぬ。死んだ肉体はしかし分解されて、私を構成していた原子はふたたび何かの物体に、何かの生命として再構成されるかもしれない。けれども、霊魂は? この魂は? ここで苦しみ悲しみ喜び楽しんだ、この魂はどうなるのだろう? 魂なるものが存在するとすればの話だが、それは、ぱっと虚しくも消滅してしまうのではないだろうか。そしてまたいつか人類が全滅してしまう日が来るとしたら、我々のこの建設も生産も、いずれはすべて同じように消滅してしまうのではないだろうか。だとしたら、これはなんだ? まるで消滅するために繰り返されているようにみえる、これはなんだ?
若い見習士官のゴロロボフは苦しみます。彼は生きたいと願っているのに死ななければならない。生きる能力があるのに、いつかは死ななくてはならない。彼はその死というものの暴力に、暴力をもって対抗しようというのです。
それを聞いた医学士ソロドフニコフは、職業柄、人間の死に慣れていたはずであったのに青ざめます。彼はそんなことを考えたことがなかった。死ぬのは当たり前だと思っていた。けれども、なぜ当たり前なのか? なぜ死なねばならぬのか? 己が死んでもすべては元の通りこの世界に残される。己以外のすべてはここに。己だけが消え去るのだ。「なんの為めに己は生きてゐて、苦労をして、あれは善いの、あれは悪いのといつて、他人よりは自分の方が賢いやうに思つてゐたのだ。己といふものはもう無いではないか。」
ゴロロボフの考えが伝染し、死の恐怖にはじめて対面したソロドフニコフ。ゴロロボフは自然の死という死刑宣告に対して、自殺という手段で打ち勝つつもりだと医学士に告げ、果たしてその通りに死んでしまうのでありました。
先に読んだ「笑」と同様のテーマを扱っています。
人はなぜ生きるのか。死ぬと分かっていて生き続け、生産し、建設し、苦しみに、喜びに、転げ回って、それが明日にも無へと帰してしまうかもしれぬというのに。いったいなんのために生きるのだろうか。気づいたら「生」へと引き摺り出されていて、あっという間もなく今度は「死」へと追いやられる。なぜだ。なんのためなんだ。この、されるがままにされるしかない「私」とはなんなんだ?
「笑」では、最後は登場人物のふたりが、死の、終わりの恐怖を、虚しさを、狂気のような笑いで追いやろうとするように笑って終わりました。私も彼らのように、自分がいずれ死ぬと知り、人類の歴史もまたいずれは終わるだろうと予想しながら生きています。その最後の日がすぐそこまで来ていると知れば、私だってきっと笑うだろう。でもそれは、死と、終わりとが、恐ろしいからというのではない。すべてが虚しくなるその不条理の、ナンセンスに笑うのではない。私はもっと違うふうに笑いたいと思うのであります。
「死」の医学士ソロドフニコフも最後は微笑みます。ゴロロボフの死はソロドフニコフに強い衝撃を与えましたが、夜が明けた。夜明けは美しかった。世界は美しかった!
この残酷さに耐えかねてゴロロボフは死んでしまったのかもしれませんが、彼の死がまるで何でもないことであるかのように、翌朝の世界は美しいものだったのです。太陽は美しく燃えるのです。ソロドフニコフは死の恐怖を認識したのと同時に、生きることの美しさもまたはじめて発見したのでした。
世界は美しい。
そうだ、人は死ななければならない。生きることがそんなにも美しくて素晴らしいというなら、ずっと生き続けることができればいいし、そうあるべきではないかとも思うのに、なぜだかそれはできない。そのことにはどうも納得できない。恐ろしいし腹も立つ。けれども、なんでもいい。「恐怖、憂慮、悪意、なんでも好い。それが己の中で発動すれば好い。さうすれば己といふものの存在が認められる。己は存在する。歩く。考へる。見る。感ずる。何をといふことは敢て問はない。少くも己は死んではゐない。どうせ一度は死ななくてはならないのだけれど。」
ここに、涙が滲むほどの感激がある! 生産も、建設も、関わらないでやってきた私はきっと何も持たず、したがって後には何も残さずに消え去るだろう。構わない。今、私に注ぎ込まれたこの感激があれば、それを感じられさえすれば、あとはどうでもいい。私はただの器でいい。ここへ様々のものを注がれる、しっちゃかめっちゃかに注がれる、絶望でも、悲嘆でも、恐怖でも、美でも、その歓喜でも、なんでもいい。器が満たされているとき、たしかに私は存在する。打ち砕かれるまで、注がれるだけだ。
私もいつかは死ぬ。それは恐ろしい。けれども実のところ私は、自分が死ぬことよりも私のまわりの人が死んでいってしまうことのほうが恐ろしい。その人を失って、それなのに続く世界を容認できない日が来るだろう(そして既に来ている)ことを怖れている。それは恐ろしい。けれども、皆いつかは死なねばならないのだ。なんてこった。
私はただの器だ。なんのためにこしらえられたのか知らない。空っぽのところに、好き勝手なものを注がれるだけの器。いつかは砕かれるだろう。けど、まだ砕けてないよ。私にはその意味が分からない。けれども、いつか、どこかで、誰かにはそれが分かるのかもしれない。私には分からなくても構わない。私はただの器でいい。ここへ様々のものを注がれる、しっちゃかめっちゃかに注がれる、絶望でも、悲嘆でも、恐怖でも、美でも、その歓喜でも、なんでもいい。器が満たされているとき、たしかに私は存在する。だから、打ち砕くまで、注いでくれよ!
明日すべてが砕かれます。あはは、そう、じゃあこれもみんなこぼれてしまいますね。けど、それなら、いまのうちにもっと、もっと! もっと!!!
ここに満ちた、朝と昼の、これを、少しでも器に残して置くことができれば、私は次の夜もどうにか越えられる。昼と、夜との繰り返しですね。
いつか私が打ち砕かれても、その翌日が何事もなかったかのように美しいものであったらいいな。いつか人類が地球全体が打ち砕かれてしまったとしても、その翌日(もう翌日という数え方はできないかもしれないけれど)の宇宙が何事もなかったかのように美しいものであったらいい。そんなことを思って、私は微笑みを浮かべたい。それが明日なら、私もきっと笑うけど、それはできればこんな微笑みであったらいいと思うのです。
********
アルチバシェッフの短編「笑」と「死」とは、こちらで読めます。
*
アルチバシェッフ「笑」:青空文庫
*
アルチバシェッフ「死」:青空文庫