高校生だった頃、学校帰りのJRを下りるのがちょうど夕方だったりすると、そしてそれが田植え前の4月の末だったりすると、駅から家までの道のりはずっと広々とした田んぼの真ん中の真っ直ぐな道で、赤く焼けた空が、田植え前で水を張られて一枚の巨大な鏡のようである田んぼにそのまま映って、私は空と水に映った空の間を歩いて帰ることになったものです。あの季節は美しかった。あの頃、世界は美しかった。私は水に映る朝焼けと夕焼けが好きなのです。
少し前に、私の故郷のその思い出の田んぼ道に、新しい国道が通りました。新しい道のおかげで隣町への移動は素晴らしく便利になりましたが、広々としていた田んぼ道は盛り上がった立派な道路に分断されてしまい、家の窓からは夜の闇を輝きながら走りぬける列車も見えなくなったし、おそらく4月の末の田植え前シーズンにも、かつてほど大きな鏡は出来なくなったと思います。それが少し残念。
けれども、たぶん探せばきっとこの新しい風景の中にもここでしか見つけることの出来ない美しさが見つけられるに違いありません。
私はついつい遠い昔に見つけた美しいもののことばかり思ってしまいますし、そういうものをいつまでも大事にしていたいと思うし、なにもかもが変わってしまうことや失われてしまうことが悲しくてしょうがないとも思うけれども、変わり続け新しくなっていくものの中からも美しいものを見出したい。ついでに言えば、未来の中にも美しいものを探し出したい。今とこの先はきっと明るく、世界は常に美しいもので満ちていると信じたい。その証拠を集めたい。世界をなぜ美しくあるべきだと私が考えるのかは、はっきり説明はできないけれど、そうであってほしいし、そうであるはずだ。
田舎に帰ってくると、なぜかこんなことを考えてしまいます。ここの風景が、私が住んでいた20年前とはいつも違っているからかもしれません。その違いはさびしいものであることもあるけれど(たとえば歩いている人影が格段に少なくなったこととか、誰も住まなくなった家があちこちに見られることとか、実際に人口が減っていそうなこととか)、でもよくなったことだっていくつもあるはず。
とりあえず、うちの実家の裏庭にはふたたび蛍が飛んでいるそうです。私が子供のころには沢山いたけれど、上京するために家を出た頃にはあまり見かけなくなっていた蛍が。川はまた綺麗になっているのです。ここは水の清らかな土地なのです。肌荒れが一発で治るくらいに私にはここの水が合うのです。水は今でも豊かできれい。それから夜空も美しいんだった。今でも星がよく見える。
こういうことは外に出てみなければ分からなかったことですね。そうか。とにかくキョロキョロ、ぶらぶらすることだ。今でも美しいものも、新しくて美しいものも、いつだってそこらじゅうに惜しみなく存在しているんだろうな。私自身も変わり続けているんだった。この本当は常に新しくなっている目で、キョロキョロうろうろしてみよう。本当にまだ新しさそのものである息子の目に映ったものも、懐かしく美しいものとしていつかに残っていくといいんだけど。まあ、仮に残らなくても、大きくなれば彼はきっと自分で美しいものを探し出すだろう。そう、世界はきっといつだってどこだって美しいものに溢れている。ただ私たちにそれが見つけられるかどうかってだけのことさ。
推敲なしでまとまりなく、書きっぱなしで終わり! 明日も暑いかな!