先日大阪の松竹座で金澤翔子さんの作品展示のお手伝いをしてから、短い時間でしたが奈良、京都を訪れました。いつものように古本屋さん巡りをしてちょっと気になる本を数冊買いました。
週刊朝日の臨時増刊号1970年7月25日、定価150円の内容はとても残酷なもので、正視に耐えないような写真が何枚も紹介されていて人間の罪と業について考えさせられ言葉になりません。参考資料として買い求めました。
写真集トロツキーは1973年に発行(定価2000円)されたものを1400円で掘り出しました。はじめて見る本なのですが、トロツキーの姿と素顔がふんだんに紹介されていて、彼の数奇な生涯を学ぶ事ができました。パラフィン紙で几帳面に包んである写真集の前の持ち主にとても興味がわいたのですが、人間よりも本の方が長生きできるのですね。
プロコフィエフ短編集は、京都のチョンさんから紹介されたのでネットで買い求めました。旅先で出会ったのであえて紹介します。

メモ wikipediaより
亡命と日本滞在(1918年)
1918年(27歳)「古典交響曲」の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。教育人民委員アナトリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが...」と説得に努めたが、彼の亡命の意志は固かった。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日、東京に到着。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺に滞在。12~18日、京都市に滞在し、琵琶湖疏水、祇園などを散策。13日には大阪市を訪れている。19~28日、奈良市に滞在し、奈良ホテルに宿泊。奈良公園周辺を散策している。この奈良市滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった白鍵四重奏曲の構想を練っている。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19~21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。プロコフィエフはサンフランシスコに上陸し、9月にはニューヨークへ到着した。
週刊朝日の臨時増刊号1970年7月25日、定価150円の内容はとても残酷なもので、正視に耐えないような写真が何枚も紹介されていて人間の罪と業について考えさせられ言葉になりません。参考資料として買い求めました。
写真集トロツキーは1973年に発行(定価2000円)されたものを1400円で掘り出しました。はじめて見る本なのですが、トロツキーの姿と素顔がふんだんに紹介されていて、彼の数奇な生涯を学ぶ事ができました。パラフィン紙で几帳面に包んである写真集の前の持ち主にとても興味がわいたのですが、人間よりも本の方が長生きできるのですね。
プロコフィエフ短編集は、京都のチョンさんから紹介されたのでネットで買い求めました。旅先で出会ったのであえて紹介します。



メモ wikipediaより
亡命と日本滞在(1918年)
1918年(27歳)「古典交響曲」の初演を果たした直後、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意した。教育人民委員アナトリー・ルナチャルスキー(1875-1933)は、「君は音楽の革命家だ。我々は生活の革命家なのだ。手を取り合うのは当然ではないか。それでも行くというのならば邪魔はしないが...」と説得に努めたが、彼の亡命の意志は固かった。5月7日、シベリア鉄道にてモスクワを発つ。31日、敦賀港に上陸し、6月1日、東京に到着。冬シーズン中の南米行きの船便を探すが出航した直後で、次便ではシーズン終了後になることから、8月になるまで日本に滞在してから北米へ向かうことにする。11日までは東京、横浜周辺に滞在。12~18日、京都市に滞在し、琵琶湖疏水、祇園などを散策。13日には大阪市を訪れている。19~28日、奈良市に滞在し、奈良ホテルに宿泊。奈良公園周辺を散策している。この奈良市滞在中に、ピアノ協奏曲第3番等の原型となった白鍵四重奏曲の構想を練っている。29日に東京に戻り、以後離日まで東京、横浜周辺に滞在するが、7月19~21日には軽井沢を、28日には箱根を訪れている。更に7月6日、7日には東京で9日には横浜で自作を含むピアノ・リサイタルを開催した。8月2日、離日。このプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の最初の日本訪問と言うことができ、評論家大田黒元雄や徳川頼貞などとの交流により、日本の音楽界に少なからず影響を与えたといわれる。プロコフィエフはサンフランシスコに上陸し、9月にはニューヨークへ到着した。