大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

幼い頃のこと

2009-04-14 17:17:56 | プロフィール
 父の野辺送りをおえた夜、兄弟親戚が一同に会して亡き父のエピソードを中心に昔の珍事がいろいろと話題になった。一瞬、自分の耳を疑うようなことが聞こえてきた。自分は、1歳過ぎて母の実家に口減らしのために(おそらく事実だと思う)2年間くらい預けられていたという話をすぐ下の弟から聞かされたのである。これには、ひっくり返るくらい驚いた。長いこと私自身、重々承知していたことではあるが、自覚症状として、<病んでいた心の根っこ>の問題がやっと氷解した。三つ子の魂百までもという諺がありますが、やっと自分のことを、深層心理の奥深い闇の部分まで掘り下げて理解できるようになってきた(四十数年もかかっちゃいました)。いつも心の中で、危うい奇妙なアンバラスな感覚、少し不安定な精神状態、言葉にならない不安感みたいなもの、あるいは浮遊感。きっと母親の十分な『愛』を受けていなかったに違いないと思いました。無意識のなかで母性愛を求める気持ち、ガラスが割れたような心、心の飢えが絶え間なく消えない微妙な感覚!あ~あ… 
 でも、自分の存在の秘密が少しずつ解き明かされてきて今では良かったなとしみじみ思っています(だからいつも母親に対して無意識に『憎んでいる』、また内心、女性が『怖くなる』ときがあるのは、よく言えないのですが、飢餓、もしくは憎悪と紙一重の感情が脳の中にいつの間にか刻み込まれているのかもしれないと、しみじみ思うのです)。

 意識が存在を規定するのではなくて、社会的存在が意識を規定するというテーゼを想起します。自分を知ること、存在そのもののルーツを辿ること、自分の生い立ちについて、あれこれいろいろと想いをめぐらし、考えることができるなんてほんとに幸せな身分だと思うのです(ありがたい話です)。自分とは、『自』然のなかの一部『分』であるとすると、いずれ肉体は土に還り、天に帰雲すると思うのですが、魂はいつまでも生き続けると私は信じ仰いでいます。いつも人の一生ってなんだろうと想いを馳せます。人の死とは、なんでしょうか。父(人)が死んでも、その人の死は終わっていないと思うのです。父(人)を知っているすべての人々があの世に旅立ち、(誰一人も父(人)についての記憶が)すべて消滅した時に、本当の父(人)の死が終わるのだと思うのです。

マルタンマルジェラの事 ①

2009-04-13 16:29:01 | 日記
 先日は東京オペラシティギャラリーで6+アントワープファッション展のオープニングパーティに出席しました。会場にはファッション関係者はもちろんのこと、多くの美術関係者が詰め掛けてごったがえしていました。自分が興味というか関心のあるマルタンマルジェラ(多元国家ベルギーのアントワープ出身デザイナー)作品が展示されているのを見ることが第一番目の目的でした。展覧会場をわりとゆっくり丁寧に見て回りました。『奇抜』な衣装がたくさん展示されていて時代精神(ツァイトガイスト)がほんのちょっぴり読み取れる感じがしましたね。あくまでも『ド素人』の表面的な、というかうわっつらの「理解」です。展覧会場を何度かまわってみて、ちょっと気になる品のいいドレスが展示されているのをいくつかみつけました。会場で配られていたリーフレットのキャプションをみるとなるほどな、と納得したことがありました。自分の直感で割といいな!と思った作品は全てマルタンマルジェラだったんです。(やっぱりね。ほんとにおしゃれですね。エレガントで、品があり,センス抜群。)
 
 展覧会場の出口近くでは1990年のパリのゲットーで行われたマルジェラのファッションショーの様子がビデオで放映されており興味深く拝見しました。そのキャプションには下記のように記されていました。

『マルタンマルジェラでのパリでのショーに居合わせた人々は、ユニークなイヴェントの目撃者であった。今から考えれば、場所の選択ー移民の住む荒れ果てたパリのゲットーーと脱構築主義者であるマルジェラのデザインにおける衝撃は、東欧の政治的、社会的秩序の崩壊と共鳴しているかのようだった。10月のあの夜、崩れかけた壁に腰をかけていたショーの目撃者たちは、11月に崩壊しつつある「壁」の上で踊る歓喜に満ちたベルリン市民を不気味に先取りしていたといえよう。マルジェラのイヴェントは今や歴史の一局面を象徴している。つまり、その時には誰も認める事も理解する事もできなかった、未知の世界の予告編だったのである。真の幻視者は、その理由や場所を知らなくても、自分の最も奥底にある情熱に到達することによって創造し、そしてごくまれにいまだ起こらざる出来事を感じ取るのである。』

 私も時々マルタンマルジェラを着て街中をぶらつくことがあるのですが、じろじろ見られちゃいます。(自意識過剰かも?近日中に公開しますね。)マルジェラはDIESELに買収されたと風の噂で聞いたのですが、ちょっぴり残念です。急激な社会変動と個人的な懐具合の手元不如意もあいまって最近は恵比寿にあるマルジェラのショップにも足が向かなくなってしまいました(笑)けど、気になる存在ですね。やることなすこと格好良すぎますね、マルジェラさんて!個人的に私が好きなブランドはヨウジヤマモト(黒は敬遠、というかパスです)gorouta(京都のブランド)KATO(京都のブランド、太子堂のお店、”三軒茶屋 藍瑠 AIRU” (デニムは特にオススメです)の経営者はとっても気さくで良い方ですね。是非お出かけ下さい!)
 最近マルジェラは『与えられた物を信じたりしてはいけない。そして常識を疑うこと。予想外の物を追い求めることが大切だ』と述べているファッション雑誌の記事を目にしました。当たり前のことですけど、やっぱり良い事言ってますよね。ほれぼれするぐらい優れたデザイナーであり、アーティストですね。
 でもね、美輪明宏さんの「ほほえみの首飾り」(水書房)という本の中でファッションについていろいろ悩ましい事が書かれています。美輪さんが南無の会の講演でお話しされたことをまとめたすごく良い本です。人間の本質というか本性について特に深く考えさせられます。とくに”菩薩の心”というテーマの文章は感銘深く何度読んでもすごく為になります。

わたしの生家

2009-04-10 18:40:03 | プロフィール
 私の生家は、福島県の通称、中通り地方の長閑な農村地帯にあり、はっきり言うと田舎町です。家は、ちょっとした高台というか山の上方にあります。戦国時代に山城が築かれていたみたいで、地名も『館』です。ちっちゃな城があったといわれていて、『二の丸』とか『段の下』という地名が付いている場所があります。元々は、山の一番上の方に屋敷があったみたいですが、少しでも耕作地を増やしたいという昔の人の知恵で、江戸時代には、中腹のあたりに家をつくり替えたようです(ブルドーザーなんかで土地の区画整理をしたときに、江戸時代の生活雑器が地中から出てきたことをおぼろげながら覚えています)。おそらく小さな館(お城)があったみたいで、春山城と呼ばれていたそうです。歴史辞典で一度、自分の家のことが紹介されているのを見たことがあります。おそらく『外敵』が来ても防衛できるように山の頂上に館を造り、北東南は、かなり険しい傾斜地になっていて、西の方は、あきらかに人工的な堀を造った跡がいまでも残っています(鎧返し? 私は幼い頃、大川原家18代目とよく両親と祖母から言われましたね。私の名前は、初代と同じ『有重』と相成ったのです。この名前は、小学生の頃は本当に嫌でしたね。よく同級生から冗談で「アリ死げ!」と地面を這いつくばっている蟻を踏みつぶすような仕草をされましたので。これも無意識のうちにコンプレックスが刷り込まれていく要因かもしれませんね)。でも父親の気持ちを察すると、どうしても文久年間に傾いてしまった大川原家の家運を立て直したい、大川原家再興のために初代の名前をつけたみたいです。家運が傾いた直接の原因は、江戸文久年間に物乞いが来て、食べ物を分け与えたのだそうです。そのときの料理の残り火がもとで、火事になり家が全焼してしまったそうです。そのあとは、広大な田畑の切り売り。もしかしたら、文人趣味かもしれませんが(自分の都合のいいように解釈しています)、あまり働かなかったみたいで、すべて良きに計らえだったようです。きっと小作人もたくさん使って酷使してたんでしょうね。つい最近、判明したことなんですが、父が亡くなる4、5年前に観音寺という真言宗のお寺のお墓の土地が、すべて大川原家の先祖の名義のままなので、お寺のお坊さまから名義を書き換えてほしいと言われ、父は印鑑を押したそうです。何百軒という家のお墓の土地がすべて大川原家の所有地だったなんて、びっくりしちゃいましたね。お墓の土地所有者とかいわれても、困っちゃいますよね。確かに私の家のお墓は、室町時代の五輪の塔が四つほどあり、奉公していた方々のお墓もちょっと離れたところにあります。戒名は先祖代々、院殿居士です。

院御時延元二丁丑歳奥州國司顕家御供士北面大河原源六左衛門尉藤原有重

此間三百年不分

2代 大學

3代 但馬

4代 内蔵之尉

5代 源五郎

6代 三太郎

7代 仁右衛門

8代 仁右衛門

9代 倉之丞

10代 むめ

11代 仁右衛門

12代 三男豊之助平作

13代 三男鉄吾

14代 二男仁助後ニ平吉

15代 喜代多

16代 喜次

17代 正蔵

18代 有重

19代 福寿

以上が大川原家の家系図です。はっきり言ってもの凄い長男の重圧でしたね、この家系図が。
大川原の一族は、みんな大概お人好しで、人を疑うことをしない田舎者です。どちらかというと、騙されやすいタイプかもしれませんね。父は生前、これから紹介する『心の糧七ヶ條』という紙を貼って眺めていたみたいです。

  心の糧七ヶ條

一、 此の世の中で一番楽しく立派なことは生涯を貫く仕事を持つことである
一、 此の世の中で一番さみしいことは自分のする仕事のないことである
一、 此の世の中で一番尊いことは人の為に奉仕して決して恩に着せないことである
一、 此の世の中で一番みにくいことは他人の生活をうらやむことである
一、 此の世の中で一番みじめなことは教養のないことである
一、 此の世の中で一番恥であり悲しいことはうそをつくことである
一、 此の世の中で一番素晴らしいことは常に感謝の念を忘れず報恩の道を歩むことである

副島隆彦 様

2009-04-10 12:13:04 | 政治・経済
 副島隆彦 様

 先日は、宇都宮の講演会でお目にかかれて大変光栄です。一参加者として、現代の政治経済の情勢について、学ぶべき点がたくさんありました。私は、テレビを見ない主義です。副島先生のサイト学問道場と、『植草一秀 知られざる真実』『神州の泉』を中心にして、日々の出来事をチェックさせていただいてます。歴史の大まかな流れをある重要なベクトルから読み解き、或いは隠されている事実(真実)を掘り返す、もしくはねつ造された歴史(虚偽)をあぶり出す、素晴らしい洞察力と慧眼に敬意を表します。この本『歴史に学ぶ知恵 時代を見通す力』(PHP研究所)は、昨年出版された書物のなかではピカイチの名著だと思います。当然のことですが、多くの知人友人に紹介させていただきました。(ある裁判官にもおすすめしました。)私はつくづく思います。『知る』ということの悲しみについてです。ある詩人が「考えるとは、知恵の悲しみを知ることである」と『人生の材料』という題の詩の中で述べています。確か韓国の詩人で、金芝河(キムジハ)という人がいますが約三十年くらい前に「知るとは変えることである」と、どこかの雑誌でコメントしていた様な気がします。世界の出来事、日々起こる様々な事件、また人々の日常生活(喜怒哀楽)、戦争経済を重要な主要産業として国家の舵取りをしようとするボロボロUSAと一緒に抱きつかれ心中されようとする日本の悪徳ペンダゴン(一部の権力者、ブルジョアジーの強欲さ)。金があれば…金が全て…金で何でも出来るという錯覚、思い違いしている一部の暴力装置に守られている階級、その他、etc.
 私もいろいろこの世の不条理、社会的矛盾、階級対立の問題について思うことは多々あります(多少マルクスエンゲルスレーニンローザルクセンブルクetc.の著書をかじりましたので)。私達の身の回りに起こっている事態について、外科医がメスを振るうように冷静に分析し、自分の社会的な役割を自覚したいと日々思っています。まずは自分が幸せになること、自分の周りの人が幸せになれるように祈ること(身の回りに悩みや困っている人がいれば、なんらかの相談に乗ってあげること、人に親切にすること)、またこの世が『地上楽園』に一刻も早くなれるよう祈念するのみですね。でも、私は、世界の悲しみを自分の背中に背負い込む気にはなれません。

 『基本的には、悩みを持ったまま、明るくエネルギッシュに生きる』

 無理をしないで、ペンの力、言葉の力、こころの力を信じてひたすら楽観的な気持ちで自分の信じる道を貫くのみですね。怒ることよりも、いい考え(知恵)を捻出し、あらゆる手段(方法)で、政治家、官僚に粘り強く説得すること、また公開質問状を作成し、彼らに『誠実に返答』してもらう地道な働きかけを行うのもひとつの選択肢ではないでしょうか。その方がストレスも溜まらないのでいいのではないかなと、浅学非才な私はぼんやりと思っています。怒ると疲れますよ(『敵』をつくると闘わなきゃいけなくなってしまうので、行き着くところは、戦争やでっち上げ裁判と、いままでの歴史が教えてくれていますよね。闘いよりは、説得、納得、理解をしてもらう味方というか、仲間作りが大切だと私は率直に思います。『COURRiER Japon 4月号』で、村上春樹氏のエルサレム・スピーチ全文が掲載されていますが、とても参考になります(私もちっぽけな卵です)。

 私の持論を最後に僭越ながら主張させて下さい。人はこの世に泣きながら生まれてきます。大抵の人は祝福されます。人は人間関係の修行をします。人は幸せになるためにこの世に生まれてきたのです。楽しい思い出、様々な経験、喜怒哀楽という感動だけをスーツケースに入れて、あの世に旅立つのです。私は、いままで文章を書いた経験がほとんどありません。自分の思いを上手く表現できず、はっきり申しまして文章も下手ですけど、自分のブログで日々の出来事を綴っていきたいなと思っています。

 これからもお身体くれぐれもご自愛下さい。

 大川原有重 拝

南無の会に参加して

2009-04-08 11:27:06 | 日記
 先日は、南無の会主催による「花まつり法要」に少し遅れたのですが、参加してきました。南無の会会長の松原泰道さんは、満101歳を迎えられた生涯現役の僧侶です。数ヶ月ぶりにお元気な姿を拝見し、うれしく思いました。まるで、生き仏という言葉はこの人のことを指すのではないかと率直に思いました。松原泰道師は、「末期高齢者になりました」と最初にあいさつをされました。朝起きるときも、夜床に入るときも、必ず人様の差し伸べる介添えがなくては、どうしようもない状態なのです、と「生かされて」という講演の中で、矍鑠とした姿勢で、しっかりとした口調でお話をしてくれました。

 「ご先祖の血、みんな集めて子が生まる」
 「また今日も生きさせていただいているんだな」

 お釈迦様は、自分は人間に生まれました。そして、人間に仏を得て、人間は必ず成仏の時が来る。だから、人様のために何か尽していく。前の世にいろんな経験を積んでこの世に人は生まれてくるのです。ひとつの縁を生かしていくことがとても大切だと思う。なぜなら、張り巡らされた網の目のなかのひとつの部分を取ろうとすると、バラバラになってしまう。だからこそ、縁を大切にしなければいけないのです。逆境になって初めて、逆境の人を救うことができるのです。人様のお役に立つことができるのです。逆境でも人様の役に立つことができるのです。どのような境遇にあっても人様のために生きていくのです。だいたい、このような主旨で松原泰道師は、お話しして下さいました。心から感謝します。私は、松原泰道師がとても好きですので、会場の書籍売場で書を2点、いつものように買い求めました。1点は『心 やわらかに耕す』、もう1点は『福寿』という字です。いずれも101歳の書なのですが、正直に申しまして、力強く、光り輝いている字なんですね。心というか、魂のステージが、俗世界にいる私のレベルとは、雲泥の差ですね。

 そのあとに、無着成恭「ボロは着てても心は錦」というテーマで、お話を伺いました。昭和2年(1927年)山形生まれ、同じ東北人として、私はとても親しみやすさを感じます。約2年前にお会いして、無着先生の著書を買い求めさせていただきました。無着先生から「あなたの好きな言葉を書きましょう。」と言われましたので、少し考えてからその本の表紙の見開きに、突然思いついたというか、閃いた自分の好きな言葉である『穏やかな人は穏やかな息をする。美しい人は、美しい息をする』と毛筆で揮毫(きごう)していただいたのが、つい先日のことのように思えました(無着先生のお元気な姿を拝見して、正直、うれしかったですね)。無着先生は、馬力があり、反骨精神に満ちあふれ、大好きな人物です。現在は、大分県の曹洞宗・福泉寺の住職をされながら、国際的なボランティア活動にも積極的に関わっておられる素晴らしい方だと思います。講演の内容もとてもわかりやすくて目からウロコでしたね。秀吉の朝鮮侵略に触れて、耳塚、鼻塚の所在地と、歴史的な諸問題(北の拉致)との関わりについて、会場の聴衆に重要な問題を提起されたことは、我が意を得たり、という感じでしたね。思わず両膝を思いっきり叩きたくなりました。(レーニンの民族植民地問題と民族自決権に対する私の立場ははっきりしてますけどね。)
無着先生にはいずれ、まだ一度も訪れたことのない大分でじっくりお話を伺いたいな、と夢見てます。(無着先生よろしく)

 もう少し南無の会の活動についてご紹介したいのですが、そろそろコンサートの時間が近づいてしまったので,この辺で筆を置きます。これから今夜は『シュロモ・ミンツ ヴァイオリンリサイタル パガニーニ 24のカプリースOP,1 全曲』をコンサートホールまで、聴きに出かけてきます。それじゃまた!

麗人Xさんへ

2009-04-07 14:59:50 | 日記
 先日は不思議な一日でしたね。春山登山の帰り道、東京駅で下車して山手線に乗り換えて、有楽町駅まで行きたいと思ったのに、浜松町まで行ってしまい慌てて新橋までUターン下車しました。途中、偶然通りかかったSオークションの下見会でTさんと雑談し、Tさんの懇切丁寧な解説付きでコンテンポラリーアートの目の保養をしました。下見会を辞して、てくてく銀座の街角をぶらついていると、<麗人>が微笑んでくれたのです。一瞬、誰かな?と思ったのですが、目を凝らしてみるとXさんでした。5分位前に、たまたまTさんからいただいたばかりのアートフェアのチケットをXさんに一枚プレゼントしました。Xさんも私と同様、銀座を散策(お散歩)している途中だったみたいで、きょうは時間があるとのことでした。早速、今月12日に突然閉店するというデルレイカフェで(お別れ会の意味も込めて)シャンパンを一本以上空けちゃいました(デルレイカフェさん、本当にお世話になりました)。それから、国際フォーラムのアートフェアの会場に二人でほろ酔い加減でアート作品を鑑賞しました。曽宮一念さんの作品だけを展示している会場(ブース)が特に印象的でした。熊谷守一の書の展示ブースもまぁまぁかな、と率直に思いました。約一時間、冷やかし半分!の楽しい時間を過ごすことができました。つくづく思いましたね。アートフェアの出展者よりも観客の方が断然気楽でいいですよ!!(おびただしい数のアート作品を無料で見れて、なんら気も使わなくていいし、肉体労働者よろしく身体も酷使しなくていいので極楽でした。私も以前、何度か相当大きなブースを借りたことがあるので主催者の気持ちは手に取るように心に響いてきます。)その後、四丁目の江戸時代から続く和食の店で大人の米ジュースを三合ほど飲み、軽く夕食をいただきました。

 麗人Xさんは、私以上にお酒がお好きみたいでした。それから場所を変えて、約1ヶ月ぶりである遊園地に出向きました。銀座の<人間国宝>と私が勝手に名付けた、しのちゃん?が和服で私たちを歓待してくれました。<ドラえもん(薬科大学卒業)>も出勤していました。まるで夢のような時間(バラ色タイム)が流れていきました。10曲くらい、上手くなりたいという気持ちも込めて歌い続けました(尾崎豊の『アイラブユー』は特に心を込めて歌っちゃいました♪いつもすみません、まわりのお客さま!)それからXさんと夜の銀座をブラブラと歩き出しました(もう一杯だけ赤ワインでも飲もうか?)8丁目の『ヴィヴィ~~』に向かいました。Oママ推薦のオーパスのボトルをいただきました(美味でした。最高ですね、2004は)。人生に乾杯!ラッキー!
 時計の針も12時にあと数分・・・Oママが特別にシャンパンを御用意してくれたみたい(もちろんプレゼント)で、とっておきのシャンパン「ゴッセ」が出てきました(すっかり忘れていました。自分の誕生日を。どこかで記憶が飛んじゃってたみたいで・・・元々、いつ頃からか自分の年齢を気にすることがなくなったんですよね)。総勢5名で私のハッピーバースデイのカウントダウンです(心から感謝します。ありがとうヴィヴィ!)午後の3時過ぎから、麗人Xさんと約11時間(あっという間!)遊びほうけちゃいました(元々、私は毎日、日曜日ですけど)。

 もしもあの日あの時予定通り、有楽町駅で下車していたら、あの日の<夢時間>は決して訪れることもなく、麗人Xさんとの再会もなく、もちろん、当然のことではあるが、アートフェアに行くことも絶対にあり得ず(もともと行きたいとは思わなかったのが本音です)、一滴の酒も飲まず、バースデイパーティカウントダウンもあり得ず、ちょっぴり淋しい一人暮らしで、自室でお茶漬けでも食していたに違いないと思うと、<乗り間違った電車>も結果オーライで、有難いことに<北斗七星カシオペア特別号>に「乗車することを許可してもいいですよ」と、天使がそっと囁いてくれたのかなぁと自分勝手に思い込み、常日頃の心がけは本当に大切だとしみじみ自分に都合のいいように思い込むことにしました。人生というものは、偶然の偶然の必然なんですよね。麗人Xさん、ありがとうネ!

皆様へ

2009-04-07 07:00:00 | お気に入り紹介文
おはようございます。
 すっかり春めいてきましたね。入学式のシーズンになりました。2年前に新聞のコラムで、福島智さんの東京大学入学式の祝辞の一部を偶然目にしました。生きていく上でとても重要な視点を示唆してくれているように思います。約4、50人の知人に祝辞の内容をコピーして配布しましたが、私もブログを開設しましたので、是非皆様にご紹介したいと思い、全文を添付して配信させてください。(念の為、ここ2年間で少なくとも30回くらいは私は読み返しました)


 皆さん、東京大学ご入学おめでとうございます。ひとことお祝いのご挨拶を申し上げます。皆さんは今、将来への希望に胸を膨らませたり、もしかすると既に明確な人生の目標があって、その目標実現のためにこれからの大学生活を送ろうと決意なさっていることと思います。あるいは、かつて私がそうであったように、大学入学時点では、まだ将来への明確な目標があるというわけではなく、しかし、大学で多くの人との出会いや様々な学問に触れることを期待してわくわくしている人もおられると思います。
ところで、皆さんは、将来の目標とか、卒業後の就職の希望といったこととは別に、人生における「夢」を持っておられるでしょうか。私には幼い頃から一つの夢があります。ちょっと口にするのが恥ずかしいのですが、それは「宇宙人に会いたい」という夢です。それが無理なら、せめて宇宙空間に自分が出かけてみたいという夢です。そして、この思いは、皆さんの多くと同世代だった18歳の頃から、更に強くなりました。なぜ、こんな夢を抱いているかと言いますと、宇宙は私の心の中の「第二のふるさと」のようなものだからです。少し私自身の体験をお話しさせていただきます。
 私は1962年生まれで、現在44歳です。私は生まれてから9歳までは、目が見えて、耳が聞こえる、普通の子どもでした。わたしが小学1年生だった1969年7月20日、有名なアポロ11号の月面着陸という人類の歴史に残る出来事がありました。あのときのテレビ中継のインパクト、そして、新聞に掲載されたページいっぱいに広がるような、あの写真の大きさを今も忘れることができません。私はそのときから宇宙に心惹かれていました。宵の明星である金星の輝き、冬の夜空のシリウスやオリオン座の光に、子供心に何か吸い込まれてしまうような、そんな神秘的な感じがしていました。父に天体望遠鏡を買ってもらう約束をしたのは小学校3年生の2学期のことでした。しかし、それからまもなく私は失明してしまい、二度と星の光を見られなくなりました。
 その後は、専ら音の世界に生きていました。目は見えませんでしたが、耳から入る情報もたくさんありますから、宇宙に関するテレビやラジオの番組を聴いたり、録音された本や点字の本なども読みました。木星を初めて間近に撮影したボイジャーの特集番組を、1980年の夏、テレビで聴いたことを思い出します。ところが、その年の暮れ、今度は耳が聞こえなくなり始めて、ほぼ3ヵ月の間に、全く見えない、全く聞こえない全盲ろう者の状態になってしまいました。
 「盲ろう者」といっても、なかなか一般的には通じませんが、あのヘレン・ケラーさんと同じ障害だと言えば、少しおわかりいただけるでしょうか。見えなくて、同時に聞こえないということは、主観的には、自分がこの地上から消えてしまって、まるで地球の夜の側の、真っ暗な宇宙空間に連れて行かれたような感覚に襲われる状態でした。何も見えず、何も聞こえない、いつまでも続く静かな夜の世界。それは言葉で表現できないような孤独と絶望の世界でした。
 私が最もつらかったのは、見えない・聞こえないということそれ自体よりも、周囲の他者とのコミュニケーションができなくなってしまったということです。私から声で話すことはできました。しかし、相手の返事が聞こえず、表情も見えない私には、会話をしようという意欲さえなくなっていきました。コミュニケーションとは、双方向的なものなのだな、とそのとき理屈抜きにつくづく実感しました。もう一つ強く実感したのは、人間には、空気や水や食べ物と同じように、コミュニケーションが生きる上で不可欠なものなのだな、ということでした。私がこうした絶望の状態から抜け出せたのは、母が偶然思いついた「指点字」という会話方法、点字の仕組みを応用して指先でタッチするコミュニケーション手段のおかげでした。それは、指から指に伝えるペンと紙を使わない速記のようなものです。このように、指先で私の指先をタッチしてもらいます。「あ、い、う、え、お・・・」と、このように伝えてもらうわけですね。ここで少しゆっくりと実演してみます。(※ここで、横に立つ通訳者に「あ、い、う、え、お」と伝えてもらい、指点字のデモンストレーションをする。)

 私が絶望の状態から抜け出せたのは、もっと正確に言えば、この指点字という手段そのものではなく、その手段を使って実際に話しかけてくれたり、周囲の人の言葉や周りの様子を伝えてくれたりする「指点字通訳」というサポートをしてくれる人たちが私を助けてくれたからです。私はこの指先で伝えられる言葉の力によって生きるエネルギーを与えられました。
 話は飛びますが、私も10年ほど前から、パソコンと特別なソフト、そして点字のディスプレー装置などを組み合わせて、Eメールをしていますが、私のEメールでのハンドル・ネームは、ETです。これは「エクストラ・テレストリアル(Extraterrestrial)」、つまり地球外生命体、要するに宇宙人の意味の略称ですが、私が盲ろう者になって、指点字を使い始めた1981年の翌年、スピルバーグ監督で有名になった映画のタイトルでもあります。その映画には、自らをE.T.と呼び、地球の花や木に指先で触れることで会話ができる宇宙人が出てくるので、それに引っかけたハンドル・ネームです。つまり私は自分が盲ろう者になって、いったん失った耳で聞くコミュニケーションを、今度は指先のコミュニケーションとして取り戻すことができ、これは宇宙空間のような状態から地球に戻ってきたまるでE.T.のような存在だと自分のことを半分冗談、半分本気で思っている、ということです。
 さて、話を戻しますが、私は高校2年生で盲ろう者となったわけですけれど、そのときは、そもそも高校を卒業できるのかどうかさえわかりませんでした。もともと大学への進学を希望していましたが、目が見えないだけでなく、耳も聞こえなくなったので、はたして大学進学などできるのかどうか、また進学はできてもその後、大学での生活が送っていけるのかどうか、更に言えば、もし大学を卒業したとしても、その後、仕事があるのかどうか、などなどと将来のことを考えていると、不安なことばかりでした。
そんなとき、私の高校時代の担任の先生は次のようにおっしゃいました。「先のことをいろいろ考えたって誰にもわからないよ。日本の盲ろう者で大学に進学した人はこれまでいないそうだけれど、前例がないなら君がチャレンジして前例になればいいじゃないか。君が大学進学を希望するなら応援するよ。うまくいかなければ、そのときまた考えればいいさ」と。そして、指点字の通訳者を育てたり派遣したりして、私の大学進学や入学後の生活を支えてくださいました。
 こうして、私は1983年に東京都立大学に入学することができ、教育学を専攻しました。その後、大学院に進み、研究者への道を歩み、都立大学助手、金沢大学助教授を経て、2001年からは東京大学先端科学技術研究センターでバリアフリー分野の助教授として学生の教育と同時に、広い意味でのバリアフリー論や障害学の研究などに取り組んでいます。また、東京大学全体の物的・人的双方のバリアフリー化を推進する「バリアフリー支援室」の活動にも参画しています。
 その一方で、私が大学に進学したことがきっかけとなって、日本でも盲ろう者について徐々に社会的に知られるようになり、私自身も、私と同じような障害を持つ盲ろう者のための福祉活動に取り組んで、現在、全国盲ろう者協会理事、世界盲ろう者連盟のアジア地域代表などを務めています。
 なお、世界で最も有名な盲ろう者であるヘレン・ケラーは、今から約一世紀前、世界で初めて盲ろう者として大学に進学した人でもあります。彼女の言葉に次のようなものがあります。「人生は恐れを知らぬ冒険か、それとも無かのどちらかである」と。日本はややもすると前例を重視する文化が支配的ですが、前例がなければ自分が前例になる。先のことがわからなくても思いきってチャレンジする。こうした冒険心が人生には必要でしょうし、そうでないとおもしろくないと思います。

 さて、話はアポロ計画に戻りますが、アメリカのアポロ計画、あるいは、人類の月面到達を最初に公にしたのは有名な35代大統領、ジョン・F.ケネディです。彼は1961年の時点で、「60年代中に月面への人類到達を実現したい」と議会で演説しました。これほどスケールの大きな夢の表明は、歴史上、あまり例のないことだろうと思います。そして、アポロ計画やアメリカという国そのものには、様々な問題や課題もあるでしょうが、このケネディの宣言を本当に実現してしまうということは、やはりアメリカという国の底力、そして人間の可能性のすごさを私は感じます。
 ところで、私は3年前、2004年の11月に、ワシントンで開かれたある国際シンポジウムで講演をしたのですが、その折、偶然、このジョン・F.ケネディの実の妹であるユーニス・ケネディ・シュライバーさんというとても元気のよい高齢の女性とお会いして、短い時間でしたが、面談する機会がありました。私は二つの意味で、とてもエキサイトしました。一つは、ユーニスがあのケネディの妹であること、そしてもう一つは、ユーニスが、知的発達障害の人たちのオリンピックである「スペシャルオリンピックス」を始めた人だからです。一般にはあまり知られていませんが、ジョン・F.ケネディの妹で、ユーニスのお姉さんにあたるローズマリー・ケネディという女性がいて、その女性は知的発達障害を持っていました。ユーニスが1962年に自宅の庭を開放して知的障害の人や関係者のためのデイキャンプを開いたのが、現在のスペシャルオリンピックスの始まりだと言われています。これはケネディがダラスで暗殺される前の年に当たります。
 ここで、スペシャルオリンピックスについて詳しく述べることはできませんが、簡単に申し上げれば、それは通常のオリンピックとは異なり、競争相手を打ち負かして、金メダルを取ることが真の目標ではないということです。それは多くの人の助けを借りながら、お互いの勇気を示し合う、そして競技が終わればみんなが表彰台に上り祝福し合うようなそんな素敵なオリンピックスだということです。一昨年、2005年の2月に、長野県でスペシャルオリンピックスが開催されましたので、テレビなどでご覧になった方もおられるでしょう。なお、このスペシャルオリンピックスが複数形なのは、日常的なトレーニングから世界大会に至るまで、いつでも、世界中のどこかで、この活動が行われているからです。そして、スペシャルオリンピックスの活動が目指す社会とは、一人ひとりの個人が自然に、あるがままに受け入れられ、認められるような社会だと言われています。
 私はユーニスとお会いしたとき、ジョン・F.ケネディが内面に秘めていたエネルギーの源の一部を垣間見た気がしました。ご承知のように彼は、一方で、ニュー・フロンティア政策や月面への宇宙探検など、アグレッシブで、アクティブな姿勢を重視しているわけですが、それはただ単に「強い者だけが勝ち残る社会、競争に勝った者だけが報われる社会」を目指していたのではなかったのではないか、と私は思いました。彼が真に価値を置いていたのは、すべての人間が、それぞれが抱える様々な条件と向き合いながら、自分と社会をより良く変革していくための努力とチャレンジをすること、言い換えれば、ニュー・フロンティアはどこか外部にあるのではなく、自分自身の中にあることを自覚することを訴えたかったのではないかと、私は感じました。

 私は盲ろう者になって、その体験から二つのことを学んだように思います。一つは、人間は一人ぼっちでは生きていけないということです。他者とのかかわり、他者とのコミュニケーションがなければ、どのように知識や情報があっても、あるいは、すばらしいご馳走を食べていても、生きる上での魂のエネルギーは湧いてこないということです。そしてもう一つは、どのような困難な状況にあっても、可能性がゼロになるということはない、チャレンジし、現状を変革していく可能性は必ずある、ということです。
 皆さんは、これまで大変な困難を乗り越え、チャレンジし、そして東京大学に入学なさいました。これはすばらしいことです。これからも、学生時代や大学を卒業して社会に出てからも、様々な種類の困難やチャレンジを経験なさると思います。最後に、困難に挑戦するということについて私が考えることを申し上げます。
 私は「挑戦」とは、一人だけでがんばって一人だけで成果を得ることではなく、常に有形・無形の他者の手助けと共にあるものだと思います。
 挑戦とは、単に無謀な危険を冒すことではなく、地道な努力と準備があって、成功するものです。
 挑戦とは、相手を打ち負かして競争に勝つことを意味するのではなく、その本質は、自分自身に挑戦することです。
 挑戦とは、他者の立場を想像する力と、他者と協力しながら新しいものを生み出していく営みです。
 挑戦とは、ときに孤独なものですが、一人だけで生きている人間は世界中どこにも存在しません。周囲の人とのつながり、他者とのコミュニケーションを常に重視すべきです。
 そして、挑戦とは、常識的な意味での社会的な名誉やステータスを得ることだけがその目標なのではなく、自らがしっかりと生きていくこと、そして自分と他者が共に生きていくことを支えていく営み自体の中に、本当に困難な部分があり、その営みこそが最も重要な挑戦なのだと思います。

 私は先ほど、「宇宙人に会うのが夢だ」と申し上げました。その夢は今も変わりませんが、実は既にその夢の一部は実現しています。なぜなら私たち全員は地球上にあって、太陽の周りを回りながら、そして天の川銀河の回転に乗りながら、大宇宙を共に旅する存在であり、まさに宇宙に共に生きている「宇宙人」同士だからです。
 とはいえ、皆さんと、たとえば盲ろう者の私との間には、様々な相違点があり、大きな距離が開いているかもしれません。見えない聞こえない私には、直接皆さんを把握することはできないからです。しかし、考えてみれば、人は皆、直接、他者の本質を把握することはできません。できるのは、互いの魂にそっと触れ合うことだけです。そうであればなおのこと、互いに触れ合うことを大切にしていきましょう。共に宇宙を旅する仲間として、これからも一緒に歩んでいきましょう。そして、東京大学というフィールドを拠点にして、新しい冒険とチャレンジの歴史を築いていきましょう。
 本日はおめでとうございました。

Y様

2009-04-06 11:22:05 | 日記
 こんにちは、大川原有重です。
 「石月」での楽しい時間、本当に嬉しく感謝しています。(丸ビルと新丸ビル間違えたこと深くお詫び申し上げます。)今度再会できた曉には会津八一氏の短歌集『自註鹿鳴集』を差し上げますね。奈良の都を中心に素晴らしい歌を詠みあげた昭和を代表する歌人です。孤高の生き方が素晴らしくて、何よりも『純潔そのもの』を地でいった人なのです。私が最も尊敬し、敬愛する歌人です。(書も卓越していて魅力があります。)私は自分のその日その時の気分(体調)で『美』という網膜を刺激することに異常なセンサーが反応しちゃう性格で、いろんなことに興味を持っちゃう性格みたいなんですよ。自分の「頭」に失礼なので脳細胞を活性化しようといつも意識を全開というか、知りたいという気力(知的好奇心)をたえず持ち続けようと思っているんです。
『一期一会』の精神を常に忘れず人との出会いを大切にして、お互いにインテリジェンス能力を磨きあげ、心や魂の純度を素敵なレベルに高めあげたいですよね。
 そういえば、2月のある日、ぼんやりと東京駅のホームにたたずんでいたのですが、いつものように行き先も決めずに上越新幹線、新潟行きの車両に乗り込みました。「そうだ、新潟にでも行こうか!」越後湯沢を過ぎて、浦佐駅を通過する辺りの雪景色の美しさは言葉になりませんね。すごく綺麗なんですね。久しぶりの新潟駅。いつものように会津八一記念館を尋ねました。2年ぶりかな?『はじめての会津八一』という企画常設展を開催していました。
「あめつちに われひとりいて たつごとき このさみしさを きみはほほえむ」(『南京新唱』)
妙に印象深く心にしみました。(暗記しよっと)
 私の大好きな學規の扁額が展示されていました。
一、ふかくこの生を愛すべし
一、かへりみて己を知るべし
一、學藝を以て性を養ふべし
一、日々新面目あるべし              秋艸堂主人   (会津八一)

 いつも一時も忘れずに私は心の片隅に刻んでいる『學規』、会津八一は偉大です。孤高の生涯に改めて思いを馳せますね。(Y様、今度会津八一記念館にご一緒しませんか?)
 その後、新潟港に向かい、新潟市歴史博物館を尋ね,新潟地方の古代から明治期までの人々の営み、集落の成り立ち、河川と舟運その他『歴史の流れ』を見せていただいたあとに、旧第四銀行の建物(天井がもの凄く高く、開放感あふれる瀟洒なレストランでランチをいただき、新潟駅に戻りました。急に日本海の雪景色と荒れ狂う鉛色の海を見たくなり、北陸本線金沢行きの特急列車に飛び乗りました。(笑)金沢には今年になって、4、5日(2回ほど)滞在しました。(金沢の『奇人』Tさんのことは改めて紹介させてくださいね。)私の『旅行?』はいつも行き当たりばったり目的地はありません。
 Y様、ずんだプリンありがとう。感謝の気持ちでいただきますね。
                                                  大川原有重拝

PS
今夜は「花まつり法要」松原泰道さん(1908年生まれ 101歳)と無着成恭(1927年生まれ 82歳)さん両名の住職さんのお話を拝聴してきます。9時過ぎには終わります。

※「とりあえず」を「ぼんやりと」に変更

皆様へ その2

2009-04-04 10:47:57 | 日記
 『聴く鏡』という書物をベイシーで買い求め帰りの新幹線の中で読み進めたのですが、菅原さんの人柄、生きる姿勢、音に対する冷静且つ超人的な音源追求、交友関係の幅広さ、その他、たくさん学ぶことがあります。人生の智恵について特に刮目!に値します。いい本ですね。
『物事を「明るい」「暗い」の二通りに区分して済ます風潮はやはりどうもはなはだ浅く、よろしくないように思う。加えて今流行りのやみくもなプラス思考というのも考えものだ。ときには絶望してみてはどうかと提案したい。』
『レコードの溝にはその時の「今」の空気振動が瞬間冷凍されたようにそのまま封じ込まれていたとしか思えない。』
『一般的にモノにこだわらない人が、真剣にこだわっている人をキチガイ、変人呼ばわりするのは理不尽という以前に単に認識不足であると思う。』
『やっとこ飛ぶのに、一体何人の”飛ぶ夢”にこだわった男達が死んでいったか、、、、。』etc.
これ以上はもう引用紹介しません。もったいないので(笑)

 そうそう、春になると『さくら大観』佐野藤右衛門さんの名著を必ず書架から引っ張りだしますね。今年は小野の観音桜でも尋ねてみようかな。いつの日か、知人のN先生にお願いして奈良東大寺の『補陀落山曼荼羅図』を見せてもらいたいな。
『一本一本の桜はみな心があって花をひらくのです。』
『さくら大観』この本はもう一冊ほしいなぁ。
 
 田中森一先生の『反転』は何度読み返しても共感というか共鳴する箇所が多いのは私の宿業のなせる技?ねつ造された訴訟には学ぶべき点が多々ありますね。田中先生、檻の中から出てきたら一杯お酒でも飲みませんか。よろしくお願いします。

 中森じゅあんの『天使のメッセージ』はちょっとした僅かな時間の合間にペラペラとページをめくっています。宝石のような箴言の数々、また近いうちにじゅあん先生に会いたいな。

 鈴木正人さんの労作である『能楽史年表』もなるべく手に触れるようにしています。人間の無常という心、そんな想像力をかき立ててくれるんですよね。

 だいたいこんな感じで私の毎日はあっという間に過ぎていくんです。
 昨日は大切かつ尊敬する人生の大先輩から小林秀雄さんの自筆の書、『美を生活の友とする』をお借りしました。素晴らしく悪筆というか、稚拙な字なんですけど小林秀雄さんの人柄がほのぼのとイメージできる書なんです。Sさん、本当に心から感謝してます。しばらく拝借しますね。
もうそろそろすっかり春めいてきたのでベランダで春野菜の栽培でもはじめようかな。都会でも野菜作りが出来るという方法を皆様に近日中に公開しますね。
                                                    続く、、


皆様へ

2009-04-03 18:45:34 | 日記
 静かな夜です。月明かりがとてもきれいです。夜空の星も美しく見えます(光害による錯覚?)。幸せな時間をひとりぼっちで過ごしています(人生に感謝、そして乾杯!)。今夜の夕食はクラッカー5枚と玉子酒です(もちろん勝山酒造)。

 今日は朝3時半に目が覚めてしまったので、シャルル・ミュンシュ著『指揮者という仕事』(春秋社)という本を読み始めました。1時間くらいページをめくっていました。頭がボーっとしていたので、いまいち飲み込みが悪く、布団の中で一番ラクな姿勢をとろうと体をいろいろ動かしながら読書しました(笑)。実を言うと今現在、10冊前後の書物を同時並行で読み進めているのですが、入学金も授業料も一切負担のない『大川原大学』で、もちろん先生もいないわけですが、ちょっとずつ学問をしているようなフリをしています(えへん)。

 木村泰司著『名画の言い分』(集英社)は、以前に一度読み終えていたのですが、著者の冴え渡るインテリジェンスには脱帽しちゃいます(木村先生の弟子として末席に座りたいなと勝手に決め込んでいます)。尊敬の念も込めて3冊買い込みました。
 副島隆彦氏と佐藤優氏の対談本で『暴走する国家 恐慌化する世界』(日本文芸社)は2、3度読みましたが、佐藤優は紛れもなく私の出身大学の後輩です。30年近く前の大学での記憶が、だんだん蘇ってきました。佐藤君は私と同じ教室で聖書の授業を受講していたと思うのです。確か私の斜め前で、教授に質問というよりは早口で盾突いていました(間違いなくアイツだ!)。もちろん副島隆彦さんは、私が注目している予言者ですので、ブログも毎日チェックしていますけどね。
 林望さんの「風姿花伝」をわかりやすく解説してくれている書物もあと10回は読み返したいですね(生まれてはじめての落丁している本でした。思いっきり線を引き、書き込みをしたのですが、近日中に出版社に新品と取り替えてもらおうと思っています)。
 中村天風著『成功の実現』(カバーが革製の本)は、昨年から3度ほどじっくり読み込んでいますが、あと最低97回は読みますよ(昨年の10月、ある裁判官に「大川原さんの推薦する本を何冊か教えてほしい」と言われたので、中村天風氏の『成功の実現』と副島隆彦氏の『歴史を見通す力』この2冊を薦めたのですけど・・・あの裁判官、読んだかな?)。毎朝のお風呂の中では、京都のKさんからいただいた『まんがで楽しむ能の名曲七〇番』という本を10分くらいですけど、ページをめくっています(Kさん、ためになっていますよ)。

 先月お彼岸の頃、とりあえず東京駅のホームから盛岡行きの新幹線に飛び乗りました。行き先は別にどこでも良かったのですが、車窓からの那須の残雪を見ながら、あれこれ、これからの我が身の行く末(人生)について考えていました。仙台駅を過ぎて、花巻で降りるか、終点の盛岡まで行くかちょっと迷ったんですが、一関で下車しました。本当は、かまど面でも探しに行こうかなと思ったのですが(かまど面は約20年間気になっていて、7、8個持っています)、急に『ジャズ喫茶ベイシー』に行ってみようと思い立ちました。十数年前から、この喫茶店は一度のぞいてみたいと思っていたので、てくてく一関の街中を散策しながら15分くらい歩いて、お店の看板を見つけました。その日は土曜の午後でした。ドアを開けようと思ったら、玄関に「本日貸切」の白い紙(美しく見えました)、思わず、エーーっというマイナス思考・・・(だめだめ)。コートを着込んだひとりの男の人が私をじぃっと、頭のてっぺんから足元まで一瞥して一言、
 「今日は都合で休みです。でもコーヒーだけなら飲めますよ。JRの企画で貸切なので店の中はライヴの準備でごった返しているけどよかったらどうぞ」
 私は、自分の都合で遥々、新幹線で一関まで来たのですから、内心プラス思考で“ラッキー!ついてるな”と思い込みました。コーヒーを一杯いただいて、マスターの著書『聴く鏡』(ステレオ・サウンド社)にサインと日付を入れていただいて、それをお土産に帰京しました。マスター菅原正二さんの音に対するこだわりは、音楽関係者の中でも私の知る限り世界最高峰の音(サウンド)を極限まで追求する求道者(禅僧)だと思います。

つづく・・・

Iさんへ

2009-04-01 18:05:52 | 日記
Iさんへ

先日は大変ご多忙中にもかかわらず、私(たち)を歓待してくださり、心から深く感謝申し上げます。
 先日拝見した、「ひたすらに座禅し雲水し、そうして熟慮内省を重ねる』一休禅師の一行書は(私自身は)初見の品(しなもの)ですが、筆鋒鋭く素晴らしく勢いがあり、久しぶりにすっかり気分が良くなってしまい(舞い上がってしまい)思わずうなってしまいました。(正直に申しますと欲しくなってしまいました。でも買えないでしょうね、私の財力じゃ(笑))表装も素晴らしかった。
 3年くらい前、白金のある個人宅で一休禅師遺墨集に所載されている横物を拝見したことがありますが、今回、Iさんにほんの一瞬だけ見せて頂いた一休のお軸の方が数段勝っていました。(Iさん、本音ですよ。あるところにはあるんですよね!)さりげなく部屋の片隅に飾ってあった杉本健吉の観音様の水彩も素敵でした。背景に描かれたお花が(何という名前のお花か分かりませんが)凄く可愛いですね。というよりこの作品も(一休同様)どうしても欲しくなってしまいました。(あいすみません。欲が深くて、、、惚れ惚れしました、『百』ならほしい「四号水彩画」、多分最高値ですよ、と思わず口に出しそうになってしまいました。)杉本健吉の絵画作品はたいがい(失礼な言い方かもしれませんが)当たりはずれがなく総じて出来がいいと思うのですが、Iさん所蔵の美術コレクションは全て一級品というより極上品ですね。(大切に代々受け継がれていくことと推察します。)熊谷守一の書や、司馬遼太郎の書も逸品ぞろいでしたね。それにしても数多くの名品群に囲まれて、というよりもうずまって生活されている印象をうけました。(凄いの一言です。)
 
 また近々、美術談義に花を咲かせたいです。というより、いろいろご教示くださいね。今度お邪魔する際は宮城の隠れた銘酒『勝山酒造』のお酒を手みやげに持参しますね。一杯やりましょうよ。(おつまみなしでもいける酒です。久しぶりに出会った最高ランクのお酒です。)
お体くれぐれも御慈愛下さいね。本当に有難うございました。

大川原有重拝

※所蔵から所載に訂正しました