半透明記録

もやもや日記

お知らせ

『ツルバミ』YUKIDOKE vol.2 始めました /【詳しくはこちらからどうぞ!】→→*『ツルバミ』参加者募集のお知らせ(9/13) / *業務連絡用 掲示板をつくりました(9/21)→→ yukidoke_BBS/

「聖像画家アポレク」

2011年10月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

バーベリ 木村浩訳
(集英社『ロシア短篇24』所収)




《この一文》
“ 聖像画家アポレクの賢明ですばらしい一生が、古いぶどう酒のように、私の頭にのぼった。あわただしく踏みにじられたノヴォグラト=ヴォルインスクの町の、鉤のように傾いた廃墟のなかで、運命は、世人の眼から隠れていた一冊の福音書を、私の足許に投げてよこしたのだった。そのとき、私は汚れない後光の輝きにつつまれて、アポレクに見ならうことを誓ったのだ。そして内に秘めた悪意の心地よさを、人面(づら)をした犬どもや豚どもへの苦々しい軽蔑を、黙々と心を燃やす復讐の焔を――私はこの新たな誓いの犠牲にささげたのだ。 ”





上に引用したのは、この短篇の冒頭の一段落ですが、ここからして既に私は衝撃的なほどに強い印象を受けてしまいました。ほんの短い物語で、とくに大きな事件が描かれるわけでもなく、なんでもないささやかなお話であったと思うのに、ここにはなにか蜂蜜のように滑らかにきらめく、まぶしい、溢れるようなものがありました。私の胸に充ちてくる、輝きを放つこの熱いものは、たしかに私が常に探し求めているそれそのものであります。


解説によると、このバーベリさんは、短篇作家として名高いそうです。なるほど、それはすごくよく分かりました。簡潔で、しかも色鮮やかなイメージが、次から次へと目の前に現われます。これはすごい。映画を観ているようだった。

この「聖像画家アポレク」は、ある時ノヴォグラトの町に不思議な二人組がやってきて、一人はアポレクという名の聖像画家、もう一人はその親友で盲目の手風琴弾き。アポレクは、町の住人であるびっこの改宗者を使徒パウロとして、両親不詳で大勢の子供を生んでは捨てたユダヤ娘をマグダラのマリヤとして描き、その仕事のために教会からは瀆神者とされておどされ、以後30年に渡って争うことになる。しかし、アポレクはそんなことを気にもせず、屈託なく酒に酔っては放浪する。というお話。

とくになにごとも起こらない物語です。しかし、なんだか異常な魅力に溢れていました。

この一文もまた、心に沁み入ります。

“「司教さま」と、故買をやっているびっこの墓番ヴィトルトが言った。
 「おなさけぶかい神さまは、なにを真実とご覧になっておられるか、
 このことについて無学なわしらに教えてくださる方がおりますか?
 あなたさまはただけなしたり、怒ったりされておりますが、わしらの
 誇りを満足させてくれるアポレクさんの絵の中にはあなたさまのお説
 教よりもっと多くの真実があるのでは?」 ”



人がただ生きる、この世界はそのままで美しい。そんなふうに思いたくなるような、たしかさと逞しさとがあったように思います。素晴らしい短篇! こんなに短いのに、本当にすごいな!



さて私はイサーク・バーベリはまだほとんど読んだことがないですが、所有する本のいくつかにこの人の作品が収められていることに気がつきました。なんでも集めておくもんだ。読みたいと思った時に、それがすぐそばに既にあるなんて最高ですね。手当たり次第に買い集めてきた私ったら、ほんとうに偉かったわ。

早速『現代ソヴェト文学18人集』という新潮社のシリーズに『オデッサ物語』を発見しました。これについては前々から読んでみようと思いつつ、私には合わないかもしれないなんて心配していましたが、それは大きな誤りであったと今回めでたくもわかったので、そのうちに読みます。






「死」

2011年05月25日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


アルチバシェッフ
森林太郎訳(青空文庫)


《あらすじ》
医学士のソロドフニコフはある晩、特に用事もなかったのに思わず見習士官のゴロロボフの家を訪ねてしまう。ソロドフニコフは彼の人柄をよく知るわけではないが、普段から少し見下していたゴロロボフの口から、予想だにしなかったある深刻な問題が語られ始め――。


《この一文》
“ ソロドフニコフは歩きながら身の周囲(まはり)を見廻した。何もかも動いてゐる。輝いてゐる。活躍してゐる。その一々の運動に気を附けて見て、ソロドフニコフはこの活躍してゐる世界と自分とを結び附けてゐる、或る偉大なる不可説なる物を感じた。そして俯して、始て見るものででもあるやうに、歩いてゐる自分の両足を見た。それが如何にも可哀らしく、美しく造られてあるやうに感じた。”





天気予報によると、晴れるのは今日までで、明日からはずっと雨が続くんだそうです。そんな貴重な、晴れた、気持ちのよい日に、「死」なんていうタイトルの小説を取り上げるのはどうなのかというと、これはしかし、まさにそういう話だったのではないかと思うのです。


夜、ふと暗い考えが頭の中を横切ると、それはどんどん暗い方向へとめどなく進んで行ってしまって、なんだかもう死にたいとか、もうどうでもいいとか、どうせ人は皆死んでしまうのになぜまだ生きていなければならないのかとか、そんなことを考えてしまうものです。真っ黒な暗闇が身体ばかりではなく心の中にまで染み込んできて、そのまま飲まれてしまいそうになる。それを追いやろうとするには、私という存在はあまりにちっぽけなので、へなへなと萎れるような気持ちがすると同時に、むかむかと抑えがたい怒りのような気持ちも沸いてきたりします。ともかく、夜はそんなふうになりがちな時間帯です。


そうだ。
人は生れてしまえば、いつかは自分が死んでしまうということを分かっていて、毎日を過ごしている。死の恐怖を感じながら、それでいてそれがここまでやってくるのはまだ先のことだと、死ぬのは私ではなくてとりあえず今は別の誰かだと思いながら過ごしている。でも、死ぬ。誰も彼も死ぬ。それは明日かもしれないし、明後日、来月、来年、かならずどこかで死ぬ。死んだ肉体はしかし分解されて、私を構成していた原子はふたたび何かの物体に、何かの生命として再構成されるかもしれない。けれども、霊魂は? この魂は? ここで苦しみ悲しみ喜び楽しんだ、この魂はどうなるのだろう? 魂なるものが存在するとすればの話だが、それは、ぱっと虚しくも消滅してしまうのではないだろうか。そしてまたいつか人類が全滅してしまう日が来るとしたら、我々のこの建設も生産も、いずれはすべて同じように消滅してしまうのではないだろうか。だとしたら、これはなんだ? まるで消滅するために繰り返されているようにみえる、これはなんだ?



若い見習士官のゴロロボフは苦しみます。彼は生きたいと願っているのに死ななければならない。生きる能力があるのに、いつかは死ななくてはならない。彼はその死というものの暴力に、暴力をもって対抗しようというのです。

それを聞いた医学士ソロドフニコフは、職業柄、人間の死に慣れていたはずであったのに青ざめます。彼はそんなことを考えたことがなかった。死ぬのは当たり前だと思っていた。けれども、なぜ当たり前なのか? なぜ死なねばならぬのか? 己が死んでもすべては元の通りこの世界に残される。己以外のすべてはここに。己だけが消え去るのだ。「なんの為めに己は生きてゐて、苦労をして、あれは善いの、あれは悪いのといつて、他人よりは自分の方が賢いやうに思つてゐたのだ。己といふものはもう無いではないか。」

ゴロロボフの考えが伝染し、死の恐怖にはじめて対面したソロドフニコフ。ゴロロボフは自然の死という死刑宣告に対して、自殺という手段で打ち勝つつもりだと医学士に告げ、果たしてその通りに死んでしまうのでありました。



先に読んだ「笑」と同様のテーマを扱っています。
人はなぜ生きるのか。死ぬと分かっていて生き続け、生産し、建設し、苦しみに、喜びに、転げ回って、それが明日にも無へと帰してしまうかもしれぬというのに。いったいなんのために生きるのだろうか。気づいたら「生」へと引き摺り出されていて、あっという間もなく今度は「死」へと追いやられる。なぜだ。なんのためなんだ。この、されるがままにされるしかない「私」とはなんなんだ?


「笑」では、最後は登場人物のふたりが、死の、終わりの恐怖を、虚しさを、狂気のような笑いで追いやろうとするように笑って終わりました。私も彼らのように、自分がいずれ死ぬと知り、人類の歴史もまたいずれは終わるだろうと予想しながら生きています。その最後の日がすぐそこまで来ていると知れば、私だってきっと笑うだろう。でもそれは、死と、終わりとが、恐ろしいからというのではない。すべてが虚しくなるその不条理の、ナンセンスに笑うのではない。私はもっと違うふうに笑いたいと思うのであります。



「死」の医学士ソロドフニコフも最後は微笑みます。ゴロロボフの死はソロドフニコフに強い衝撃を与えましたが、夜が明けた。夜明けは美しかった。世界は美しかった!

この残酷さに耐えかねてゴロロボフは死んでしまったのかもしれませんが、彼の死がまるで何でもないことであるかのように、翌朝の世界は美しいものだったのです。太陽は美しく燃えるのです。ソロドフニコフは死の恐怖を認識したのと同時に、生きることの美しさもまたはじめて発見したのでした。

世界は美しい。


そうだ、人は死ななければならない。生きることがそんなにも美しくて素晴らしいというなら、ずっと生き続けることができればいいし、そうあるべきではないかとも思うのに、なぜだかそれはできない。そのことにはどうも納得できない。恐ろしいし腹も立つ。けれども、なんでもいい。「恐怖、憂慮、悪意、なんでも好い。それが己の中で発動すれば好い。さうすれば己といふものの存在が認められる。己は存在する。歩く。考へる。見る。感ずる。何をといふことは敢て問はない。少くも己は死んではゐない。どうせ一度は死ななくてはならないのだけれど。」

ここに、涙が滲むほどの感激がある! 生産も、建設も、関わらないでやってきた私はきっと何も持たず、したがって後には何も残さずに消え去るだろう。構わない。今、私に注ぎ込まれたこの感激があれば、それを感じられさえすれば、あとはどうでもいい。私はただの器でいい。ここへ様々のものを注がれる、しっちゃかめっちゃかに注がれる、絶望でも、悲嘆でも、恐怖でも、美でも、その歓喜でも、なんでもいい。器が満たされているとき、たしかに私は存在する。打ち砕かれるまで、注がれるだけだ。


私もいつかは死ぬ。それは恐ろしい。けれども実のところ私は、自分が死ぬことよりも私のまわりの人が死んでいってしまうことのほうが恐ろしい。その人を失って、それなのに続く世界を容認できない日が来るだろう(そして既に来ている)ことを怖れている。それは恐ろしい。けれども、皆いつかは死なねばならないのだ。なんてこった。


私はただの器だ。なんのためにこしらえられたのか知らない。空っぽのところに、好き勝手なものを注がれるだけの器。いつかは砕かれるだろう。けど、まだ砕けてないよ。私にはその意味が分からない。けれども、いつか、どこかで、誰かにはそれが分かるのかもしれない。私には分からなくても構わない。私はただの器でいい。ここへ様々のものを注がれる、しっちゃかめっちゃかに注がれる、絶望でも、悲嘆でも、恐怖でも、美でも、その歓喜でも、なんでもいい。器が満たされているとき、たしかに私は存在する。だから、打ち砕くまで、注いでくれよ!


明日すべてが砕かれます。あはは、そう、じゃあこれもみんなこぼれてしまいますね。けど、それなら、いまのうちにもっと、もっと! もっと!!!






ここに満ちた、朝と昼の、これを、少しでも器に残して置くことができれば、私は次の夜もどうにか越えられる。昼と、夜との繰り返しですね。

いつか私が打ち砕かれても、その翌日が何事もなかったかのように美しいものであったらいいな。いつか人類が地球全体が打ち砕かれてしまったとしても、その翌日(もう翌日という数え方はできないかもしれないけれど)の宇宙が何事もなかったかのように美しいものであったらいい。そんなことを思って、私は微笑みを浮かべたい。それが明日なら、私もきっと笑うけど、それはできればこんな微笑みであったらいいと思うのです。





********

アルチバシェッフの短編「笑」と「死」とは、こちらで読めます。

 *アルチバシェッフ「笑」:青空文庫

 *アルチバシェッフ「死」:青空文庫






「笑」

2011年05月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト


アルチバシェッフ
森林太郎訳(青空文庫)




《あらすじ》
医学士は窓辺で死について思いをめぐらせている。彼は気持ちが暗くなってきたので、病院内を歩き回って、ゆうべ新しく来た患者の部屋へ入ってみたのだが――


《この一文》
“不思議はそこではなくて、別にあります。不思議なのは、人間といふ奴が、始終死ぬ事を考へてゐて、それを気の遠くなるまでこはがつてゐて、死の恐怖の上に文化の全体を建設して置いて、その癖ひどく行儀よくしてゐて、真面目に物を言つて、体裁好く哀れがつて、時々はハンケチを出して涙を拭いて、それから黙つて、日常瑣末な事を遣つ附けて、秩序安寧を妨害せずにゐるといふ事実です。それが不思議です。わたくしの考へでは、こんな難有い境遇にゐて、行儀好くしてゐる奴が、気違ひでなければ、大馬鹿です。”






無と、無の、その間に己の命があるのだとしたら、この一瞬間に過ぎない生命にはいったいどんな意味があるというのか。死がおそろしい。己の生も死も、永遠のなかで無限に繰り返されているだけの、ただそれだけのものだとしたら、己のこの生命にはいったいどんな意味があるというのか。それでも、己はここで悩んだり苦しんだり怖れたりしながらも生きて、そういった己の苦しみがあとからやってくる世代の役に立つだろうとも思う。けれども、しかし………。



とても短いお話です。ところが、興味深い点がいくつもある。私はそれについてよく考えてみようとしばらくうなってみましたが、もやがかかったみたいに、うまくいかない。彼らの対話の全部を秩序立てて考えてみることができない。でも、面白かったですよ。



物語に登場する医学士と入院患者との対話は、最後は笑いで終わります。彼らは笑うんです。彼らが怖れる彼ら個人の死の虚しさは、永遠ほども長い時間のなかでまた別の命として果てしなく繰り返されるというならば、あるいは、彼らが死に至るまでの考えや行動のわずかばかりでも次の世代へそのまた次の世代へと受け継がれていくというならば、それが確かなことならば、己の死はそこまで虚しいものでもないと思えたのかもしれない。個人が死に絶えても、人類としてはその生命をずっと未来まで、ほとんど永遠とも思えるほど先の未来まで繋げられるとしたら、この己の死がその一部であるならば、そこまで虚しいものではないのかもしれない。けれど、私が死ぬ、そして人類もまたそのほんの少し先の未来で死に絶えてしまうと分かっていたら? 地球上の生命の死滅の時が、もうそこまで迫っていると知ってしまったら?

それで、医学士と患者とは笑うのです。

私もまた笑うだろうか。毎日笑って過ごせば幸福でいられるようなことがよく言われるし、私もそう思うのだけれども、でも、どうして笑ってただそれだけで済んでしまうような気になるんだろう。あははと笑いさえすれば、物語だってそれでなにかうまくいったみたいにして終わることもできる。

楽しいから、面白いからといって笑うのは、すべていいことだと疑わなかったけど、でも笑うって何だろう。そら、痛かったり苦しかったりするよりも、楽しかったり面白かったりする方が気持ちがいいから、そういうときに出て来る「笑い」というものも肯定的に考えているのかもしれない。けれど、楽しいとか面白いとか、それってそんなによいことなんだろうか?

分からないことだらけのこの世の中で、笑って過ごすことだけがわずかに確からしいと信じてきましたが、それがそうではなかったらどうする? たとえば、この地上で、一生懸命に仕事をしたり、綺麗なものを造り出したり、大切に保管したり、遠くへでかけたり、あれをみて喜んだり、これを聞いて読んで楽しんだり、そういうことを美しいと私は思ってきたけれど、美しいと思ったのは、それらすべてが人類全体の財産となり、これからの世代をいつかはもっと美しいところへ連れて行く助けとなるだろうと思っていたからかもしれません。でも、たとえば、その人類が、自滅ではなく、宇宙の天体のバランスの問題で否応なくその破滅をすぐ先の未来で約束されているとしたら? それはたとえば数百年後とかで、私はその時にはもう生きてはいなくて事態を目撃することはないにしても、地球を丸ごと崩壊させる不可避の大事件がすぐそこにあると知ったら、私もやっぱり笑うんじゃないかな。

明日に打ち切られてしまうプロジェクトを、それと知らずに、明後日もその先も存続すると信じて打ち込むのは、ちょっと馬鹿げてはいないだろうか。いつ終わるかを知らないからがんばれるけれど、もし期待よりもずっとはやくに終わると知ってしまったら? 


私も笑うかもしれない。これは楽しいからだろうか、それとも面白いからだろうか。「狂気」の一言でこれを片付けられる? どうかな、どうだろう。



私もたぶん笑うと思う。けれども、その笑いはこのお話の結末でふたりが笑ったような笑いではなく、もう少し違った意味を含む笑いとなるのではないかと、今は、思っています。アルチバシェッフのもうひとつの短編「死」もまた「笑」と同じテーマを扱ったものですが、こちらの結末のほうが、今の、私には共感できるものでしたね。「今の」というのは、私も別の時期にはやはり「笑」のふたりが笑ったように笑うと思うからです。こことそこをいったりきたりしているからです。

というわけで、今度はもうひとつの短編「死」について考えてみるつもりです。アルチバシェッフ、面白いよ。青空文庫で読める森鷗外先生の翻訳は、どれも面白い作品ばかりでいいですね。しかし聞くところによると、鷗外先生はお話を翻訳する際に大胆に改変したりすることがあったといいますから(←どこで得た情報かはおぼろげ;)、アルチバシェッフの原作がこの通りであるかどうか私には分かりませんが、いずれにしても、「笑」と「死」とは、私には面白いテーマを持った作品であることには違いがないようです。

ふと思いついて蔵書を調べてみたところ、私はこのアルチバーシェフの『サーニン』を持っていました。アルチバシェッフってあんまり聞いたことないけど、結構面白いよね、とか思っていましたが、あっ、この人だったか!! 有名人だった…全然気がつかなかった…そして『サーニン』はまだ読んでいなかった……はぁぁぁ。

まあ、ともかく、次回(か次々回)は「死」について。







「五人同盟」

2011年03月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

アレクセイ・H・トルストイ
『ロシア・ソビエトSF傑作集 下』(創元SF文庫)所収



《あらすじ》
三本マストのヨット《フラミンゴ号》の中では、船主のルフをはじめとする5人の大富豪と一人の技士が、七日間で世界中の富と権力を手中におさめるための秘密の話し合いをしていた。彼らの攻撃の構想は、人類を未曾有の堪え難い恐怖で世界をたたきのめし、人類を麻痺させること…。


《この一文》
“ この人類の周章狼狽ぶりには、見ておれない、無力な、子供のように哀れなところがあった。金、権力、堅固な経済体制とゆるぎなき社会層に対する確信、全能が――《五人同盟》がそれをめざしてあゆんできたすべてのもの――それらがすべて全世界で突然、力と魅力を失ってしまったのだ。(中略)《五人同盟》の一人、おいぼれこおろぎに似た老人が、ひからびた掌をこすりながら繰り返していた。
「闘争を期待しておったのに、こんな降伏のしかたはないぞ。わたしの年で人間嫌いになるなんてあまりにも悲しい」 ”




月が、ものすごく大きかったらしい。私は見逃してしまいましたが、「月」が人類にあたえる巨大な印象を扱ったSF短篇があることを思い出し、読み返してみました。アレクセイ・トルストイの「五人同盟」です。「世界が盗まれた七日間」という別の題(最初にこの作品が発表された時の題名)が添えられています。


***

ここから先は物語のオチをバラして書こうと思うので、これからこの物語を読みたいという方はご注意ください。


さて、大富豪ルフ率いる《五人同盟》には壮大な計画があり、彼らは世界中の富と権力のすべてを自らの手中におさめるべく、恐るべきその計画を実行に移します。彼らは夜空に輝く美しいあの「月」に強力な爆撃を加えることによって、「月」を打ち砕こうというのです。買い占められた無人島で計画は秘密裏に進んでゆき、おりしも地球に接近していた「ビエラ彗星」の騒ぎに乗じて、「月」に向けて無数のロケット弾攻撃をしかけ、見事「月」は7つの大きな塊に砕け散るのでした。人類はそのありさまを目撃し、狂気と大混乱に陥り、《五人同盟》による〈恐怖の一週間〉が計画通りに作り上げられたのだが……。


目前で砕け散る「月」は、人々の心まですっかり破壊してしまいます。あまりにも度を超した現実を前に、人類は精神を持ちこたえることができません。


“ 当時〈四万年について〉という見出しで、月の残骸との衝突を心配せずに、地球は安心して気楽に働き発展できると書いた楽天的な論説が新聞で報じられた。
 その記事はいい印象をあたえたようだった。退嬰的な瞑想家たちは屋根からおりてきたし、商店は店を開き、徐々にではあったがふたたびレストランや広場で音楽が演奏されるようになった。だが、人類に、なにかかろうじて目につく影のようなものが跡を残し、放心状態が認められた。
 張りつめた精神状態、野心のせめぎあい、苦痛、断固たる取り扱い、規律、秩序――こういった管理のために都合のいい、ごく普通の大都市の組織体が少しずつなにかもっと柔軟で拡散した、とらえどころのないものに変わっていった。”


人類の破滅や文明の終焉といった恐怖心を煽るさまざまな情報が世間を飛び交ったあとに、「しかしただちに地球が滅亡するわけではない」という楽天的観測の記事が登場する。それは人々の心を安心させたかに見えて、実はすでになにか決定的ななにかが、人類の精神から失われてしまっているようでした。何だろう。それは、何だろうか。




アレクセイ・トルストイの「五人同盟」は私の大好きな短篇小説です。これまでに何度か繰り返して読んできてそのたびに面白いと思ってきましたが、今回はなにか、なんだか…言葉もありません。けれども、人類は度を超した異常事態に遭遇すると、まさにこういう反応を示すものだよなぁとつくづく納得させられました。今ここにある混乱とある種の停滞を、そっくりに描いてありました。私はここから何を学べるだろうか。この物語の結末は、私にはどうもよく理解できないし、全編を通してとても苦い味を感じはしますが、何か考えないと。
ひとつ、私がそう思いたいと強く思っていることには、人類は未曾有の大惨事を前に正気を失ったとしても、たぶんそれでも慎ましく逞しく生き延びてはいくだろうということですかね。それまで当たり前に丸く美しく輝いていた月が、無惨に砕け散って鉛色に鈍く光るだけの瓦礫になったとしても、それに慣れていくより他はないし、恐らくそれにも慣れるだろう。こういう態度というのは、これは悲しいことなのかな。どうかなのかな。
でも、さまざまのことを諦めながらも、悲しみながらも、我々は新しい秩序をそれなりに築いてゆくだろうし、私はまだこの作品中の「こおろぎに似た老人」のようには、人間嫌いにはなれないようです。いや、なれないというより、まだ、なりたくない。








「炎の河」

2010年11月19日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

ヴェショールイ 小笠原豊樹訳
(新潮社『現代ソヴェト文学18人集』所収)



《あらすじ》
蓄音機のワニカと鰐(わに)のミーシカは親友同士だ。二人は忘れられぬあの十七年に巡洋艦を下りて以来、内戦の間は海を見ることなく方々をさまよったが、ようやく懐かしの港へ戻ってきた。昔馴染みの兵曹長フェドーティチと再会し、再び船に乗り込むが、時代はすでに変わってしまっていた。


《この一文》
“そう、昔ならば、向う見ずなやり口が非難を受けることはなかった。何もかもが短銃で片がつき、焼き立てのパンのように素朴なことばで片がついた。この糞面白くもない時代になってからなのだ、仔牛のようなおとなしさが尊敬されるのは。現在、世間が尊ぶものといったら、一つの尺度、金、そして屑のようなことばだけだ。このことが、ミーシカとワニカにはどうしても理解できない。 ”




自由に生きるとはどういうことなのか分かりませんが、ミーシカとワニカは船乗りの剛胆さで数々の試練を冒険を乗り切り、気の向くまま、思うがままに生きてきましたが、しかしいつの間にか時代は変わり、彼らは再び同じ船に乗って大海原を進むことは出来ないらしいことを思い知らされるのでありました。

全く考え方の違う人間同士が同じ船の上で暮らしていくことは、どうやったって無理だろうと思いながら私は読み進めましたが、この物語は果してそのような結末を迎えました。
革命の前と後では、なにもかもが変わってしまった。
ミーシカとワニカはいざとなったら強盗だって厭わないというなかなか困った奴らなのですが、単純な魂を持ち、世界を稲妻のように駆け抜けていこうとする強靭な生命力の持主でもあります。時代が変わってしまっても、兵曹長のように年老いていればいくらか諦めもついたかもしれませんが、ミーシカもワニカもまだ若い。古い時代には彼らの生きるべき、生きる甲斐のある大いなる世界があったのに、いちいち規律だ同志だと言われる日々に耐え忍んで生きていくには先が長過ぎる。ほとほとうんざりしてしまう。それで結局、彼らはせっかく久しぶりに乗り込んだ船から下りる羽目になるのです。


人間は、人それぞれで考え方が違うという事態において、どう対処すればいいのでしょうか。たとえばそこに何か巨大な問題が持ち上がって、革命だ、ぶち壊せ、お祭りだ、と盛り上がっている最中にはまるで大勢がひとつの統一された意思を持っているかのように錯覚できますが、ひとたび祭りが終わってしまえば、人々は再びそれぞれの違いをあらわにしながら小さな衝突を繰り返すようにも見えます。この時にどうしたらよいのか。あらためてひとつにすべく思想を統制するのか(緩やかに教育するにしろ、手っ取り早く異分子を追放、抹殺するにしろ)、あるいは…えーと、他にどんな手段があるだろう。

船を下りざるを得なかったミーシカとワニカですが、彼らは他人の船に乗ろうとしたから駄目だったのかもしれません。彼らにも自分の船があれば、好きなところへどこまでも乗っていけたのではないでしょうか。同じ船に乗ろうとするから無理があるんだ。違う船、自分の船に乗ったらいい。そんな金はないだろうけれど、どうにかして。

いや、駄目だ。たとえ幸運にもそれが可能になったとして、はじめは悠々と広い海を渡っていけるかもしれないが、きっとまたどこかで別の船と衝突するに違いない。だいたい皆がそれぞれの考えによって個別に船を持ち始めたら、海は無数の船でぎゅうぎゅう詰めになって航行不能になってしまうではないか。もう船を持つ意味がない。

…海が狭すぎるんだろうか? では狭い海の上でぶつからずに暮らそうと思ったら、いったいどうしたらいいの? あ、はじめに戻った気がする。はぁ。



世の中の人にはそれぞれに違った考え方がある。部分的には思いを共有できるかもしれないけれど、違っているところをわざわざ同じくするというのは難しそうであります。私としては、人と人の考え方が違っているのは何も問題ないと思います。衝突は避けたいけれど、違っていること自体はしょうがないと思う。そこを無理矢理変えようとするのは、不可能だと思う。とりあえず、今のところは。
ちなみに、この本の解説に、第一巻は冷遇された作家をおもに集めてみたと書いてありました。ヴェショールイ氏の略歴をみると、この人は短命で粛正の犠牲となったらしい。おそろしい時代だったんだ……。大杉栄にしろ、このヴェショールイにしろ、ある考えを持っていたというだけのことで冷遇されたり抹殺されたりする必要はなかったのに、と私は思うのだがなぁ。
しかしまあ、私とあなたでは考えが違う、そのことを許せずにごく身近な人との衝突さえ避けられない私がこのようなことを言っても、何の説得力もありませんけれどもね……。どうやったら私たちは、ここで、誰をも虐げず誰にも虐げられずにうまくやっていけるのだろう。



ところで、ロシア(ソビエト)文学を読んでいると時々「鰐(わに)」という単語に行き当たりますが、これはあの暖かい地域に棲んでいる爬虫類のワニを指すんでしょうか、それとも邦訳すると他に当たる言葉がなくてそのように訳されているんでしょうか。ロシアの地にはワニってあまり関係がなさそうに思うのですが、そこがそもそも私の誤解なのでしょうか。以前から気になっているのに、前にも同じことを書いているのに、そのまま調べたりしていないものですからいまだに気になっています。どうなんだろう?





これから読むつもりの本(その2

2010年09月30日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

ほんとうはもっと沢山あるなかから3冊。




昨日に引き続き、これから読むつもりの本を。今日は「ロシア編」。

この1年で、ロシア小説がものすごい勢いで積まれているのですが、なかなか読み進められません。いやー、参ったな。ほんと参った。でも欲しい本はまだまだあるんだよなぁ。どうしたものか。

上の3冊のうち、エレンブルグの『現代の記録』とアレクサンドル・グリーンの『波の上を駆ける女』はともに、もう半分以上読んでしまっているのになかなか最後まで辿り着けません。こうなると、もう一度最初から読むということになりますね。はい。
『人は生きることを望んでいる』は今年は読まないかもしれません。どうかなー。というか、今年もあと3ヶ月しかないや……(/o\;)



(最低でも毎日1000字くらいは書きたいと思いつつ、今日も400字;)






ザミャーチン「島の人々」

2009年12月22日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

ザミャーチン 水野忠夫訳
(『現代ソヴェト文学18人集1』新潮社 所収)




《あらすじ》
ジェスモンドが生んだ誇り、『強制救済の遺訓』の著者であるジュリー司祭は秩序を重んじ、毎日の生活が規則正しく行われることを妻であるジュリー夫人にも説いていた。しかしある日、ジュリー司祭の家の前で交通事故があり、車に轢かれた大男が司祭の家に運び込まれ、司祭と夫人の規則正しい生活が狂い始める。狂い出したのは夫妻の生活だけではなく、看病されている男ケンブル自身にもその影響は及ぶ。故ケンブル卿の子息で身体も頭もどっしりとしたケンブルは秩序と規則から外れたことを考えることさえ出来なかったはずが、事故をきっかけに知り合った享楽的で騒がしい弁護士オー・ケリー、その事務所で出会った髪を男の子のように短く刈上げた奔放な美女ジジと付き合ううちに、彼はハンドルが壊れた自動車のように狂乱し疾走し始める。


《この一文》
“教養のある、りっぱな人々と名づけられる名誉を得るためには、家も、樹々も、街路も、空も、その他この世にあるありとあらゆるものが、そのような条件を満足させねばならぬことは当然である。それゆえ、涼しい灰色の日々が過ぎ去り、突如として夏が訪れ、太陽がまばゆいばかりに輝きはじめたとき、ケンブル卿夫人は衝撃を受けたような感じに襲われたのである。 ”





いつか読もうと思ってはいたのですが、そのいつかが今朝唐突に訪れました。ザミャーチンはこれが3作目。『われら』、「洞窟」、そしてこの「島の人々」。

この人の作品はいやに洒落ていて、どうしてだかとても未来っぽい。『われら』はSF小説だったから未来的なのは分かるとしても、この「島の人々」は現代イギリスを舞台にしているようなのに、この未来っぽさはどこからくるのだろう。焦燥を煽られるような疾走感があります。そして、この人はいつもどうしてこんなに、何に対してこんなふうに怒り、絶望しているのだろう。

そんなに長い物語ではないので簡単に読めると思っていましたが、第3章あたりに入ると、これはどうやら私ごときの手に負える物語ではないらしいと感じました。はっとさせられるような文句が次から次へと繰り出されるので、私はいちいち立ち止まらずにはいられません。そうやってザクザクと胸を刺されながら、ゆっくりでも途中で止めることはできず、最後まで一息に読みました。暗い。重い。悲しい。だがやはり面白い。


私は、この物語はきっと、秩序を頑に守り通し、全ての人々にもそれを押し付ける者たちと、その硬直した秩序の枠から飛び出して自由と快楽とを求める者たちとの戦いの物語になると期待していました。けれども、どうもそうではなかったらしい。そう単純な、気楽な話ではなかった。巨大な秩序の前に、人々はその無力さをどうしようもなくあらわしてしまう。最後にはうなだれてしまう。一時はそこから逃れ出るために自分でもあると知らなかった力を振り絞ってみるけれども、結局は自滅してしまう。ああ、『われら』もそんな物語だったな。どうしてそのことを忘れていたのだろうか。なんて迂闊なんだ、私は。

ケンブルはどうして自滅してしまうのか。彼は「道路を渡ろうとする歩行者の前では停車するべきだった自動車」によってはね飛ばされ、秩序の圏外に放り出されます。そして奔放で魅了的な女 ジジを愛し、そのためにそれまで無自覚にかつ強固に属していた秩序立った世界から自らを解放しようとします。それにも関わらず、ジジとの新しい生活を始めようとするケンブルの頭には、依然として「~は~でなくてはならない」という考えがしっかりと根付いていて、それがジジを退屈させ、そのために引き起こされる彼女の何気ない裏切りに憤り、自ら破滅への道を突き進んでしまうのでした。これはいったいどういうことだろう。いや、分かる。少し分かってしまうところに恐ろしさがあるんだ。

ケンブルは自由と快楽の象徴であるジジを愛し求めながらも、彼女という存在をそのまま理解し受け入れることはし切れずに、捨て去ろうとした古い型を捨て切れずに自滅した。一方、ジジという女の本質を、彼女の気まぐれを、その美を理解し愛したもう一人の男オー・ケリーもまたやはり破滅する。そしてジジはいつも誰と居ても冷たい陶器で出来た犬だけを愛しており、最後にはいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

どうだったら良かったのだろう。どうだったら良かったんだろう。秩序と規則の正しく美しい人々、特徴もなく皆同じ顔、同じ服、同じ家に住む彼らの間に、しかしなぜジジやオー・ケリー、ケンブルのような異物が現れてきてしまうのか。勝利するのは誰だ。もちろん秩序と規則の面々だ。勝利も正義も彼らのものだ。そうだ。そうだ! その通りだ! それなのに、なぜ……。それがそんなに正しいというなら、それがそんなにも輝かしいというのなら、私はなぜこんなにも悲しく、嫌な気持ちのために歯を食いしばり、手を冷たくしてわなわなと震えなくてはならないのだろう。なぜ許容できないのか、どこが、どこで、誰が間違っているのか、いや、誰か間違っているのか。それが、そんなことさえもが分からなくて、私は呆然としてしまう。


なぜ、どうして、いったいどうしたら。まだ書き足らないことがたくさんあるようなのに、まとまらぬ考えがただ私の頭を渦巻いています。やっぱりザミャーチンは凄いと思う。走り抜けるような描写、切れるほどに澄んだ表現、深い意味と象徴を人物や物事へ封入し、それらを目に見えぬ細い糸で複雑に美しく留め合わせているような感じがします。読めばいつも悲しい。とても遣りきれない。けれども、燃え滾るような何かがあって、私を強く引っぱたくような何かがあって、私はきっとまたこれを読み返すだろうと思うのでした。『われら』を何度か読まされたのと同じように。

しかし、このタイミングでこの物語を読ませるとは、ザミャーチンさんにはあらためて深く感謝したい気持ちです。私はちょうどこういうことについておぼろげに考えていたところだったのです。面白い。面白いなあ。

燃えるような喜びが、私へ戻ってくる。







『スペードの女王・ベールキン物語』

2009年11月15日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

プーシキン作 神西清訳(岩波文庫)



《内容》
工兵士官ゲルマンは、ペテルブルグの賭場で自分のひき当てたカルタの女王が、にたりと薄笑いしたと幻覚して錯乱する――。幻想と現実との微妙な交錯をえがいた『スペードの女王』について、ドストイェーフスキイは「幻想的芸術の絶頂」だといって絶賛した。あわせて「その一発」「吹雪」など短篇5篇からなる『ベールキン物語』を収める。

《収録作品》
*スペードの女王
*ベールキン物語…その一発/吹雪/葬儀屋/駅長/贋百姓娘

《この一文》
“ゲルマンは気が狂った。今はオブホーフ精神病院の十七号室にいる。何を尋ねても返事はしないで、ただ異常な早口でつぶやくだけである――「『三』『七』『一』――『三』『七』『女王』……」
  ――「スペードの女王」より ”



なんとも鮮やかな、目の離せぬ展開にどきどきどきどきとしてしまいます。いずれの物語もとてもドラマチックなところが私は好きです。非常に盛り上がる。特に、結末の鮮やかさには目を奪われるのでした。

「スペードの女王」は今さら言うまでもない傑作小説です。あとがきにはホフマンの影響が云々と書いてあったようなのをちらっと読みましたが、なるほど、幻想的かつ不気味、ぐいぐいと結末まで一息に読者を引っ張ってゆく不思議な魅力に満ちて展開するところなどには共通点があるのかもしれません。悲惨な結末というところでも、「砂男」を思い出さなくもないですね。
それにしても、この「スペードの女王」の結びの部分は、何度読んでも痺れます。うーん、凄い! わなわなするほど迫力があります。このあっさり感がたまらなく良いです。素晴らしい、最高。


私はプーシキンの『大尉の娘』を読んだときも、そのあまりの面白さにひっくり返りそうになったのですが、この人の面白さはいったいどこからやってくるのだか、今のところあまり見当がつきません。なぜこんなにも物語を面白く描けるのでしょうか。どうしてこんなにも、まるでその光景が目に見えるように鮮やかに描くことが可能なのでしょうか。わくわくするような魅力があります。

この本に収められているのは、不思議な因縁によって結びつけられた人々のたどる不思議な運命の物語ばかり。それは悲劇的であったり、喜劇的であったり、ロマンチックであったりもしますが、いずれも色鮮やかで意外性に満ち、読者の胸を打ち、激しく揺さぶるような印象的な描写が連なっています。たとえばこんな文句も実に気が利いていると思えます。
「葬儀屋」での、靴屋に対して葬儀屋が言うせりふ。

 “「ですがね、生きてる人間なら、よしんば靴を買うお銭がなくたって、
 別にあんたに迷惑はかけますまい。はだしで結構歩きますからね。とこ
 ろが乞食の亡者と来た日にゃ、ただでも棺桶を持って行きますよ。」 ”

お、面白いなぁ! それでもって、ただで棺桶を持って行った乞食の亡者が、あとで登場するのですが、そのときに自らの貧しさを恥じて小さくなっていたりするところなんかも猛烈に面白いのです。まあ、とにかく面白い。目に見えるように鮮やかです。

描写が鮮やかであることと、物語の先が読めない意外な展開、というのがプーシキンの魅力でしょうか。私は今のところはそう思います。それに、善良で心根の優しい人々には、最後には幸福が用意されているようなところも好きかもしれません。

ただ、「駅長」というお話だけは、すんなりと納得できるようなお話ではなかったですが。いたずら者の男に連れられて自分の元を去り幸福を得た娘と、捨てられたと思い込んだまま哀れに死んだ父親の物語です。私はふとチェーホフの短篇「農奴上がり」を思い出します。「農奴上がり」のほうは、突然居なくなった行きつけの飲み屋の給仕娘が、ある日お金持ちの男と腕を組んで幸福そうに自分のそばを通り過ぎて行ったのを、「幸せにな」と涙を浮かべて見送るおじさんの物語でした。いえ、これを思い出したからと言ってどうと言う訳でもないのですが、私は「駅長」において描かれていたのは「農奴上がり」とはまったく逆のことだったのかもしれないな、とおぼろげに思いついただけの話です。どちらの物語も実のところ私にははっきりと理解できなかったのですが、なんだか無闇に悲しい気持ちにさせられたという点では共通点があります。この手のお話はなぜこんなに悲しいのかしら。


とにかく、面白い1冊です。プーシキン、凄い! プーシキン、凄い! と、連発したくなるのでありました。




「コルネイ・ワシーリエフ」

2009年08月18日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

トルストイ 中村白葉訳
(『トルストイ全集10後期作品集下』河出書房新社)



《この一文》
“ 許すことも、許しを請うことも、もはやかなわなかった。コルネイの厳しい、美しい、年老いた顔によっては、彼が許しているのか、まだ怒っているのか、それを知ることも不可能であった。”



































この人の言葉が、その力ある大きな手で、私の襟首をぐいっと掴み上げ、まったくの静けさの中へ放り込みました。私の言葉では足りません。ただ、こんな静寂は知らなかった。溢れてくる。

溢れてくる。





「にせ利札」

2009年08月17日 | 読書日記ーロシア/ソヴィエト

トルストイ 中村白葉訳
(『トルストイ全集10後期作品集下』河出書房新社)




《あらすじ》
ミーチャは友達からの借金を返すために、いつもよりも多く小遣いを要求するも、彼の父はそれを許さなかった。そこでミーチャは友達のマーヒンに相談するのだが、不良少年のマーヒンは、ミーチャの持っている利札を贋造し、近所の写真屋でそれを使ってしまうことをすすめる。このにせ利札がきっかけとなり、人々は次々と破滅への道を辿ってしまうのだった。


《この一文》
“「あの男となら危険なことはありません。あれは聖人のような男です。だれにでもきいてごらんなさい」
 「ですが、それがどうして囚人なんかになったのです?」
 鉱長は微笑した。
 「人を六人殺したのですが、聖人ですよ。ぼくが保証します」 ”



このあいだ、『ラルジャン』という映画を観ました。それが、トルストイの「にせ利札」を原作としているというので、さっそくそちらを読んでみようという気になったのです。映画のほうは、何故? 何故! の連続だったのですが、原作を読んだ後でふり返ってみると、なるほどそうだったのかと納得出来るところも出てきました。まあ、トルストイくらい読んでおけよ、ということだったのですね。ふむ、ふむ。そういうことか。
ちなみに、映画『ラルジャン』では、この「にせ利札」の第一部を映像化しているようです。今なら、監督があの映画をあそこで終わらせた気持ちが、少しは分かる気もします。なんとなくですが…。迫力が、真に迫ったものがありますからね。


さて、「にせ利札」です。
この物語は、第一部と第二部に分かれていて、第一部では小さなごまかしから始まった悪意が終には多くの人々を破滅に追いやるさまを、第二部では転落しきり悪の限りを尽くした人物が改心することによって今度は善意の波が人々の間に広がっていくさまを描いています。かなり面白かったです。衝撃波がじわじわと押し寄せてきます。

震えるほどに恐ろしく展開する第一部に比べると、もしかしたら、第二部はいささか都合が良過ぎる展開と考えることもできるかもしれません。正直な話、私も少しそう思いました。しかし、それだけではないはず。それだけではないはず、と考えたくなる何かが、第二部にはあります。

まず第一部では、父に反発する少年の出来心、いたずら程度の気持ちで犯した利札贋造というごまかしが、次第にその悪意を大きく拡大しながら伝播し、最終的には人々が殺し殺されるような事態にまで発展していくさまを、細かく区切られた章で、手早く鮮やかに描いています。
ああ世の中とは実際はこんなものだな、誰もが自分のことしか考えず、十分に持ちながらもちっぽけな損失を容認できない金持ちが、それを取り返すために弱いものを騙し、虐げ放置し、弱者はそれに対して暴力以外の手段を見つけられず、持てる者への憎悪を募らせながら次第に暗闇へと自らを追いやってゆく。この第一部の持つ恐るべき説得力と現実感の前には、改心篇ともいうべき第二部の展開は、だいぶ温い。御都合主義。ファンタジー。そんなうまくいくわけがない。と言いたくなるところがあるのです。

しかし、もちろん、第二部はただ温いだけではないのでしょう。なんとなくそういう気持ちになったという訳の分からぬ理由で六人を惨殺したステパン。彼は最後に殺した老女が言った言葉が頭から離れず、苦しみ、ついには悔悟し改心します。別人となったステパンの魂の深くから発せられる言葉に、まず彼の周囲の囚人たちが変わっていき、さらに刑吏へ、予審判事へ、被害者の遺族へ、皇帝へと、自己の身勝手さを悔い、他人のことを考えようとする善の意志は静かにひそやかに広がっていきます。

他人のために何が出来るか。他人のことを思うとは一体どういうことなのか。
そのことについて、書かれた分量よりももっと多くのことが、第二部では提示されていると思いました。
第一部で革命思想を持った若く美しい女性が登場しますが、彼女は多くの人の幸福と平等を願ってはいるものの、結局は個人的な事情のために、しかも暴力という形をとって事態を解決しようとし、果たせず、破滅します。そのやり方では駄目なのです。
彼女と対比されるのは、第二部では予審判事となった元不良少年マーヒンの婚約者である金持ちのお嬢さんでしょうか。彼女はまず愛するマーヒンに安らぎを与えたいと考えるのですが、そのうちに財産の全てを放棄して人々のために尽くしたいと思うようになり、実際にそのように行動しようとします。彼女は具体的な行動よりもむしろ、ただその熱意だけでもって十分に、知らず知らずのうちに彼女に関わる人々の心を、それも決定的に変えてしまい、彼女によって変えられた社会的影響力のある人々がまたそれを周囲へ広めていくのです。

また、作品中でもっとも変貌を遂げるのが、徒刑囚ステパンです。彼は六人を虐殺した過去を持ちながら、やがては聖人と慕われるような善意の人として生まれ変わります。極端から極端へと歩いた人でした。この人については、本当はもっと深く考えるべきところであるかもしれませんが、うまくまとまりません。ただ、私は先日読んだフロベールの『ジュリアン聖人伝』を思い出しました。罪を購うことが出来るのかどうかは分からないですけれども、悪意がどこから発生するのかをはっきりと捉えられないように、善意もまた湧き出してきたら、それがどこから湧き出したものであろうとも、尊さには変わりがないのかなと、救いが自らの力によってもたらされるものならいい、それによって周囲の人々に良い影響を与えるものであるならいいな、と考えた次第です。


ともかく、慈悲、ということがこの物語のテーマなのでしょう。慈悲が、思いやる心が足りないばかりに互いに滅ぼし合う人々を救うには、やはり慈悲で世界を満たしていく小さな努力を積み重ねるしかないのでは。そんな物語だったのではないかと私は読みました。
また、富という力を得た者は、知識という力を得た者は、その力の強さに酔ってさらに力を増大しようというのではなく、もっと全体のことや弱い者のことを考えるべきであり、それがいずれは自らのささやかな、しかし何も恥じ入ることのない純粋な喜びをもたらしてくれるだろうこと。また力のない弱い者は、ただその境遇を嘆いたり恨んだりするのではなく、自分たちの力で立つことを、自分たちの力で不足を補うことを、暴力でもって奪ってくるのではなく自分たちで獲得して補う態度を覚えるべきだろうことを、トルストイは描きたかったのではなかろうかという気もします。

善意の波が世の中を満たしていく。それは馬鹿げた夢物語で、到底実現するはずもない甘い理想主義かもしれないですけれども、それでも書かずにはいられなかったところに、ここでどうにか人間への希望を見いだそうとしないではいられなかったところに、そして読者をしてそれぞれに何かを考えねばならない気持ちにさせるところに、トルストイという人の強さがあったのではないかと、私は思うのですが、いかがでしょう。まあ、なんにせよ、私はまだこの人の作品をもっと読まなくてはならない段階なので、これから印象は変わるかもしれませんが。


あ、最後に、私がものすごく驚いたことには、この物語はミーチャ少年の父への当てつけとしてのささやかな利札偽造事件から始まるのですが、結末では今度は波は善意を帯びてミーチャ青年の元へ静かに優しく戻り、彼と父との間に横たわっていた軋轢をさっぱりと取り除く形で終わっているのです。そのささやかさに私は、たまげた。また、始まりと終わりがこれほどまでにささやかであるが故に、物語は一層の恐ろしさをもって私の前に立ち上がります。すげーよ、トルストイ! このお話の最大の見所はここかもしれないとさえ思える、人と人が複雑に関わり合った社会というものを、巧妙で精巧な縮図として描くことに成功しているトルストイという巨大な才能に、今更ながら感服しきりの私なのでありました。