大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

わたしの生家

2009-04-10 18:40:03 | プロフィール
 私の生家は、福島県の通称、中通り地方の長閑な農村地帯にあり、はっきり言うと田舎町です。家は、ちょっとした高台というか山の上方にあります。戦国時代に山城が築かれていたみたいで、地名も『館』です。ちっちゃな城があったといわれていて、『二の丸』とか『段の下』という地名が付いている場所があります。元々は、山の一番上の方に屋敷があったみたいですが、少しでも耕作地を増やしたいという昔の人の知恵で、江戸時代には、中腹のあたりに家をつくり替えたようです(ブルドーザーなんかで土地の区画整理をしたときに、江戸時代の生活雑器が地中から出てきたことをおぼろげながら覚えています)。おそらく小さな館(お城)があったみたいで、春山城と呼ばれていたそうです。歴史辞典で一度、自分の家のことが紹介されているのを見たことがあります。おそらく『外敵』が来ても防衛できるように山の頂上に館を造り、北東南は、かなり険しい傾斜地になっていて、西の方は、あきらかに人工的な堀を造った跡がいまでも残っています(鎧返し? 私は幼い頃、大川原家18代目とよく両親と祖母から言われましたね。私の名前は、初代と同じ『有重』と相成ったのです。この名前は、小学生の頃は本当に嫌でしたね。よく同級生から冗談で「アリ死げ!」と地面を這いつくばっている蟻を踏みつぶすような仕草をされましたので。これも無意識のうちにコンプレックスが刷り込まれていく要因かもしれませんね)。でも父親の気持ちを察すると、どうしても文久年間に傾いてしまった大川原家の家運を立て直したい、大川原家再興のために初代の名前をつけたみたいです。家運が傾いた直接の原因は、江戸文久年間に物乞いが来て、食べ物を分け与えたのだそうです。そのときの料理の残り火がもとで、火事になり家が全焼してしまったそうです。そのあとは、広大な田畑の切り売り。もしかしたら、文人趣味かもしれませんが(自分の都合のいいように解釈しています)、あまり働かなかったみたいで、すべて良きに計らえだったようです。きっと小作人もたくさん使って酷使してたんでしょうね。つい最近、判明したことなんですが、父が亡くなる4、5年前に観音寺という真言宗のお寺のお墓の土地が、すべて大川原家の先祖の名義のままなので、お寺のお坊さまから名義を書き換えてほしいと言われ、父は印鑑を押したそうです。何百軒という家のお墓の土地がすべて大川原家の所有地だったなんて、びっくりしちゃいましたね。お墓の土地所有者とかいわれても、困っちゃいますよね。確かに私の家のお墓は、室町時代の五輪の塔が四つほどあり、奉公していた方々のお墓もちょっと離れたところにあります。戒名は先祖代々、院殿居士です。

院御時延元二丁丑歳奥州國司顕家御供士北面大河原源六左衛門尉藤原有重

此間三百年不分

2代 大學

3代 但馬

4代 内蔵之尉

5代 源五郎

6代 三太郎

7代 仁右衛門

8代 仁右衛門

9代 倉之丞

10代 むめ

11代 仁右衛門

12代 三男豊之助平作

13代 三男鉄吾

14代 二男仁助後ニ平吉

15代 喜代多

16代 喜次

17代 正蔵

18代 有重

19代 福寿

以上が大川原家の家系図です。はっきり言ってもの凄い長男の重圧でしたね、この家系図が。
大川原の一族は、みんな大概お人好しで、人を疑うことをしない田舎者です。どちらかというと、騙されやすいタイプかもしれませんね。父は生前、これから紹介する『心の糧七ヶ條』という紙を貼って眺めていたみたいです。

  心の糧七ヶ條

一、 此の世の中で一番楽しく立派なことは生涯を貫く仕事を持つことである
一、 此の世の中で一番さみしいことは自分のする仕事のないことである
一、 此の世の中で一番尊いことは人の為に奉仕して決して恩に着せないことである
一、 此の世の中で一番みにくいことは他人の生活をうらやむことである
一、 此の世の中で一番みじめなことは教養のないことである
一、 此の世の中で一番恥であり悲しいことはうそをつくことである
一、 此の世の中で一番素晴らしいことは常に感謝の念を忘れず報恩の道を歩むことである

副島隆彦 様

2009-04-10 12:13:04 | 政治・経済
 副島隆彦 様

 先日は、宇都宮の講演会でお目にかかれて大変光栄です。一参加者として、現代の政治経済の情勢について、学ぶべき点がたくさんありました。私は、テレビを見ない主義です。副島先生のサイト学問道場と、『植草一秀 知られざる真実』『神州の泉』を中心にして、日々の出来事をチェックさせていただいてます。歴史の大まかな流れをある重要なベクトルから読み解き、或いは隠されている事実(真実)を掘り返す、もしくはねつ造された歴史(虚偽)をあぶり出す、素晴らしい洞察力と慧眼に敬意を表します。この本『歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力』(PHP研究所)は、昨年出版された書物のなかではピカイチの名著だと思います。当然のことですが、多くの知人友人に紹介させていただきました。(ある裁判官にもおすすめしました。)私はつくづく思います。『知る』ということの悲しみについてです。ある詩人が「考えるとは、知恵の悲しみを知ることである」と『人生の材料』という題の詩の中で述べています。確か韓国の詩人で、金芝河(キムジハ)という人がいますが約三十年くらい前に「知るとは変えることである」と、どこかの雑誌でコメントしていた様な気がします。世界の出来事、日々起こる様々な事件、また人々の日常生活(喜怒哀楽)、戦争経済を重要な主要産業として国家の舵取りをしようとするボロボロUSAと一緒に抱きつかれ心中されようとする日本の悪徳ペンダゴン(一部の権力者、ブルジョアジーの強欲さ)。金があれば…金が全て…金で何でも出来るという錯覚、思い違いしている一部の暴力装置に守られている階級、その他、etc.
 私もいろいろこの世の不条理、社会的矛盾、階級対立の問題について思うことは多々あります(多少マルクスエンゲルスレーニンローザルクセンブルクetc.の著書をかじりましたので)。私達の身の回りに起こっている事態について、外科医がメスを振るうように冷静に分析し、自分の社会的な役割を自覚したいと日々思っています。まずは自分が幸せになること、自分の周りの人が幸せになれるように祈ること(身の回りに悩みや困っている人がいれば、なんらかの相談に乗ってあげること、人に親切にすること)、またこの世が『地上楽園』に一刻も早くなれるよう祈念するのみですね。でも、私は、世界の悲しみを自分の背中に背負い込む気にはなれません。

 『基本的には、悩みを持ったまま、明るくエネルギッシュに生きる』

 無理をしないで、ペンの力、言葉の力、こころの力を信じてひたすら楽観的な気持ちで自分の信じる道を貫くのみですね。怒ることよりも、いい考え(知恵)を捻出し、あらゆる手段(方法)で、政治家、官僚に粘り強く説得すること、また公開質問状を作成し、彼らに『誠実に返答』してもらう地道な働きかけを行うのもひとつの選択肢ではないでしょうか。その方がストレスも溜まらないのでいいのではないかなと、浅学非才な私はぼんやりと思っています。怒ると疲れますよ(『敵』をつくると闘わなきゃいけなくなってしまうので、行き着くところは、戦争やでっち上げ裁判と、いままでの歴史が教えてくれていますよね。闘いよりは、説得、納得、理解をしてもらう味方というか、仲間作りが大切だと私は率直に思います。『COURRiER Japon 4月号』で、村上春樹氏のエルサレム・スピーチ全文が掲載されていますが、とても参考になります(私もちっぽけな卵です)。

 私の持論を最後に僭越ながら主張させて下さい。人はこの世に泣きながら生まれてきます。大抵の人は祝福されます。人は人間関係の修行をします。人は幸せになるためにこの世に生まれてきたのです。楽しい思い出、様々な経験、喜怒哀楽という感動だけをスーツケースに入れて、あの世に旅立つのです。私は、いままで文章を書いた経験がほとんどありません。自分の思いを上手く表現できず、はっきり申しまして文章も下手ですけど、自分のブログで日々の出来事を綴っていきたいなと思っています。

 これからもお身体くれぐれもご自愛下さい。

 大川原有重 拝