大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

福島原発事故とマスコミ

2011-03-21 23:31:13 | 原子力関係
 福島原発事故に関するテレビと新聞などの報道は戦前の大本営発表を想起するような気がする。はっきりしていることは一貫して「スポンサーである東電への遠慮」の報道姿勢であるということ。全てはマネーの問題である。日本人の一部に浅ましい、見識のない人々がいるということ。人命よりお金儲けを優先できる人が少なからず存在している現実を自分自身、はっきりと冷静に直視しようと思う。こうした背徳行為を黙って容認している圧倒的な日本人の無知、無学振りに正直言葉も出ない。日本人の歴史はこれからも「悲劇から学ぶこと」もなく果てしもなく未来永劫続くのかも知れない。テレビ番組のほとんどの放映は「日本人は馬鹿になればいいんだ」とアピールしつつ洗脳教育をしているような印象を受けているのは果たして僕だけだろうか?日本人の知的レベルを興味深く洞察している。



永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした刑死者(元死刑囚)である。
1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。

生い立ち

1949年6月27日、北海道網走市呼人(よびと)番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は崩壊状態。現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。1954年(当時5歳)に、母親が青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。兄弟全ての電車賃が出せないため、則夫を含む4人を網走に残したままの家出だった(後に書いたノートで母は悔いている)。残された則夫を含む4人兄弟は、漁港で魚を拾ったりして極貧の生計を立てていたものの、年少の則夫は始終兄や姉たちから虐待を受けていた。しかし、1955年、近隣住民が福祉事務所に通報したのをきっかけに、4人は板柳の母親の元に引き取られた。その後、母親は行商で生計を立て、兄弟を育てた。
中学時代に、函館と福島に家出した。
1965年3月、板柳から東京に集団就職する。渋谷の高級果物店・西村総本店に就職した彼は、北海道育ちのため「東北弁コンプレックス」も無く、接客を要領よくこなしていた。やがて新規店を任される話が持ち上がるほどの信用を勝ち得る。しかし、戸籍謄本の本籍が「網走無番地」だったため、「網走刑務所生まれ」だと誤解されてからかわれ、さらに過去の窃盗を指摘される。やがて店内での立場が微妙になり、結局、退職。その後も宇都宮市、守口市、川崎市など職や住所を転々とするものの、どこも長続きしなかった。それでも、新宿区の牛乳店で働きながら勉学し、1967年4月、明治大学附属中野高等学校の夜間部に入学。しかし同年7月に除籍処分を受ける。永山が豊島区の喫茶店『ヴィレッジ・ヴァンガード』で早番のボーイとして働いていた時、ビートたけしが遅番のボーイとして働いていた。その後、熱海市で定期便トラックをヒッチハイクして神戸に向かい、密航を企てるも失敗、横浜に戻る。杉並区の牛乳店で働きながら1968年4月、同校に再入学し、クラス委員長に選ばれる。その後、退学し故郷の板柳町に帰る。そして、陸上自衛隊試験に落ちた。
初めての検挙は、横須賀の米軍基地内での自販機荒らしで、この時は保護観察処分となっている。

連続射殺事件

横須賀市の米軍宿舎から盗んだ22口径の回転式6連発拳銃で、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場近くで働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。
1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された[1]。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」という理由で死刑判決が確定する。
この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。
《wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/永山則夫 より引用》

金澤翔子さん席上揮毫 世界ダウン症の日 (大阪にて)

2011-03-21 22:12:52 | 金澤翔子さん関連
今日は金澤翔子さんが大阪松竹座にて世界ダウン症の日のイベントで大勢のダウン症の皆様と関係者のみつめる中で「共に生きる」という書を東北の地震と津波、原発事故で避難している方々に心を込めて書き上げました。席上揮毫の後金澤泰子さんと来場者の間で活発な質疑応答もあり内容の濃いイベントになりました。(近日中に詳細に改めて紹介します)

 

 

 

 

 


福島原発事故と蝋燭

2011-03-21 21:34:40 | 原子力関係
 今日、大阪のある蝋燭を販売しているお店に電話してみた。ほとんど在庫がないという返事。予想していた通り。これはきっと江戸時代に戻れと警告かも知れないと自分は考えている。福島の田舎で小さな頃蝋燭の灯りで暮らした事があるのでこれからの人生を蝋燭の灯りで夜間過ごしてもいいと僕は覚悟を決めている。計画停電より蝋燭の効能と取り扱いへの留意点について日本政府はアピールした方がいいのではないでしょうか?停電中蝋燭の灯りをみて高島野十郎の絵画を思い出しました。



高島野十朗

福島原発事故について

2011-03-21 21:02:12 | 日記
新聞やテレビで放射能汚染について『安全』『心配無用』を主張している学者達や「識者」を全てチェックして、彼らの発言を全て記録しておいて下さい。いづれ嘘八百が完全に露見すると僕は思います。「戦犯」「人類への犯罪者」として歴史上に名前を刻みますから。よろしくお願いいたします。一福島県民として。

人相

2011-03-21 19:09:19 | 日記
人相学を探究している僕にとって日々学ぶことが多すぎる。勿論自分が人様からどんな風に見られているかは、鏡がないので判らない。心配事が多すぎるので「暗い顔」をしているような気がする。明るく笑顔を振りまくことなんて元々苦手だけど、冷静に日本の緊急事態を見守りたいと思う。今は、自分にとって何が出来るのか、何が不可能なのか熟考するしか方法がないと率直に思う。今、東日本は世紀末の様相を呈している。恐らく何十年も復興事業は続くと思う。当然自分が生きているうちは東北地方の人々は苦難と流浪の旅の連続でしょう。原発事故の現場から半径100キロ以内は人間もほとんどの生物も住むことは不可能だと僕は考えている。「心の底からの笑顔」なんて東北地方の人々には僕の生きているうちはないかも知れない。人相学はもう学ばなくてもいいような気分になってきた。これからは人間学と美学を再度学び返そうかなと真剣に思い詰めている。