とあるスナックで
小林
コー
小林
小林
いやー、リチャード・A・ヴェルナーは怒っていますね。株式や土地の<資産バブル>を作ったのは、日銀だと。銀行から貸し出されたお金で株や土地を買い続けていけば、<資産バブル>が起こり、そして当然<崩壊>することを。単に間違った政策を当時していたんではなく、意識的に<崩壊>させたんだと。はじめからわかっていたんだと。
そして、その後政府が、大蔵省が景気を上げようといろいろ政策をやっても、それに協力しないで、逆に足を引っ張って<信用創造を増やさないで>景気を悪くさせたと。
そして、その後政府が、大蔵省が景気を上げようといろいろ政策をやっても、それに協力しないで、逆に足を引っ張って<信用創造を増やさないで>景気を悪くさせたと。
コー
そうなんだ。彼は本当に怒ってるんだな。当時の法律(日本銀行は政府に協力しなければならないという)を考えてみれば、日銀の責任者を捕まえて<裁判>にかけるべきだとまで言っているんだな。日本経済が崩壊して不況になり、どれだけ多くの人たちが職を失い、家族だけには従業員だけには、借金を負わせまいとして、保険金のために自殺していったか、100人や200人じゃないだろうと。そして日本からどれだけ資本が失われたかだ。
日銀が意図しなければ起こらなくてよかった、<資産バブル>と<崩壊>、そしてそこからくる<信用収縮>による<大不況>。
30年近くの間に一体いくつの日本の会社が潰れていったんだ。
そして日経平均株価が7,8千円台のころにどれだけ日本の優良な企業の株が、外国資本に買われたんだ。これこそ典型的な<羊毛刈り>だ。
<信用創造>を増やさなくていいときに、増やして、<信用創造>を増やさなければならないときに、減らして。
P-207
日銀職員と銀行関係者のインタビューからすぐにわかるのは、日銀は貸出増額計画を銀行に押し付けただけではないということだ。それどころか、信用の増額を自在に決定し、実行したのである。日銀は80年代以前の時期や、さらには戦時中とまったく同じ総量統制をおこなっていた。窓口指導は依然として中央銀行の主要な政策手段だった。金利はせいぜいで「補完的」手段でしかなかった。日銀は貸出の増額割り当てを上回ったり下回ったりした銀行を罰した。銀行は激しいランキング競争を展開しているから、たとえ罰されることがなくても、割当額を残すどころか使い切るのに必死になることも充分に承知していた。1982年までの質的窓口指導も続いていた。したがって日本銀行は、不動産融資や建設業、ノンバンク金融機関への貸出が増大していること、つまり信用創造が投機的目的に使われていることをよく知っていたのである。
密かな窓口指導のメカニズムのおかげで、日銀は経済をヨーヨーのようにあやつることができた。成長を促進しようと思えば、貸出の伸びを増やせばいい。成長をおさえようというときには、減らす。こうした完璧なコントロールは、日銀ほど強力に経済を支配していないように思われる他の中央銀行への軽蔑を生むことにもなった。たとえば1980年代はじめ、連邦準備制度理事会は通貨目標の達成に四苦八苦しているように見えたが、結局あきらめてしまった。通貨の価格(金利)と量を同時にコントロールすることは不可能だと感じたからだ。金利を重視する主流派の理論にしたがって、量的変数のほうは捨てたものと思われる。そのころ、日本銀行はFRBの問題に対して軽蔑的なコメントをしたと伝えられる。
FRBと違って、日銀は容易に貨幣の量と価格をコントロールできていた。金利を設定し、同時に窓口指導によって新たな購買力の創造をコントロールしており、これによってM2+CDのようなマネーサプライの預金量が決まっていたのである。
P-201
裁判では、判事は目撃証人の証言を大切にする。窓口指導というねんいりなプロセスには多くの日銀営業局の職員と、さらに多くの「日銀担」の銀行員が関与しているから、1980年代の窓口指導の実行状況と役割という重要な問題については、尋ねるべき証人が相当数、いるはずだ。しかし、バブルに起因する不況がすでに長期化し、銀行には公的資金が注入されているから、いまとなっては、この問題が微妙な政治的意味をはらむことは明らかである。銀行も規制当局も、厳しい批判を浴びてきた。大蔵省と銀行(MOF担)との癒着がいくつか、明るみに出た。「日銀担」は話題になっていないが、銀行側としてはその役割を公然と語りたくないのは当然だろう。しかも、日銀職員の多くは、正直に話せば上司を巻き添えにしかねないことに気づいているはずだ。
そこで、著者がすでに1992年に、80年代の窓口指導の実施状況を調べるために一連のインタビューを実施していたことは幸運だった。窓口指導に携わった日銀職員12人のインタビューがテープとメモに残っている。さらに、業態が異なる三種の民間銀行において、貸出について日銀と話し合うことが仕事だった「日銀担」6人のインタビューも、記録に残っている。1992年には、インタビューした日銀職員も銀行側担当者もまだ、窓口指導の役割がこれほど微妙な政治性を帯びるとは気づいていなかったようだ。それで、非常に率直かつオープンに答えてくれた。
日銀が意図しなければ起こらなくてよかった、<資産バブル>と<崩壊>、そしてそこからくる<信用収縮>による<大不況>。
30年近くの間に一体いくつの日本の会社が潰れていったんだ。
そして日経平均株価が7,8千円台のころにどれだけ日本の優良な企業の株が、外国資本に買われたんだ。これこそ典型的な<羊毛刈り>だ。
<信用創造>を増やさなくていいときに、増やして、<信用創造>を増やさなければならないときに、減らして。
P-207
日銀職員と銀行関係者のインタビューからすぐにわかるのは、日銀は貸出増額計画を銀行に押し付けただけではないということだ。それどころか、信用の増額を自在に決定し、実行したのである。日銀は80年代以前の時期や、さらには戦時中とまったく同じ総量統制をおこなっていた。窓口指導は依然として中央銀行の主要な政策手段だった。金利はせいぜいで「補完的」手段でしかなかった。日銀は貸出の増額割り当てを上回ったり下回ったりした銀行を罰した。銀行は激しいランキング競争を展開しているから、たとえ罰されることがなくても、割当額を残すどころか使い切るのに必死になることも充分に承知していた。1982年までの質的窓口指導も続いていた。したがって日本銀行は、不動産融資や建設業、ノンバンク金融機関への貸出が増大していること、つまり信用創造が投機的目的に使われていることをよく知っていたのである。
密かな窓口指導のメカニズムのおかげで、日銀は経済をヨーヨーのようにあやつることができた。成長を促進しようと思えば、貸出の伸びを増やせばいい。成長をおさえようというときには、減らす。こうした完璧なコントロールは、日銀ほど強力に経済を支配していないように思われる他の中央銀行への軽蔑を生むことにもなった。たとえば1980年代はじめ、連邦準備制度理事会は通貨目標の達成に四苦八苦しているように見えたが、結局あきらめてしまった。通貨の価格(金利)と量を同時にコントロールすることは不可能だと感じたからだ。金利を重視する主流派の理論にしたがって、量的変数のほうは捨てたものと思われる。そのころ、日本銀行はFRBの問題に対して軽蔑的なコメントをしたと伝えられる。
FRBと違って、日銀は容易に貨幣の量と価格をコントロールできていた。金利を設定し、同時に窓口指導によって新たな購買力の創造をコントロールしており、これによってM2+CDのようなマネーサプライの預金量が決まっていたのである。
P-201
裁判では、判事は目撃証人の証言を大切にする。窓口指導というねんいりなプロセスには多くの日銀営業局の職員と、さらに多くの「日銀担」の銀行員が関与しているから、1980年代の窓口指導の実行状況と役割という重要な問題については、尋ねるべき証人が相当数、いるはずだ。しかし、バブルに起因する不況がすでに長期化し、銀行には公的資金が注入されているから、いまとなっては、この問題が微妙な政治的意味をはらむことは明らかである。銀行も規制当局も、厳しい批判を浴びてきた。大蔵省と銀行(MOF担)との癒着がいくつか、明るみに出た。「日銀担」は話題になっていないが、銀行側としてはその役割を公然と語りたくないのは当然だろう。しかも、日銀職員の多くは、正直に話せば上司を巻き添えにしかねないことに気づいているはずだ。
そこで、著者がすでに1992年に、80年代の窓口指導の実施状況を調べるために一連のインタビューを実施していたことは幸運だった。窓口指導に携わった日銀職員12人のインタビューがテープとメモに残っている。さらに、業態が異なる三種の民間銀行において、貸出について日銀と話し合うことが仕事だった「日銀担」6人のインタビューも、記録に残っている。1992年には、インタビューした日銀職員も銀行側担当者もまだ、窓口指導の役割がこれほど微妙な政治性を帯びるとは気づいていなかったようだ。それで、非常に率直かつオープンに答えてくれた。
小林
なるほど、だからヴェルナーは、確信をもって日銀の責任を追及しているんですね。