とあるスナックで
小林
ママ
小林
それではまたまた続きを読んでいきましょう。過去のバブルのことが書かれていますよ。 P-167
2 歴史上の様々なバブル
チューリップバブル
人類はこれまで幾度もバブルを経験してきた。私たちも、日本の平成バブルやアメリカのITバブル、最も最近ではサブプライムローンによるバブルを経験しています。大衆の投機によって、ある商品の価格が高騰・暴落する例は、非常に古くから見られます。
フランスでは、9つもの教会が「キリストの包皮」といわれる得体の知れない代物を手に入れるために競って大金を注ぎ込んだといわれています。また、ユニコーンと呼ばれ伝説の聖なる動物と言われたイッカクの角は、それで作った杯が毒を中和すると信じられていたため、毒殺を恐れる各国の王室がそれに巨額を投じたともいわれています。
まず、今日まで完全に記録が残されている最古の事例を見てみましょう。これは、いまから400年近く前、オランダで実際にあった話です。それは、光り輝く黄金でも不動産でも株式でもない、どこにでも転がっていそうな植物の球根の話です。それはチューリップの球根です。お金のためならば、球根というものに熱狂してしまうのが私たち人間なのです。
チューリップは、地中海の東部以東に原生するユリ科の植物で、その亜種は約160にものぼります。その語源はトルコ語でターバンを意味する「テリュバン」からきているようです。それが、西洋に初めて輸入されたのは16世紀のこと。16世紀半ばにトルコを訪れた旅行者が、チューリップの美しさに惹かれウィーンへ持ち帰ったところ、たちまち評判となり、2,3年のうちにドイツ、ベルギー、オランダへ伝わりました。トルコからオランダに初めて輸入されたのは1554年です。
1593年にフランスのクルシウスがライデン大学でチューリップの美しい花の栽培に成功して以来、その異国情緒あふれる美しい花は高い評価を受け、チューリップ栽培が王室や華族の間で名誉なこととされるようになったのです。
チューリップ栽培では、ごくまれに突然変異によって新種を生み出すことがあります。栽培家は、珍種という幸運がいつやってくるかを期待して栽培園を歩き回っていました。というのも、珍種の花がいままでにない美しいものであれば、その球根を増やし、高値で売りさばくことができるからなのです。特に美しいチューリップの花がことさらに珍重されたため、希少な品種の球根が、投機の対象となっていきました。
なぜチューリップが?
チューリップは、17世紀の初頭にまずフランスで、ついでオランダで大流行しました。アムステルダムではすでに株式市場が開設されていましたが、そこにこの球根も上場されたのです。ロッテルダムやライデン、その他の都市にもチューリップの球根のための常設市場ができました。
チューリップの取引は球根の売買という形態で主として冬に行われていました。一般的には、取引を行いたいものが球根に花の標本を付けて、業者仲間の出入りする宿屋や酒場に持ち込みます。たとえば、そこで、以前に500ギルダーで買った「トロンプ将軍」という品種の球根に差額として現金200ギルダーを加え、「ボル将軍」という品種の球根と交換したりするわけです。
取引所のないちいさな町では、大きな居酒屋に何百人もの人々が集まって取引しました。食卓やサイドボードの上など、あちこちに飾られた色とりどりの満開のチューリップが雰囲気を盛り上げたため、それはさながら大晩餐会のようでした。
また、何か月も先の翌春に現物を引き渡す先物取引も導入されていました。ほとんどの人々は現物を将来引き取るためではなく、それを期限までに転売して利ザヤを稼ぐことだけを考えていたため、投機性は強まっていきました。当時のオランダでは、このような売買行為は「ヴィトハンデル」と呼ばれていました。これは、空気取引、今日でいう「空商い」のことです。
こうしたチューリップ取引には、最初から問題が絶えませんでした。売買契約の履行を保証する会員業者制度はありませんでしたし、先物取引の現物受け渡しのときの球根がはたして契約通りの品種であるのかどうかは、花が咲くまでわからなかったからです。こうした事態に対処するために、新たな法律が制定され、チューリップ関係専門の公証人制度が設立され、また、取引が許される地域も指定されました。バブルが膨らむにつれ、制度のほうもそれなりに整備されていきました。
加熱するチューリップ狂
ドイツでは30年戦争が続いていた1630年代の半ばになると、貴族だけでなく、市民、農民、職人、水夫、従僕、召使、さらに煙突掃除人や古着屋のおばさんといった一般大衆までもが市場に参加するようになり、投機熱は一気に高まりました。・・・・(続く)
2 歴史上の様々なバブル
チューリップバブル
人類はこれまで幾度もバブルを経験してきた。私たちも、日本の平成バブルやアメリカのITバブル、最も最近ではサブプライムローンによるバブルを経験しています。大衆の投機によって、ある商品の価格が高騰・暴落する例は、非常に古くから見られます。
フランスでは、9つもの教会が「キリストの包皮」といわれる得体の知れない代物を手に入れるために競って大金を注ぎ込んだといわれています。また、ユニコーンと呼ばれ伝説の聖なる動物と言われたイッカクの角は、それで作った杯が毒を中和すると信じられていたため、毒殺を恐れる各国の王室がそれに巨額を投じたともいわれています。
まず、今日まで完全に記録が残されている最古の事例を見てみましょう。これは、いまから400年近く前、オランダで実際にあった話です。それは、光り輝く黄金でも不動産でも株式でもない、どこにでも転がっていそうな植物の球根の話です。それはチューリップの球根です。お金のためならば、球根というものに熱狂してしまうのが私たち人間なのです。
チューリップは、地中海の東部以東に原生するユリ科の植物で、その亜種は約160にものぼります。その語源はトルコ語でターバンを意味する「テリュバン」からきているようです。それが、西洋に初めて輸入されたのは16世紀のこと。16世紀半ばにトルコを訪れた旅行者が、チューリップの美しさに惹かれウィーンへ持ち帰ったところ、たちまち評判となり、2,3年のうちにドイツ、ベルギー、オランダへ伝わりました。トルコからオランダに初めて輸入されたのは1554年です。
1593年にフランスのクルシウスがライデン大学でチューリップの美しい花の栽培に成功して以来、その異国情緒あふれる美しい花は高い評価を受け、チューリップ栽培が王室や華族の間で名誉なこととされるようになったのです。
チューリップ栽培では、ごくまれに突然変異によって新種を生み出すことがあります。栽培家は、珍種という幸運がいつやってくるかを期待して栽培園を歩き回っていました。というのも、珍種の花がいままでにない美しいものであれば、その球根を増やし、高値で売りさばくことができるからなのです。特に美しいチューリップの花がことさらに珍重されたため、希少な品種の球根が、投機の対象となっていきました。
なぜチューリップが?
チューリップは、17世紀の初頭にまずフランスで、ついでオランダで大流行しました。アムステルダムではすでに株式市場が開設されていましたが、そこにこの球根も上場されたのです。ロッテルダムやライデン、その他の都市にもチューリップの球根のための常設市場ができました。
チューリップの取引は球根の売買という形態で主として冬に行われていました。一般的には、取引を行いたいものが球根に花の標本を付けて、業者仲間の出入りする宿屋や酒場に持ち込みます。たとえば、そこで、以前に500ギルダーで買った「トロンプ将軍」という品種の球根に差額として現金200ギルダーを加え、「ボル将軍」という品種の球根と交換したりするわけです。
取引所のないちいさな町では、大きな居酒屋に何百人もの人々が集まって取引しました。食卓やサイドボードの上など、あちこちに飾られた色とりどりの満開のチューリップが雰囲気を盛り上げたため、それはさながら大晩餐会のようでした。
また、何か月も先の翌春に現物を引き渡す先物取引も導入されていました。ほとんどの人々は現物を将来引き取るためではなく、それを期限までに転売して利ザヤを稼ぐことだけを考えていたため、投機性は強まっていきました。当時のオランダでは、このような売買行為は「ヴィトハンデル」と呼ばれていました。これは、空気取引、今日でいう「空商い」のことです。
こうしたチューリップ取引には、最初から問題が絶えませんでした。売買契約の履行を保証する会員業者制度はありませんでしたし、先物取引の現物受け渡しのときの球根がはたして契約通りの品種であるのかどうかは、花が咲くまでわからなかったからです。こうした事態に対処するために、新たな法律が制定され、チューリップ関係専門の公証人制度が設立され、また、取引が許される地域も指定されました。バブルが膨らむにつれ、制度のほうもそれなりに整備されていきました。
加熱するチューリップ狂
ドイツでは30年戦争が続いていた1630年代の半ばになると、貴族だけでなく、市民、農民、職人、水夫、従僕、召使、さらに煙突掃除人や古着屋のおばさんといった一般大衆までもが市場に参加するようになり、投機熱は一気に高まりました。・・・・(続く)
ママ
なんか今も昔も、バブルの時は同じなのね。