先日は、南無の会主催による「花まつり法要」に少し遅れたのですが、参加してきました。南無の会会長の松原泰道さんは、満101歳を迎えられた生涯現役の僧侶です。数ヶ月ぶりにお元気な姿を拝見し、うれしく思いました。まるで、生き仏という言葉はこの人のことを指すのではないかと率直に思いました。松原泰道師は、「末期高齢者になりました」と最初にあいさつをされました。朝起きるときも、夜床に入るときも、必ず人様の差し伸べる介添えがなくては、どうしようもない状態なのです、と「生かされて」という講演の中で、矍鑠とした姿勢で、しっかりとした口調でお話をしてくれました。
「ご先祖の血、みんな集めて子が生まる」
「また今日も生きさせていただいているんだな」
お釈迦様は、自分は人間に生まれました。そして、人間に仏を得て、人間は必ず成仏の時が来る。だから、人様のために何か尽していく。前の世にいろんな経験を積んでこの世に人は生まれてくるのです。ひとつの縁を生かしていくことがとても大切だと思う。なぜなら、張り巡らされた網の目のなかのひとつの部分を取ろうとすると、バラバラになってしまう。だからこそ、縁を大切にしなければいけないのです。逆境になって初めて、逆境の人を救うことができるのです。人様のお役に立つことができるのです。逆境でも人様の役に立つことができるのです。どのような境遇にあっても人様のために生きていくのです。だいたい、このような主旨で松原泰道師は、お話しして下さいました。心から感謝します。私は、松原泰道師がとても好きですので、会場の書籍売場で書を2点、いつものように買い求めました。1点は『心 やわらかに耕す』、もう1点は『福寿』という字です。いずれも101歳の書なのですが、正直に申しまして、力強く、光り輝いている字なんですね。心というか、魂のステージが、俗世界にいる私のレベルとは、雲泥の差ですね。
そのあとに、無着成恭「ボロは着てても心は錦」というテーマで、お話を伺いました。昭和2年(1927年)山形生まれ、同じ東北人として、私はとても親しみやすさを感じます。約2年前にお会いして、無着先生の著書を買い求めさせていただきました。無着先生から「あなたの好きな言葉を書きましょう。」と言われましたので、少し考えてからその本の表紙の見開きに、突然思いついたというか、閃いた自分の好きな言葉である『穏やかな人は穏やかな息をする。美しい人は、美しい息をする』と毛筆で揮毫(きごう)していただいたのが、つい先日のことのように思えました(無着先生のお元気な姿を拝見して、正直、うれしかったですね)。無着先生は、馬力があり、反骨精神に満ちあふれ、大好きな人物です。現在は、大分県の曹洞宗・福泉寺の住職をされながら、国際的なボランティア活動にも積極的に関わっておられる素晴らしい方だと思います。講演の内容もとてもわかりやすくて目からウロコでしたね。秀吉の朝鮮侵略に触れて、耳塚、鼻塚の所在地と、歴史的な諸問題(北の拉致)との関わりについて、会場の聴衆に重要な問題を提起されたことは、我が意を得たり、という感じでしたね。思わず両膝を思いっきり叩きたくなりました。(レーニンの民族植民地問題と民族自決権に対する私の立場ははっきりしてますけどね。)
無着先生にはいずれ、まだ一度も訪れたことのない大分でじっくりお話を伺いたいな、と夢見てます。(無着先生よろしく)
もう少し南無の会の活動についてご紹介したいのですが、そろそろコンサートの時間が近づいてしまったので,この辺で筆を置きます。これから今夜は『シュロモ・ミンツ ヴァイオリンリサイタル パガニーニ 24のカプリースOP,1 全曲』をコンサートホールまで、聴きに出かけてきます。それじゃまた!
「ご先祖の血、みんな集めて子が生まる」
「また今日も生きさせていただいているんだな」
お釈迦様は、自分は人間に生まれました。そして、人間に仏を得て、人間は必ず成仏の時が来る。だから、人様のために何か尽していく。前の世にいろんな経験を積んでこの世に人は生まれてくるのです。ひとつの縁を生かしていくことがとても大切だと思う。なぜなら、張り巡らされた網の目のなかのひとつの部分を取ろうとすると、バラバラになってしまう。だからこそ、縁を大切にしなければいけないのです。逆境になって初めて、逆境の人を救うことができるのです。人様のお役に立つことができるのです。逆境でも人様の役に立つことができるのです。どのような境遇にあっても人様のために生きていくのです。だいたい、このような主旨で松原泰道師は、お話しして下さいました。心から感謝します。私は、松原泰道師がとても好きですので、会場の書籍売場で書を2点、いつものように買い求めました。1点は『心 やわらかに耕す』、もう1点は『福寿』という字です。いずれも101歳の書なのですが、正直に申しまして、力強く、光り輝いている字なんですね。心というか、魂のステージが、俗世界にいる私のレベルとは、雲泥の差ですね。
そのあとに、無着成恭「ボロは着てても心は錦」というテーマで、お話を伺いました。昭和2年(1927年)山形生まれ、同じ東北人として、私はとても親しみやすさを感じます。約2年前にお会いして、無着先生の著書を買い求めさせていただきました。無着先生から「あなたの好きな言葉を書きましょう。」と言われましたので、少し考えてからその本の表紙の見開きに、突然思いついたというか、閃いた自分の好きな言葉である『穏やかな人は穏やかな息をする。美しい人は、美しい息をする』と毛筆で揮毫(きごう)していただいたのが、つい先日のことのように思えました(無着先生のお元気な姿を拝見して、正直、うれしかったですね)。無着先生は、馬力があり、反骨精神に満ちあふれ、大好きな人物です。現在は、大分県の曹洞宗・福泉寺の住職をされながら、国際的なボランティア活動にも積極的に関わっておられる素晴らしい方だと思います。講演の内容もとてもわかりやすくて目からウロコでしたね。秀吉の朝鮮侵略に触れて、耳塚、鼻塚の所在地と、歴史的な諸問題(北の拉致)との関わりについて、会場の聴衆に重要な問題を提起されたことは、我が意を得たり、という感じでしたね。思わず両膝を思いっきり叩きたくなりました。(レーニンの民族植民地問題と民族自決権に対する私の立場ははっきりしてますけどね。)
無着先生にはいずれ、まだ一度も訪れたことのない大分でじっくりお話を伺いたいな、と夢見てます。(無着先生よろしく)
もう少し南無の会の活動についてご紹介したいのですが、そろそろコンサートの時間が近づいてしまったので,この辺で筆を置きます。これから今夜は『シュロモ・ミンツ ヴァイオリンリサイタル パガニーニ 24のカプリースOP,1 全曲』をコンサートホールまで、聴きに出かけてきます。それじゃまた!