大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

人はなぜ苦しむのか 1

2009-04-23 07:00:00 | 日記
 こんにちは。2,3年前にふらっと東寺に遊びにいった時、堂内でふと手にしたパンフレット(確か100円だったと思う)を読んでみて、すごく考えさせられて、時折読み込んでいる文章を皆様に紹介させて下さい。
本日と土曜日に二回に分けて引用紹介します。良かったら読んでみて下さい。

三浦俊良著『東寺の謎』(詳伝社)より 

 東寺講堂の二十一尊の仏像は、空海が、どうしても伝えたかったメッセージを発しているという。そのメッセージを知るために、自分とはなにか、人とはなにか、ということをあらためて考えてみたいとおもう。
 普段の生活のなかで人間とはなにか、とあらためて自分に問いかけることはあまりない。しかし仏教ではそれを探りつづける。
 人間とはなにか、人はなぜ苦しむのか、苦しみを生むものとはなにか、と仏教は考える。そしてひとつの結論を導いた。それは煩悩に執着することが誤りではないかと。人間は悟りより煩悩の方が好きではないだろうか。迷いたいとおもってはいないだろうか。悟りたいと口ではいうが、じつは煩悩のなかで迷っていたい、これが人間ではないだろうか。
 煩悩とは身体をわずらわす『煩』(ぼん)と心をなやます『脳』(のう)を合わせたことばで、百八種類、八万四千の煩悩があるといわれる。除夜の鐘を百八回撞くのは、煩悩を打ち砕き消し去るという意味をもつ。すべての煩悩を消し去り、新しい気持ちで新年を迎えようという希望から生まれた。
 さて百八種類の煩悩のなかには、根本煩悩といわれる六つの煩悩がある。
 それは、むさぼりの心をあらわす貧(とん)、いかりの心をあらわす瞋(じん)、智慧のない心をあらわす癡(ち)であり、それに自他を比較する心である慢(まん)、うたがう心である疑(ぎ)、よこしまな心である悪見を加えて六煩悩とよぶ。
 この煩悩のなかで泳いでいるうちはまだいいが、執着すると苦しみに転化していく。人は苦しみはじめる。ここではじめて迷いから抜けだすか、迷いのなかに沈んでいくかを選択することになる。問題は固執する心なのである。
 まず人間は、いま自分が、どの道を歩いているのかを知らなければならないという。仏教では人間は六つの道をさまよいながら生きていると説いている。
 それは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六道である。これはそういう道が実際にあるのではなく、人間がつくりだす意識の世界である。
 地獄とは、ご存知のように人間が死ぬと三途の川というのがあり、渡ると地獄がある。地獄では閻魔大王が待っており「お前は娑婆でなにをしてきたか」とたずねる。ほとんどの人は「なにも悪いことはしてきませんでした」と答える。すると閻魔大王は「その嘘は本当か」と聞き、「浄瑠璃の鏡」というすべてを見通すことのできる鏡を持ってくる。「浄瑠璃の鏡」には、なにもかもが映ってしまうため、閻魔大王は嘘を見破り、血の池地獄へいけと別府の血の池地獄よりも熱い地獄へと落としてしまう。これが地獄である。人は人を騙してうまくやったつもりでも、自分自身を騙すことはできない。自分の行為が、もしかしたら人にばれてはいないだろうか、ぜんぶ見抜かれてはいないだろうかと、たえずおびえ苦しんでいなければならない。こういう心の苦しみの状態を地獄という。
                       

続く(土曜日 7時に紹介します)