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『厳重に監視された列車』

2025年03月06日 | 読書日記ー東欧



ボフミル・フラバル 飯島周訳(松籟社)

《あらすじ》
 20世紀チェコの作家ボフミル・フラバルによる中編小説の日本語版。
 舞台は1945年、ナチスの保護領下におかれたチェコ。若き鉄道員ミロシュは、ある失敗を苦にして自殺を図るが未遂に終わり、命をとりとめた後もなお、そのことに悩み続けている……

《この一文》
“この二人はそんなことができっこない、二人ともこんなにかっこいいんだから。ぼくはいつも美しい人たちが怖くて、そんな人たちとまともに話すことができなかった、冷や汗が出て言葉がつっかえた、美しい顔をそれほどあがめており、目がくらむほどだったので、美しい人の顔をのぞき込むことができなかった。”


 青年期を、いや青年期に限らず人生のある程度の時期を、自分にはどうしようもできないような社会の混乱の中で生きるというのはどういうものだろうか。社会がどんなに混乱していても、そこにはいつも人間の生活があるわけで。それぞれの人間の思いがあるわけで。

 戦争の時代に占領された国で生きるというのはどういうものだろう。そこにある青春は。愛とか悲しみとかは。
 というよりも、青春とか愛とか悲しみとかいった人間の生活の時々に、戦争が起こっていたりそうでなかったりするということか。生きる時代を自分では選べない人類の歴史は悲しいな。

 語り口が鮮やかであることで、さほど長くもないこの作品でしたが、最後まで読みとおすのはなかなか苦しかったです。




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『もうひとつの街』

2025年02月07日 | 読書日記ー東欧


ミハル・アイヴァス 阿部賢一訳(河出書房新社)

《あらすじ》
雪降りしきるプラハの古書店で、菫色の装丁がほどこされた本を手に取った〈私〉。この世のものではない文字で綴られたその古書に誘われ、〈もうひとつの街〉に足を踏み入れる。
硝子の像の地下儀式、魚の祭典、ジャングルと化した図書館、そして突如現れる、悪魔のような動物たち――。
幻想的で奇異な光景を目のあたりにし、私は、だんだんとその街に魅了されていく……。

《この一文》
“――けれども、生活を一変させ、新しいものにしようと決心するとき、私たちが否定してきた場所から吹いてくる息吹のなかで、なにかが熟成しているのをわずかながらも感じ取るのだ。”


 「あ、ここは前にも読んだことがあるような…」とところどころで感じながらも、物語の95%は初見であるという感触でしたので、たぶん前にも半分くらい読んだところで放置してあったと思われる『もうひとつの街』をようやく読破しました。しかしきっと私はまたこの物語の90%は忘れてしまうのでしょう…。

 まず冒頭で主人公が「菫色の装丁の謎めいた本」と出逢うというところにぐっときます。本の中には見たこともない謎の文字が記され、謎を追って〈私〉は〈もうひとつの街〉へと迷い込んでいきます。

 冷たく美しい幻想的な描写が連なっていました。想像力の限界にチャレンジです。読んでも読んでも摑みどころがなくさらさらと砂のようにこぼれおちていきました。読んでいる間からすでに忘れていってしまいそう(そしてこれを書いている段階でもう思い出せない)。でも、夜の、冷たい、置き去りになった陶器の表面を触るようにつべつべした感触だけが残っています。

 プラハの街の美しさ。あそこになら〈もうひとつの街〉はたしかにありそう。雪の降るプラハの街をさまよえば、不意にもうひとつの街へ入り込んでしまうこともあるかもしれない。

 面白かったです。


 あとがきによると、この物語の「8章と9章」が『21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集 時間はだれも待ってくれない』(東京創元社)に収録されているそうなので、私が「読んだことある」と感じたのは、ここで読んだことがあったのかも。その『21世紀東欧~』も読んだことがあるかどうか記憶が定かではないのですが。あれもこれも忘れてしまうな、私は。何度も楽しめてお得!!




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『あまりにも騒がしい孤独』

2017年06月12日 | 読書日記ー東欧

ボフミル・フラバル 石川達夫訳(松籟社)



《あらすじ》
三十五年間、「僕」は故紙に埋もれて働いている。地下室に積み上げられた紙の山を来る日も来る日もプレスしながら、出来上がった紙塊(しかい)を美しく飾り立てるのを楽しみにしている。これは、そんな僕のラブ・ストーリーだ。


《この一文》
“横になっていると、僕には分かった――マンチンカは望んだわけでもないのに、自分が思いもかけなかった人間になり、僕が人生で出会ったすべての人たちの中で、いちばん遠くにまで辿り着いたんだ。僕の方は、絶えず読書をして、本の中に何かの徴(しるし)を求めてきたのに、本たちは僕に対して陰謀を企て、僕は天のお告げをまったく得られなかった。それに対してマンチンカは、本が大嫌いだったのに、今あるような女性に――もっぱら本に書かれているような女性に――なり、そればかりか、石の翼で飛び立った。”



子供が生まれてからというもの、読書をする機会と気力が激減しましたが、そのなかで私がどうにか最後まで到達できる作家の一人がチェコのボフミル・フラバルです。この『あまりにも騒がしい孤独』が3作品目で、最初に読んだのはたしかずいぶん前になりますが『ポケットの中の東欧文学』(成文社)所収の「黄金のプラハをお見せしましょうか?」、次に読んだのは2年くらい前で『私は英国王に給仕した』(河出書房新社)でした。

フラバル作品の印象をあえて一言に言い切ってみると、「とても映像的な文章である」という感じでしょうか。まるで映画を読んでいるよう。
一人称で語られる文章は非常に読みやすく、またこの本のあとがきにも書かれてありましたが「物語の代わりに一連の面白い絵のような場面と状況が生じる」という独特の語りによって物語が成り立っています。グロテスクで冷たく悲しい描写のところどころに、鮮やかな美しい色彩が散りばめられているのも印象的です。なんていうかまあ、要するに、とっても私の好きそうな作家であると言うことですね。「黄金のプラハ~」(たしか結石を患ったおじさんが登場したかと記憶するけれど、全然違うかも。私の記憶は当てにならない;)ではあまりピンと来なかったのですが、次に読んだ『私は英国王に給仕した』(感想は書けず仕舞いですが、かなり面白かった)でハッキリと好きになり、この『あまりにも騒がしい孤独』では残りの作品も読めるならきっと読むことにしようと決心するに至りました。小説のスタイルもテーマも、そして多分翻訳も、非常に私の好きな感じなので読みやすいことこの上ありません。読みやすくもありますが、物語の結末にもたらされるあのドッとくる感情、あれをなんと言ったらいいのか分かりませんが、あの感じもたまりません。

作品の内容について感じたことを、うまく説明することは今の私にはできそうにありませんが、ただ、この人の世界と言うのは、改行なしの溢れてこぼれるような文章によって構成されているにも関わらずいつも奇妙なほどに静か、ユーモラスでありながら悲しく、みじめで孤独で汚れにまみれていながらもそこには確かに輝くように美しいものが見つかるのです。取るに足らない人間の一生を美しくするものがあるとするなら、それは何か。時として冷たい泥沼のような人生を歩まねばならぬとして、その一歩を歩ませる力となるのは何なのか。そういうことを問われているような気がします。


『あまりにも騒がしい孤独』というのは、廃棄される書物を解体しプレスして紙の塊を作り続ける主人公が日常的にたくさんの、多すぎる言葉に囲まれていながら、ほとんど誰からも顧みられることなく静かすぎる地下室の職場でひとりきりで夢を見ながら働き続けているようすをあらわす、素晴らしく印象的なタイトルでした。

『私は英国王に給仕した』も『あまりにも騒がしい孤独』もその他の作品も映画化されているらしいので観てみたいなあ。きっと私が読んだ通りの映像になっているに違いない。



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『21世紀東欧SF・ファンタスチカ傑作集 時間はだれも待ってくれない』

2014年08月06日 | 読書日記ー東欧

高野史緒 編(東京創元社)



《内容》
二十一世紀に入ってからの東欧SF・ファンタスチカの精華。十か国十二作品を、新鋭を含む各国語の専門家が精選して訳出した日本オリジナル編集による傑作集。

《収録作品》
*オーストリア
 「ハーベムス・パーパム(新教皇万歳)」ヘルムート・W・モンマース/識名章喜訳

*ルーマニア
 「私と犬」オナ・フランツ/住谷春也訳
 「女性成功者」ロクサーナ・ブルンチェアヌ/住谷春也訳

*ベラルーシ
 「ブリャハ」アンドレイ・フェダレンカ/越野剛訳

*チェコ
 「もうひとつの街」ミハル・アイヴァス/阿部賢一訳

*スロヴァキア
 「カウントダウン」シチェファン・フスリツァ/木村英明訳
 「三つの色」シチェファン・フスリツァ/木村英明訳

*ポーランド
 「時間は誰も待ってくれない」ミハウ・ストゥドニャレク/小椋彩訳

*旧東ドイツ
 「労働者階級の手にあるインターネット」アンゲラ&カールハインツ・シュタインミュラー/西塔玲司訳

*ハンガリー
 「盛雲(シュンユン)、庭園に隠れる者」ダルヴァシ・ラースロー/鵜戸聡訳

*ラトヴィア
 「アスコルディーネの愛-ダウガワ河幻想-」ヤーニス・エインフェルズ/黒沢歩訳

*セルビア
 「列車」ゾラン・ジブコヴィッチ/山崎信一訳



《この一文》
“「僕たちはみな、写真や物語や思い出のなかで単なる過去になることを宣告されているのかもしれませんね」”
   (「時間は誰も待ってくれない」ミハウ・ストゥドニャレク)より




東欧の物語というのはなかなか読めないので、これも貴重な一冊と言えそうです。しかも、SFとファンタジー。最高。

珍しい国の、ここで初めて知るような作家の作品ばかりでしたが、特に印象に残ったのはポーランドのミハウ・ストゥドニャレク「時間は誰も待ってくれない」(ワルシャワに霧のように浮かぶ過去の街並を追うお話)、スロヴァキアのシチェファン・フスリツァの2作品「カウントダウン」(戦闘的平和集団がヨーロッパ内の原発を占拠し、日曜日に終末がやってくる)「三つの色」(スロヴァキア、ハンガリー間に起こる民族紛争の物語)、チェコのミハル・アイヴァス「もうひとつの街」(プラハに存在する「もうひとつの街」をめぐる物語)、セルビアのゾラン・ジブコヴィッチ「列車」(列車のなかで〈神〉と出会うお話)ですね。あ、ハンガリーの「盛雲(シュンユン)、庭園に隠れる者」も面白かったな。というか、思い返してみると、全部がそれぞれに本当に面白かったです。

編者の高野さんによるあとがきを読むと、この本ができるまでには大変なご苦労があったそうです。多くの人の情熱によって、こういう貴重な本が生まれてくるのですから、読むだけの私としてはただただ感謝するばかりですね。東欧文学のアンソロジーはこれまでにもいくつか読んできましたが(思い出せるだけで『東欧怪談集』『東欧SF傑作集 上下』『ポケットのなかの東欧文学』など)、乱暴にひとまとめにしてみると、東欧の物語には独特の感じがあるというか、どれも不思議なほど静かでちょっと悲しげというか、要するにいかにも私が好きそうな雰囲気があるので、もっと流行して多くの作品が訳出されるようになってほしいものです。





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『死者の軍隊の将軍』

2010年04月26日 | 読書日記ー東欧

イスマイル・カダレ著 井浦伊知郎訳(松籟社)



《あらすじ》
戦争が終わって20年という年月が過ぎてようやく、かの地で戦死し埋葬された兵士たちの遺骨を掘り出すために、将軍はアルバニアへと派遣される。死んだ兵士を母国に連れ帰るという崇高な任務を果たそうと努力するものの、思ったようには捗らず――。


《この一文》
“ そうだ、こんなわけで、私は自分のただ一つの持ち物をあげてしまった。どうしてあれが私に必要だろう? 私は失われた、失われたのだ。私は生きていて、そして失われたのだ。死んだって、どうして私を見つけ出す必要があるだろう? ”





1963年に発表された小説。前に読んだ『夢宮殿』(1981年)よりも古い作品のようです。いずれにせよ、私はまだ3作品を読んだだけですが、カダレの作品世界は、どうにもこうにも閉塞感が強くて気が沈みます。読み進めるにつれて、息が詰まってくるようです。

死の影に覆われた物語。死の影がどんどん大きくなる。戦時ではなく平時にある将軍は、かつての敵地アルバニアで、死んだ兵士の膨大な数の遺骨を掘り出さねばなりません。遺族の大きな期待を受けて、栄光に満ちた任務を遂行しようとする将軍ですが、同行の司祭とも折り合わず、作業も思ったほど進まず、陰鬱なアルバニアという土地を、死者のリストの紙束を抱えて彷徨います。

図書館で借りてきて、返却日が迫ってから大急ぎで読んだために、どうにか読み終えたものの、分かったような分からないような。うーむ。どういうことを読みとるべきだったのでしょうか。何か読みとるべきものがあったに違いないのですが、それが何なのか分かりません。

死んで20年も敵地に埋まったままだった兵士たち。
彼らを識別する認識表、それぞれの身体的特徴をまとめたリスト、将軍に寄せられる遺族からの声また声。
少しずつ掘り起こされ、はじめは分隊ほどが、しまいには一師団までに膨れ上がる死者の軍隊。
しかしその中で、どこかに埋まっているはずなのに、見つからないZ大佐。


物語の中のアルバニアは、外国人である将軍の目を通して描かれますが、将軍が遺骨を探してばかりいるせいなのか、どの顔を見てももその下の頭蓋骨を思ってしまう。アルバニア人は銃と切り離せない生活を送り、復讐のために生きるような民族で、滅びを約束されているのではないか。小さな国の閉塞感が、出口のない迷路をさまよう息苦しさが、重く描かれています。


かつてアルバニアで戦闘があって、その地で、将軍の国の兵士も、アルバニア人も、その他の国の兵士も(将軍以外にも別の国の軍人が、やはり兵士の遺骨を発掘に来ている)、大勢の人間が死んで土に埋まっている。
なんのためなのか。
なんのために争ったのか。そして互いに殺し合って埋葬されたあとになって、今更掘り起こして故国に帰属させる、その意味はなんなのか。


『夢宮殿』もそうでしたが、一度読んだだけではよく理解できそうにありません。手がかりはあちこちに示されているような気がするのに、それをどう結びつけたらいいのか、私にはまだ分からないのです。
出口が見つからない迷路。これまで読んだ2作品に共通するイメージですが、この暗い幻想によって、カダレはいったい何を描こうとしているのでしょうか。悲しみか、怒りか、諦めか、それとも全然違うなにか別のものか。
ほかの本も読んだら、少しは近づけますかね。






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『緑色の耳』

2010年03月17日 | 読書日記ー東欧

リューベン・ディロフ 松永緑彌訳(恒文社)





《あらすじと内容》
表題作は、ソフィアで開かれた世界SF作家会議に出席したブルガリア人、アメリカ人、日本人、[第三世界]人の四人が、ホテルのバーで偶然同じテーブルに座ることになったのを機に、同じテーマで、一晩ごとに創作を発表することになった。テーマに選ばれたのはイースター島のモアイ像、一番手はアメリカ人ということになったのだが……
他に、宇宙船に乗り込んで来た不思議な美女をめぐる騒動『麗しのエレナ』、何世紀もかけて地球に帰ってきた宇宙飛行士が、かつての恋人に出会う『二重星』、そしてスヴェトスラフ・ストラチェフの『呼びかけの声』を収録。


《この一文》
“ともかく満足の原理が宇宙における生物のメカニズムを動かしている。科学や技術の進歩がどのような真実をもたらしたかはすでに検証済みである。もっともよい真実をいつもわれわれに開き見せてくれるのは科学でなく、芸術なのだ。
  ――「緑色の耳」より  ”





ブルガリアのSF短篇集があるということを教えてもらって興味を持ち、図書館で借りてみた1冊。

この文体は、ディロフさん特有のものなのか、それとも訳者の方の癖なのか、私には判断出来ませんでしたが、どうにもこうにも読みにくい! 今どういう状況になって、誰がしゃべっているのかがどうも分からない。やや高度な読解力を要求されるハードな本でした。って、そんなことはないんでしょうかね? 私だけですか?

おまけに、最初の「麗しのエレナ」「二重星」は、物語の中盤で状況を理解し、ようやく面白くなって来たぞ! と思うや否や、ばっさり終わってしまいます。しかもその結末があまりに唐突な上に暗いったらない!! 私はもうこの段階で挫けてしまいそうでした。

しかし、しかし、ここで諦めずに3話目の「緑色の耳」を読んだ私は、本当に偉かった。この「緑色の耳」はすごく面白かったのです! 前の2作がアレだったせいもあるかもしれませんが、それにしても面白かった。良かった! やれば出来るじゃないか、ディロフさん! 最後のストラチェフ氏の「呼びかけの声」は未読なので、ここでは主に「緑色の耳」についての感想だけ書こうと思います。


「緑色の耳」は、世界SF作家会議のために集まった各国のSF作家の中で、語り手の「わたし(ディロフさん本人と思われる)」と、アメリカ人有名作家、日本人作家、そして[第三世界]のまだ若い作家の4人がテーブルを同じくし、4日間の会期中に即興で作った短編を披露し合うというお話です。これは、猛烈に面白かった!

4人は、物語を創作する際に各自の民族的特徴があらわれるか否かを議論し、それを検討するべく、同じテーマで短編を作ります。物語の中の「ミスター・ディロフ」はその集まりのホストとなり、他の3人の作家の人となりを観察したりしているのですが、その描写が面白かったです。

アメリカ人は、やっぱりSF界では主流、売れっ子の金持ちで、声が大きくて自己顕示欲が強く、怒りっぽく大雑把で開けっぴろげな性格、でも物凄く頭の回転が速くて即興の才能に恵まれている。

日本人は、いつもとても清潔でスマートにスーツを着こなし、物事に対して公平で、英語も信じられないくらい流暢で(ここでは皆英語で会話している)、小柄でほっそり控えめな物腰(だが語りだすと止まらない)、仏陀のように穏やかな東洋的微笑みを浮かべている。

[第三世界]の作家は、まだSF界では新参者であるという気後れもあるが(小国出身ということでブルガリア人のミスター・ディロフは親近感を感じている)、若く率直で、でもどこか暗く屈折したところもある。

という感じで、ミスター・ディロフは各国の作家を見つめているのですが、日本人に対してだけ超絶ポジティブイメージを抱いているようなので(「麗しのエレナ」にも日本人宇宙飛行士アキラが登場する。やっぱり妙に優秀)、「仏陀って! ぎゃはは!」と爆笑しながらも、きっとディロフさん(本人)には具体的な日本人作家に対するよい思い出があるのだろうなと推測しました。世界SF作家大会って面白そうですね。

さて、ミスター・ディロフを含む登場人物の描写が面白いだけでなく、各国の作家が提供する短編もまた面白いものでした。物語の中で語られる物語、それを物語として書くディロフ氏、そして意外な結末。主人公を自分自身とすることで、物語の結末に不思議な余韻を残すことに成功した、なかなか複雑な構成のお話で、私はちょっと感心してしまいました。こういうのはメタフィクションっていうのでしょうか。実に面白いですね。他にもこの人のこういう作品の翻訳があるなら読みたいところです。うーん、これは面白かったなあ。


ブルガリアSFについては、創元SF文庫『東欧SF傑作集(上下)』のブルガリア編にも面白いのが沢山あったので、私の好みには結構合っているのではないかと思います。もうちょっと探ってみたい。






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『夢宮殿』

2010年03月12日 | 読書日記ー東欧

イスマイル・カダレ 村上光彦訳(東京創元社)



《あらすじ》
その迷宮のような構造を持つ建物の中には、選別室、解釈室、筆生室、監禁室、文書保存書等々がドアを閉ざして並んでいた。
〈夢宮殿〉、国中の臣民の見た夢を集め、分類し、解釈し、国家の存亡に関わる深い意味を持つ夢を選び出す機関。名門出の青年マルク=アレムは、おびただしい数の様々な夢の集まるこの機関に、職を得、驚きと畏れに戸惑いながらも、しだいにその歯車に組み込まれ、地位を上りつめていく。国家が個人の無意識の世界にまで管理の手をのばす恐るべき世界!

《この一文》
“わずか数か月間足を運ばなかっただけで、こちら側の世界からこんなにも早く気持ちが離れようとはまったく思いもよらぬことであった。彼は〈夢宮殿〉に以前勤めていた職員のことでいろいろ話を聞いていた。その人たちは、自分の生者としての暮らしからいわば身を引いて、たまたま昔の知り合いのあいだに居合わせたときなどは、月から降り立ったような印象を与えたものだという。この自分も、あと数年も経つと、しまいにはそうした先輩たちと似た存在になりきるのではなかろうか。《で、そのあとは?》と、彼は思った。《おまえはこのきれいな世界を捨てる気らしいが、まあ、こいつをとくと眺めて見るんだな! 通行人どもは、〈夢宮殿〉の狂おしげな職員たちに皮肉な微笑を投げかけている。だが〈タビル〉の幻視家たちの目には彼ら自身の生活がどれほど味気なくみじめに映るのか、連中には思いもおよばないのだ》 ”




〈夢宮殿〉、臣民の夢を集めて、分類、解釈し、管理する役所。栄光と不幸に彩られた名門キョプリュリュ家出身の青年マルク=アレムが、巨大な宮殿のなかを、夢からまた次の夢へと彷徨い歩く。

というこの物語を、夢見に興味がある私が素通りできるはずもなく、第一章は恐ろしいほどに面白くて、その勢いでどんどん読み進められるはずが、どういうわけか第二章から第五章までは私の心が紙の上で分散して、まったく集中力を欠いていました。美しかったり、奇妙だったりする夢の描写がところどころに出てくるというのに。

しかし、最後の第六章、第七章に至って、ふたたび物語は燦然と輝き出したのです。いったん最後まで目を通してその面白さに間違いはなかったと知った私は反省して、もう一度最初から最後まで、今度は一息に読むことになりました。それでやっと分かった。こういうことは久しぶりです。要するに、やっぱり面白かったということです。


イスマイル・カダレの作品を読むのは、たぶんこれが2作目です。以前、東欧文学のアンソロジーで「災厄を運ぶ男」という短篇を読みました。女性の顔を覆うためのスカーフを荷車いっぱいに詰め込んで運ぶ男の物語だったかと。あれはどういう風に終わったのだっけ。ちょっとよく思い出せませんが、あまり明るい結末ではなかったという感触が残っています。無力感にうなだれて、押しつぶされるような読後感。これはこの人の作品の傾向なのですかね。巨大な帝国という組織に押しつぶされてしまう個人。奇妙な論理で動いている巨大組織に翻弄されるしかない人間の運命。そういうことがテーマのようです。暗い。重い。好きです。

この『夢宮殿』では、〈夢宮殿〉と呼ばれる夢を管理する役所に勤める青年が、あれよあれよという間に出世していき、〈夢〉という人間の意識の、掴みどころのないような部分にまで管理の手をのばす国家組織の枠組みのなかにいつの間にか取り込まれていくさまを、その恐怖と狂気、幻想と幻滅の渦巻きを、とても印象的に描いています。かなり面白かったのに、私はどうして集中できなかったのだろう。

私は最初の読書では、まるで前置きのような描写がいつまでも続くような内容に不安になり、まったく物語に集中することが出来なかったのですが、その一因としては、この物語自体が迷宮のように暗く沈鬱で、明るい出口など永久に見つけられないのではないかという雰囲気に満ち満ちていたこともあるのではないかと、言い訳してみます。いやまあ、ネタバレするのもあれですが、結局明るい出口などはないのですがね。けれども、最後になって「そうだったのか!」という到達感のようなものはあります。苦しく辛い到達感ではありますが。
ああしかし、せっかく面白かったのに、あまり集中できなかったことが本当に悔やまれます。もっと突っ込んだ感想を書けそうだったのに! うーむ。また次の機会に持ち越そう。



夢というものをどう考えるか。夢のお告げを信じるか、信じないか。夢をどう解釈するか。そういうことは個人の好き勝手にまかせるべき領域であると私も思いますが、それすら管理しようとする国家規模の巨大組織が存在したら、きっと困りますね。夢を、正しいとか、危険だとか、無価値だとかいうことを他人に判断されるなんて、まっぴらです。ましてや夢を見たことで罪を負わされるだなんて、狂気の世界です。ああ、しかし、世の中というものはいつだってそんな風に狂ってしまわないとも限らない。今だって。どういうわけか、人間はひとりでも狂ってしまうこともありますが、たくさん集まってもかえって狂ってしまうようなところがあるではないですか。狂気ってなんだろう。

ところで、カダレはアルバニア出身の作家ですが、アルバニアとアルメニアの区別が付かないなどと言う愚かな私は、ちょうど良い機会なので少しばかりアルバニアについて調べてみました。あー、アルバニア共和国はそんなところにあるのか。バルカン半島の、ギリシャの上ですね。イタリアと海を挟んで向かい合っています。そして結構最近まで鎖国していたらしい。あの辺ではよくあることのようですが、ここもまた複雑な歴史を持つ国のようです。この人の『死の軍隊の将軍』もそのうち読みたいです。






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『絶対子工場』

2009年01月08日 | 読書日記ー東欧

カレル・チャペック 金森誠也訳(木魂社)



《あらすじ》
「MEAG企業」社長G・H・ボンディ氏は1943年の元日に、新聞を読んでいたところ、ある発明広告に気が付いた。そして広告を出したのが、かつての学友マレク技師であると知り、さっそく会いに行くことに。マレク技師による恐るべき発明品【炭素原子炉】は〈絶対子〉と呼ばれる霊子をまき散らし、世界を混乱の大渦へと巻き込んでゆくことになる。


《この一文》
“「人は誰しも、人類に対しては限りない好意を寄せています。しかし、個々の人間に対しては、けっしてそんなことにはなりません。わたしは個々の人間を殺すでしょうが、人類を解放しようと努めるでしょう。だが、それは正しくないのです。神父さま。人間が人間を信じようとしないかぎり、世界は邪悪のまま留まることでしょう。  ”




ずいぶん前に一度読んだことがあったので、大筋は分かっているつもりでしたが、読み返してみて私はほとんど理解していなかったことと、読み終えた今も依然としてあまり理解できていないということが分かりました。それでも、たしかにこの物語は面白いと言えます。もし私がもっと努力をするならば、この物語は一層その面白さを増して私の前に現れることでしょう。

マレク技師による世紀の発明品【炭素原子炉】は、物質を「完全に」燃焼することによって無限ともいえるエネルギーを引き出すことを可能にします。しかし、その際「絶対子」と呼ばれる不思議な霊子が発生し、それを浴びた人々は突如として神の啓示を受けたがごとく熱狂し、しまいには奇跡を行う者まで現れます。このあまりに巨大な威力に怯えたマレク技師は、自らの力では【炭素原子炉】を保持することができず、旧友の資本家ボンディ氏に売り渡すことにします。ボンディ氏は精力的に【炭素原子炉】を生産し、世界中に売却するのですが、炉が設置された各地できわめて奇妙なことが起こり始め………という物語です。
結局、暴走する【炭素原子炉】に合わせるように、人々は信仰に、社会活動に、その他あらゆることに熱狂し、しかもそれぞれの熱狂が互いにぶつかり合い、未曾有の大戦争へと発展してしまいます。

チャペックの他の作品『R・U・R(ロボット)』や『山椒魚戦争』でも見られましたが、ここでも人類の世界はいったん破壊し尽くされます。ただ、この人の作品の良いところはたぶん、最後には平穏と希望が用意されているところでしょうか。絶望と破滅の行き着く先に、ささやかな、しかし確固たる希望を打ち立てようとする態度に、私は涙がこぼれるのをとめられません。

情けないのは今に始まったことではありませんが、正直に告白すると私は、チャペックという人が、いったいどういう世の中を理想としていたのかをこれまで理解することができませんでした。今でもはっきりと分かったとは言えませんが、少なくとも彼は、それがどういう思想であれ、自分の意志を押し通そうとするあまり、他者の意見をその存在ごと押しつぶすようなものには強く反対していたのであろうことは読み取れました。
互いの違いを認めず、理解しようともせず、自らの考えをただ一つの正義と信じることの危険は、チャペックのみならず多くの人が語ってくれてはいますが、実際にそのようにならないことの難しさは、我が身を省みれば容易に知ることができます。私自身も、くだらないこととは思いつつ、しばしば「カレーを混ぜて食べるか、あるいは混ぜないで食べるか」といった論争に熱くなることがあります。実にくだらないことではありますが、こういうことは他のことでもよく見受けられるでしょう。自分と違う考えをする誰かを軽蔑せずにはいられない。私たちは、ほんのささいな違いでさえも心の底からは容認することができない。そのために規模の大小にかかわらず、無限にひたすらに争い続けるのです。どうしたら、この不幸な、悲劇的な輪っかの外へ出ることができるのでしょうか。

おそらく、熱狂の中にあっても冷静に、相手の熱狂する対象の奥にも同じように存在する何か価値あるものを、罵りあうことなく、少しずつ理解しながら見つけていくことが、いま考えられるひとつのたしかな道筋なのかもしれません。しかし、どうやってその道に入ったらよいのか、どういう心理が人類をそこへ向かわせるのかが分からない。そんなことは、どうやったら可能なのだろう。

以下は、かつて浚渫船の上で神の啓示を受けたグゼンダ氏の言葉。

“『誰しもおのれの素晴らしい神を信じているが、他の人もまた
  何か善きものを信じているとは到底思えないのだ。人間はまず
  人間を信じなくてはならない。それさえ出来れば、他のことは
  万事うまくゆく』”


神のように強力な力を制御するには、人間はまだ弱すぎるのではないか。まずはできるところから、巨大な力に呑込まれて全てを滅ぼしてしまう前に、たしかなものを、この目に見え、自分の手で実際に扱えるものによって生を存続させていくべきではないだろうか。人類の発展や進歩といったものを、その本当の意味と行き先を、もしかしたら改めて真剣に考えてみるべきではないのだろうか。
と、1922年に発表された本書は、今日に至ってもなお読者をあれこれと深く考えさせる実に興味深い一冊でありました。いったい何をどうしたらよいのかがまったく分からない私ではありますが、いつかこれをもっと深く理解し、ここに何か手がかりを見つけることができたらいいと願うばかりです。



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『東欧怪談集』

2008年08月28日 | 読書日記ー東欧
沼野充義 編(河出文庫)



《収録作品》
*ポーランド
・「サラゴサ手稿」第五十三日 トラルバの騎士分団長の物語(ヤン・ポトツキ)
・不思議通り(フランチシェク・ミランドラ)
・シャモタ氏の恋人(ステファン・グラビンスキ)
・笑うでぶ(スワヴォーミル・ムロージェック)
・こぶ(レシェク・コワコフスキ)
・蠅(ヨネカワ・カズミ)

*チェコ
・吸血鬼(ヤン・ネルダ)
・ファウストの館(アロイス・イラーセク)
・足あと(カレル・チャペック)
・不吉なマドンナ(イジー・カラーセク・ゼ・ルヴォヴィツ)
・生まれそこなった命(エダ・クリセオヴァー)

*スロヴァキア
・出会い(フランチシェク・シヴァントネル)
・静寂(ヤーン・レンチョ)
・この世の終わり(ヨゼフ・プシカーシ)

*ハンガリー
・ドーディ(カリンティ・フリジェシュ)
・蛙(チャート・ゲーザ)
・骨と骨髄(タマーシ・アーロン)

*ユダヤ
・ゴーレム伝説(イツホク・レイブシュ・ペレツ)
・バビロンの男(イツホク・バシヴィス(アイザック・シンガー))

*セルビア
・象牙の女(イヴォ・アンドリッチ)
・「ハザール事典」ルカレヴィチ、エフロシニア(ミロラド・パヴィチ)
・見知らぬ人の鏡「死者の百科事典」より(ダニロ・キシュ)

*マケドニア
・吸血鬼(ペトレ・M・アンドレエフスキ)

*ルーマニア
・一万二千頭の牛(ミルチャア・エリアーデ)
・夢(ジブ・I・ミハエスク)

*ロシア
・東スラヴ人の歌(リュドミラ・ペトルシェフスカヤ)


《この一文》
“「ああ! だめなのは知っておった。おまえのようなやつは沢山おった。誰もがだめで、誰もが何かしら義務を果たさねばならなかった……、たった今この瞬間にも……、神様通りや、明白通りや、美麗通りで……。結構……、行け、行ってしまえ……」
「ご住所をお教えください!」彼は頼んだ。
「住所? 知っておるではないか……」 

     ―――「不思議通り」(フランチシェク・ミランドラ)より”




おかげで満ち足りた日々を過ごすことができました。いえ、内容はぞっとするような髪の逆立つような身の竦むようなものばかりなのですが、しかしこれを私は長らくずっと待ち望んでいたのです。なので、読んでいる間はずっと満たされていました。そう、これを読んでいる間は………。

ああ、あの時買っておけばこんなことにはならなかったのに……。どうしてもこの本を手に入れることができないでいる私は、ついに図書館へ行って借りてきたのでした。今はまだいい、図書館で借りられるうちは。しかし、図書館の蔵書から外されてしまったら、私がこの図書館を利用できない地域に移り住んでしまったら、そのときは一体どうしたらいいのだ。そう考えると、私の心は巨大な恐怖に凍り付くのでした。一刻も早く手に入れなくては……。というか、なぜいつまでも絶版なんだ、河出め………。


さて、粒揃いのアンソロジーというものにはなかなかお目にかかれないものですが、河出の『怪談集』シリーズは今のところハズレがいっさいありません。『ロシア』も『ドイツ』も『ラテンアメリカ』も良かったけれど、この『東欧』も素晴らしいものでした(あとのアメリカ、イギリス、フランス怪談については、愚かな私は持っていない上に未読。なんて愚かなんだ!)。

あー、面白い、あー、面白い。どれもこれもが異常な魅力を放っていましたが、私が特に衝撃を受けたのは、上に引用した「不思議通り」(フランチシェク・ミランドラ)。ごく短い物語なのですが、これがもの凄い。はり倒されました。

物語は、電信局に勤めるある男が家に帰ると、水道の蛇口から水がぽたぽたと垂れていて、それが「不思議通り三十六番地……不思議通り……」と言うように聞こえる。いたたまれずに家を飛び出した彼は、店で老人に出会う。老人は「不思議通り」を知っていると言う……。

と、まあ、こんな感じの話です。やばい、すげー面白い。どうしよう。どうしよう! と私は興奮を抑えきれず転げ回りました。ますますこの本を欲しい気持ちがせりあがった瞬間です。

他にも、「サラゴサ手稿」(完訳版が出るらしいという噂がありますが、いまだ実現していないそうです。がんばれ創元社)、「ファウストの館」、「不吉なマドンナ」、「ゴーレム伝説」(短いが恐い)、「バビロンの男」(暗黒な雰囲気がいい)「見知らぬ人の鏡」(説明不要の恐怖物語)、「夢」(立ち直れなくなりそうな残酷物語)などなど、やっぱりほぼ全ての物語が異常に面白かった。幻想的な美しさを持つものから、底知れぬ狂気をのぞかせるものまで、どれもこれも不思議な魅力で私を圧倒しました。わああーーー!

一回読むだけでは足りない。ひとつひとつの物語を、もっとじっくり味わいたい。そのためにはやはり、どうしてもこの本を手に入れなければなりません。

物語には魔力がある。狂おしいほどに夢中にさせられる物語がたしかにある。そのことをあらためて私に教える本でした。



余談ですが、このあいだこのブログにコメントをくださった しばたさんのお名前が訳者の中にあって、「!!」とこれまた激しく興奮したことも書いておきたいと思います。翻訳者の方がたまたまでもこんなところを通りかかってくださったとは!!

これら素晴らしい訳者の方々のおかげで、私は世界中のさまざまな物語に触れることができるのです。
こういう本を世に送り出すために力を尽くされている全ての方々に感謝したい、そんなことも思った次第です。実にありがたいことです。私たちはなんと幸福な世紀に生きていることでしょう! 本が読めるというのは、本当に贅沢で幸福なことですね。


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『ポケットのなかの東欧文学―ルネッサンスから現代まで』

2008年07月12日 | 読書日記ー東欧

飯島周・小原雅俊 編(成文社)



《収録作品》
ヤン・コハノフスキ「挽歌」
カレル=ヒネク・マーハ「クルコノシェへの巡礼」
ユリウシュ・スウォヴァツキ「スウォヴァツキ選」
ボジェナ・ニェムツォヴァー「金の星姫」
ツィプリアン・ノルヴィット「黒い花々」
ヨゼフ.カレル・シュレイハル「自然と社会の印象」
ヤクプ・アルベス「ネボジーゼクの思い出」
パラシケヴァ・K・シルレシチョヴァ「ブルガリア民話選」
マリア・コモルニツカ「相棒」
タデウシュ・ミチンスキ「薄闇の谷間、海眼湖の幽霊」
ヴァツワフ・シェロシェフスキ「和解」
イヴァーナ・ブルチッチ=マジュラニッチ「漁師パルンコとその妻」
カフカ・マルギット「淑女の世界」
ボレスワフ・レシミャン「鋸」
ヴィーチェスラフ・ネズヴァル「自転車に乗ったピエロ」
イジー・ヴォルケル「愛の歌」
カレル・ポラーチェク「医者の見立て」
ドイツ占領下のユダヤ人を歌ったポーランド詩選「小さな密輸商人」
ルドヴィーク・アシュケナージ「子供のエチュード」
ハリナ・ポシフィャトフスカ「ポシフィャトフスカ詩選」
ヤロスワフ・イヴァシキェヴィチ「八月の思い出」
ボヤン・ボルガル「日本への旅」
フランチシェク・フェニコフスキ「マリア教会の時計」
ヴラジミル・カラトケヴィチ「群青と黄金の一日」
タデウシ・ヤシチク「十字架を下ろす」
ボフミル・フラバル「黄金のプラハをお見せしましょうか?」
ラシャ・タブカシュヴィリ「さらば、貴婦人よ!」
チェスワフ・ミウォシュ「私の忠実な言葉よ」
ヤン・ヴェリフ「賢いホンザ」
イジー・ヴォスコヴェツ「私のシーシュポス」
ブランコ・チョピッチ「親愛なるジーヤ、水底のこども時代」
ヴラディミール・デヴィデ「『俳文』抜粋」
ミルカ・ジムコヴァー「天国への入場券、家路」
ブラジェ・コネスキ「マケドニアの三つの情景」
モノスローイ・デジェー「日本の恋」
ペトル・シャバフ「美しき風景」
ヨゼフ・シュクヴォレツキー「チェコ社会の生活から」
アンジェイ・スタシュク「場所」
オルガ・トカルチュク「番号」
クシシュトフ・ニェヴジェンダ「数える」
カタジナ・グロホラ「向こう岸」
ユリア・ハルトヴィック「ハルトヴィック詩選」
パヴォル・ランコウ「花を売る娘」
ヴォイチェフ・クチョク「幻影」


《この一文》
“ここに描いたあれこれを、わたしは「黒い花々」と呼ぶ。これらは、文字が書けないので不恰好に描かれた十字の印で署名する証人の署名がそうであるように事実に忠実である。いつの日か!……ひょっとしたら別の折にわたしがみるかもしれぬ文学においては……このような文章が、短篇小説を探し求める読者たちにとって奇妙でなく映るようになるかもしれない。まだ書かれていない非文字の世界には、当世の文学者の夢にも現れたことのないような長篇小説、ロマンス、ドラマ、悲劇があるのだから……。
  ―――「黒い花々」ツィプリアン・ノルヴィット ”





ボフミル・フラバルの短篇を読みたくて図書館から借りてきましたが、ほかの作品も全部読んでしまいました。面白い!
収録作品を書き写すだけで疲れてしまったので、あまり感想を書く気力がありませんが、特に面白かったものについていくつか書いておきましょう。


まず、「黒い花々」(ツィプリアン・ノルヴィット)。ポーランドの人。ポーランド芸術家の死にゆくさまを忠実に記録したというこの回想は、なんだか妙に魅力的でした。回想録というにはあまりに物語的と言うべきか。とても静かな語り口でありながら、大きく心を動かされる美しさがあるようでした。

次に「淑女の世界」(カフカ・マルギット)。ハンガリーの人。女性。ある女の子が優秀な従姉妹とともに新聞をつくることになる。女の子に文筆活動は不必要だという周囲の意見にめげず、「私」は処女作を書き上げるのだった。というお話。
これもまた妙に面白かった。従姉妹のヘッラという女の子と、彼女に憧れてそのあとについていくだけだった「私」の将来における立場の違いは皮肉的で悲しい。全体的にスピード感のある物語で面白かった。

「医者の見立て」(カレル・ポラーチェク)。チェコ。
「私」はある朝目を覚ますと、すごく具合が悪かった。会社を早退し、医者を呼ぶと「インフルエンザですね」と告げられる。なんてこった、半分死んだも同然だ。うろたえる「私」に医者は絶対安静を告げるのだが、しかし……。というお話。
これはすごく笑えた。総じてチェコの短篇はこういう感触のものが多い気がする。痛烈な。ややひねくれたような視点というか、何と言うか。とにかく面白かった。

「子供のエチュード」(ルドヴィーク・アシュケナージ)。チェコ。
この人もチェコの人だけれど、こちらはストレートに美しい作品群でした。いえ、ほかのチェコの作品が美しくないというわけではありませんが、しかし。もちろんやはりチェコ的な雰囲気はあります。何と言っていいのか分かりませんが、何かチェコ的な感性というか。
父である「私」とその息子をとりまく生活を描いた作品。胸があたたまるような話ばかり。

「八月の思い出」(ヤロスワフ・イヴァシキェヴィチ)。ポーランド。
どこかで聞いた名前と思ったら、『尼僧ヨアンナ』の人でした。あちらは非常に恐ろしいお話でしたが、こちらは物悲しくも美しい短篇でした。

「日本への旅」(ボヤン・ボルガル)。ブルガリア。
ブルガリアの作家ボルガルが、まだ国交の回復していない日本を訪れた際の記録『日本への旅』の抜粋。
これは非常に興味深いものでした。1950年代後半に東京で開催された国際ペンクラブに参加するため来日したボルガルが見た当時の東京のさまや知り合った真面目な日本人たちについて描かれています。「道ばたに酔っ払いがいない」ということに感動するボルガル氏。なにかしみじみさせられました。

「十字架を下ろす」(タデウシ・ヤシチク)。ポーランド。
トラウマになりそうな悲惨の作品群。ごく短い物語がいくつか載っていましたが、どれもこれもあまりに悲惨なのでたまりませんでした。戦争や占領、貧困の悲しみが噴き上がっています。うーむ。「おちびのネル」というお話が特にやばかった。

「私のシーシュポス」(イジー・ヴォスコヴェツ)。チェコ。
やっぱりチェコ。神話の人物シーシュポスを取り上げて、大岩を押し上げてはまた山頂から転げ落ちたそれを繰り返し押し上げるという苦行に赴く彼の心理を分析。それがとにかく面白い。あー、面白い。これは面白かった。最後の一文がとにかく傑作でした。

 “そう、これが大岩のために赴く、私のシーシュポス。それから私はアルベルト・カミュが書いたシーシュポスについてのエッセイを読み、それは全く私のと違う作品だったのだが、大本は同じで、しかもよりいいものだった。カミュ氏はご立派だった。それでノーベル賞ももらった。私が得たものは大岩だった。 ”


爆笑!!

「美しき風景」(ペトル・シャバフ)。チェコ。
またしてもチェコ。二人の兄と、父親、そして祖父。家族の男たちと同じように自分も男になりたいと真剣に考える妹が、男たちの間抜けな生活を窓から見つめている。というお話。
これにもかなり笑わされました。すげー面白い。とても映像的で、コミカルかつユーモラスなお話。映画にしたら面白そう。と考える人は本国にも多いようで、この人の作品は次々と映画化されているらしいです。いやー、面白かった。
おじいさんが用を足そうとして「まさかの結石!」という場面が、私としては最高に愉快でした。

「チェコ社会の生活から」(ヨゼフ・シュクヴォレツキー)。チェコ。
どこまでもチェコ。マハーニェ家の子供たちの宿題レポートの形式をとった、いくつかの小品。「なぜ、人の鼻は柔らかいか」「注目に値する科学的現象」(弟)、「あたしが結婚せずにすんだ顛末」(姉)、「僕が結婚する羽目になった顛末」(兄)などなど、実に馬鹿げた日常生活が描かれています。やっぱチェコってこういう感じなのでしょうかねー。面白い。

「番号」(オルガ・トカルチュク)。ポーランド。
ホテルのメイドとして働く主人公が見る、世界各国のさまざまなお客たちの使った部屋についての物語。
このあいだニュースで「もっとも好ましい旅行客は日本人」というのがありましたが、それはこのお話の中でもそのように描かれていました。やっぱそうなんですかねー。ちなみに、物語の中でもアメリカ人の若い客は最悪でした。
それにしても、部屋から部屋を次々と片付けていくメイドのお話というだけなのですが、どこか幻想的な雰囲気を漂わせている不思議に印象的な物語でした。


ああ。なんだかんだですごく長い記事になってしまったような……。
『ポケットのなかの東欧文学』と言いながら、どんなポケットになら入るのかしらというほどに分厚い本書。しかし、収められた一篇一篇は、たしかにポケットのなかに入れておきたくなるようなものばかりでありました。



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