9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9.11について  <円の支配者> リチャード・A・ヴェルナー 著 その2

2017年04月12日 | 日記
とあるスナックで

小林
いやー、リチャード・A・ヴェルナーは怒っていますね。株式や土地の<資産バブル>を作ったのは、日銀だと。銀行から貸し出されたお金で株や土地を買い続けていけば、<資産バブル>が起こり、そして当然<崩壊>することを。単に間違った政策を当時していたんではなく、意識的に<崩壊>させたんだと。はじめからわかっていたんだと。
そして、その後政府が、大蔵省が景気を上げようといろいろ政策をやっても、それに協力しないで、逆に足を引っ張って<信用創造を増やさないで>景気を悪くさせたと。

コー
そうなんだ。彼は本当に怒ってるんだな。当時の法律(日本銀行は政府に協力しなければならないという)を考えてみれば、日銀の責任者を捕まえて<裁判>にかけるべきだとまで言っているんだな。日本経済が崩壊して不況になり、どれだけ多くの人たちが職を失い、家族だけには従業員だけには、借金を負わせまいとして、保険金のために自殺していったか、100人や200人じゃないだろうと。そして日本からどれだけ資本が失われたかだ。
日銀が意図しなければ起こらなくてよかった、<資産バブル>と<崩壊>、そしてそこからくる<信用収縮>による<大不況>。
30年近くの間に一体いくつの日本の会社が潰れていったんだ。
そして日経平均株価が7,8千円台のころにどれだけ日本の優良な企業の株が、外国資本に買われたんだ。これこそ典型的な<羊毛刈り>だ。

<信用創造>を増やさなくていいときに、増やして、<信用創造>を増やさなければならないときに、減らして。

P-207


日銀職員と銀行関係者のインタビューからすぐにわかるのは、日銀は貸出増額計画を銀行に押し付けただけではないということだ。それどころか、信用の増額を自在に決定し、実行したのである。日銀は80年代以前の時期や、さらには戦時中とまったく同じ総量統制をおこなっていた。窓口指導は依然として中央銀行の主要な政策手段だった。金利はせいぜいで「補完的」手段でしかなかった。日銀は貸出の増額割り当てを上回ったり下回ったりした銀行を罰した。銀行は激しいランキング競争を展開しているから、たとえ罰されることがなくても、割当額を残すどころか使い切るのに必死になることも充分に承知していた。1982年までの質的窓口指導も続いていた。したがって日本銀行は、不動産融資や建設業、ノンバンク金融機関への貸出が増大していること、つまり信用創造が投機的目的に使われていることをよく知っていたのである。

密かな窓口指導のメカニズムのおかげで、日銀は経済をヨーヨーのようにあやつることができた。成長を促進しようと思えば、貸出の伸びを増やせばいい。成長をおさえようというときには、減らす。こうした完璧なコントロールは、日銀ほど強力に経済を支配していないように思われる他の中央銀行への軽蔑を生むことにもなった。たとえば1980年代はじめ、連邦準備制度理事会は通貨目標の達成に四苦八苦しているように見えたが、結局あきらめてしまった。通貨の価格(金利)と量を同時にコントロールすることは不可能だと感じたからだ。金利を重視する主流派の理論にしたがって、量的変数のほうは捨てたものと思われる。そのころ、日本銀行はFRBの問題に対して軽蔑的なコメントをしたと伝えられる。
FRBと違って、日銀は容易に貨幣の量と価格をコントロールできていた。金利を設定し、同時に窓口指導によって新たな購買力の創造をコントロールしており、これによってM2+CDのようなマネーサプライの預金量が決まっていたのである。

P-201
裁判では、判事は目撃証人の証言を大切にする。窓口指導というねんいりなプロセスには多くの日銀営業局の職員と、さらに多くの「日銀担」の銀行員が関与しているから、1980年代の窓口指導の実行状況と役割という重要な問題については、尋ねるべき証人が相当数、いるはずだ。しかし、バブルに起因する不況がすでに長期化し、銀行には公的資金が注入されているから、いまとなっては、この問題が微妙な政治的意味をはらむことは明らかである。銀行も規制当局も、厳しい批判を浴びてきた。大蔵省と銀行(MOF担)との癒着がいくつか、明るみに出た。「日銀担」は話題になっていないが、銀行側としてはその役割を公然と語りたくないのは当然だろう。しかも、日銀職員の多くは、正直に話せば上司を巻き添えにしかねないことに気づいているはずだ。

そこで、著者がすでに1992年に、80年代の窓口指導の実施状況を調べるために一連のインタビューを実施していたことは幸運だった。窓口指導に携わった日銀職員12人のインタビューがテープとメモに残っている。さらに、業態が異なる三種の民間銀行において、貸出について日銀と話し合うことが仕事だった「日銀担」6人のインタビューも、記録に残っている。1992年には、インタビューした日銀職員も銀行側担当者もまだ、窓口指導の役割がこれほど微妙な政治性を帯びるとは気づいていなかったようだ。それで、非常に率直かつオープンに答えてくれた。



小林
なるほど、だからヴェルナーは、確信をもって日銀の責任を追及しているんですね。
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9.11について <円の支配者> リチャード・A・ヴェルナー 著

2017年04月10日 | 日記
とあるスナックで

小林
この本の中でも、日本のあの<バブル>と<崩壊>の事がかいてありますね。 P-159

銀行が金利を値引きしてまで顧客獲得に走ったことを語るエピソードは山ほどある。たとえば、小さな不動産開発会社のオーナーは、1987年末にそれまで取引のなかった大手都市銀行の支店長が訪ねてきた、と言う。支店長は取引を申し出ただけでなく、銀行から金を借りてくれと懇願した。金利はいくらでもそちらの言うとおりでいい、と彼は確約した。「どうか借り入れをしてください。金利だの返済予定だのというご心配はいっさいいりません」と支店長は言った。社長のほうが、べつに資金を必要とはしていない、と断ると、支店長は部下に作らせた具体的な不動産プロジェクトの資料を取り出した。そして、東京の商業地域にちょっとした土地があり、6億円で買えると説明した。銀行は担保価値の70パーセントまでしか貸せないのだから、ふつうならこの土地については4億2千万円しか貸すことができない。しかし、銀行はその土地について11億円の架空売買契約書をつくった。この契約書を使えば、開発資金を7億7千万円まで融資することができる。表向きは担保価値の70パーセントという比率は守られるが、現実には100パーセントを優に超える融資が行われていたのだ。
文書になったものだけでも同様ののケースはまだある。銀行の貸出担当者は上司に貸出額を増やせと責められて、借り手になりそうな顧客を探し回り、投機的な土地購入にふんだんに金を貸した。その土地は担当者が前もって選び、価値を「推計」しておいて、キャピタル・ゲインを「保証」するという仕掛けである。

銀行はどう見ても、必死になって金を貸したがっていた。しろうとには奇妙な現象に映る。そこで、まもなく「金あまり」という言葉が生まれた。エコノミストやアナリスト、金融市場や不動産の関係者たちは、自分たちはもっと理解しているつもりで、しろうとの単純な分析を一蹴した。地価が上がるのは金あまりのせいなんかではない、はるかに複雑な理由があるのだ、と彼らは主張した。一般人には高度な金融の技術が理解できないだけだ。金融と経済を大学で勉強した専門家は、市場価格はつねに正しく、したがって地価も正当であることを理解できるのだ、と。

蓋を開けてみれば、専門家よりも巷の一般人のほうが賢明だった。「金あまり」とは、まさに言い得て妙だった。銀行はあまりに多くの金を貸し、あまりに多くの金を創造した。消費に使われる金はそう多くはなかったから、消費者物価はほどほどにとどまった。金は金融取引に使われ、資産価値が上昇した。資産インフレ、いまでは「バブル」と呼ばれる現象が起こったのである。
個々の銀行は気づいていなっかたが、彼らは集団で地価を押し上げていた。これが、70年代はじめに起こった日本の不動産価格上昇の実態である。80年代にアメリカやイギリスで担保融資が盛んになり、住宅価格が高騰したのも同じ仕組みだ。同じプロセスが、20年代には「ゴールデン・トゥエンティズ」を生み出した。アメリカの銀行は株を担保に金を貸した。原理は同じである。各銀行が株価を所与と考えれば、株価は上昇せずにはいない。銀行は株価の何割かを担保として認めても安全だと考えた。しかし、すべての銀行が同じ行動に出れば、株式相場は上昇する。するとますます多くのお金が創造される。銀行が押し上げる信用ブームは90年代の韓国やタイ、インドネシア、マレーシアなどでも起こった。(コー注:そして最近の中国でも起きた)すべて、同じ物語である。そして、信用ブームのなれのはてもまた、つねに同じだ。信用の崩壊、銀行危機、深刻な不況である。



コー
仕組みが分かってしまうと、それほど理解するのが難しいとは思えないんだけどね、なぜか同じことが繰り返される。
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9.11について  1929年の米国発の世界恐慌

2017年04月05日 | 日記
とあるスナックで

コー
1980年代から1990年代の日本の資産バブル(土地や株価など)とその崩壊を考える上で、参考になるのはやはり、1929年の米国発の世界恐慌だと思う。天野統康の<詐欺 経済学原論>のP-109

米国発の1929年の世界恐慌はFRBの金融政策によって作られたものであった。
毎度の事ながら、一部の国際銀行家と結びついた中央銀行の金融政策による意図的な景気変動と、その変動を過熱させる怪しい金融商品とのコラボレーションである。
世界恐慌は米国で1920年代に起きた空前の株バブルとその崩壊による暴落で生じた。その経緯は以下のとおりである。

1920年代にFRBが金融緩和政策を行い、各銀行の貸出量を急激に増加させた。前述したとおり、銀行が貸し出しを行うと新たなマネーが創造される。当時の米国の融資の担保は株だったために、融資の拡大は株に対する需要を高め株価を上昇させた。しかも融資の多くは証券業や不動産業など金融経済の業種に向けて行われた。1921年~29年までの銀行融資の総額は、約241億ドルから357億ドルに増加し、その内の80億ドルは金融経済向けの融資だった。融資の増加の70%が金融経済向けだったのであり、これが株バブルを作り出した根本原因である。

更に、株を購入するときに元手が10%でよく、残りの90%は金融ブローカーがローンを組んでくれるというマージンローンといわれる新しいローン商品が販売された。10%の資金で、担保になり、かつ市場で上昇している株を購入できるのだと、人々は喜んでローンを組んだ。これが更に株式市場を上昇させ、ダウ平均の株価は1921年~29年まで6倍に上昇した。しかしこのマージンローンにはとんでもない契約内容が記されていた。金融会社からの返済請求があったら、24時間以内に株を購入したときのローンを返済しなければならないのである。

1928年にFRBは、それまでの政策を180度変化させて、金融政策を引き締め、銀行の新規の貸し出しを厳しくおさえはじめた。29年8月には金利を6%に上昇させた。更に、マージンローンの返済が金融会社から出されると、人々はパニックになり、株価は売り一色となり10月24日に大暴落を起こした。後ほど説明するマネタリズムの創設者、ミルトン・フリードマンはこの世界恐慌をFRBの金融政策のせいである、と批判している。

担保価値の暴落は多くの銀行を倒産させ、個人を破産させた。一方で、ロックフェラーやモルガンなどFRBの株主と仲間たちは高値で売り抜けており、暴落した企業の株や、破産した個人の土地を買い占めた。米国は独立してから150年間の開拓の歴史によって多数の独立した銀行、企業、農業者が存在していた。潰れた多くの銀行はFRBのシステムに加入していない独立系の銀行だった。こうして歴史的なバブルとその崩壊により米国の富はFRBの株主たちによって独占されていく。



小林
毎回毎回同じパターンなんですね。

まず、中央銀行による<金融緩和>があり、次に<過熱させる金融商品>があったということですね。その商品はなんでもいいわけでしょう、<チューリップの球根>だったり、狭い日本なら<土地>だったり、<住宅>だったり、もちろん<株>だったり、<債券>だったり、色々あるということでしょう。

でも基本の構造はみな同じですね。



コー
そうなんだな。そしてこの基本の構造を理解するには、どうしても<信用創造>と<通貨発行権>の理解が必要と思うな。

お金が世の中に増えるときは、どういうときか。
そして、お金が世の中から減っていくときはどういうときか。


この理解が必要だと思う。
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9.11について <検証 バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか>軽部謙介 著 その2

2017年04月05日 | 日記
とあるスナックで

コー
この本のなかで、気になったところがいくつかあるんだ。 P-6

澄田はのちに「バブルを発生させた戦犯」と指弾されることになるが、本人は「在任中に実施した金融緩和策については、当時の眼前の情勢に照らして適切な措置だったと思う。しかし日銀総裁たるもの、少しでもおかしな兆候があれば敏感に感じ取って将来を予想すべきであり、資産価格が上がることの意味をもっと早くとらえて手をうつべきだった、と思っている。」と述懐した。
家では仕事のことをあまり話さない澄田だったが、一度だけバブルの原因について長男の誠にぽつりとこう話したことがある。誠は90年代後半のことだったと記憶している。
「あれだけ慎重だった銀行、特に都銀が、あんなに無謀な貸し出しにはしるとは思わなかった」
「父はバンカーを尊敬していた面があった。それが別働隊まで作ってどんどん貸し込んでいたとは、と思ったのでしょう。本人にしてみたら(銀行の行動は)非常に残念だったことだろうと思う」と誠は話す。

節度を忘れた銀行の融資は80年代後半、バブルを増幅させていった。しかも途中からそれは系列のリース会社などを通じて本体と切り離して行われるようになり、当局の視野に入りにくくなった。澄田の金融機関批判はそのことを指しているのだろう。

小林
本当に日銀は地価や株価が高くなっているのは、バブルかどうか分からなかったんですかね。

コー
うーん、どうやら分からなかったんだろうな。たとえば、今株価が上がったとする、それはバブルなのか、いやそうじゃないんだ、その企業の価値が高くなったんだから当然だということの違いがはっきり分からないということかもしれないな。それを判断する経済的な指標があるのかどうか、バブルかどうかの。

それにしても、当時銀行からの貸出しのお金が、土地と株に多く回っていたのは間違いない。 P-280

日銀幹部も金融機関の攻勢を受けた。調査統計局長の南原はある大手銀行から「5000万円を無利子で貸すから株を買わないか」と持ち掛けられた。断ったものの、こういうことが経済状況のベースにあるんだと思った南原は、この話を政策委員らのいる会議で持ち出して注意喚起したという。
また、大蔵や日銀のみならず、どこの官庁でも、監督する業界からの接待やつけ回しは日常的な光景だった。飲食だけでなく、大名行列のような接待も珍しいものではなかった。この状況はバブル崩壊後も続いたが、最終的に98年に東京地検特捜部の捜査のメスが入り大蔵省では112人という前代未聞の大量処分に発展した。
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9.11について <検証 バブル失政  エリートたちは、なぜ誤ったのか> 軽部謙介 著   岩波書店 2015年9月

2017年04月01日 | 日記
とあるスナックで

コー
しかしこの本を読むと、<公定歩合>を下げて<お金>をジャブジャブと増やしていったのは、<日銀>よりも<大蔵省>はじめとする<官邸>側のほうが強く望み日銀に圧力をかけていったんだな。もちろん、アメリカが要求したからなんだが。今の若い人には想像さえできないけど、アメリカの日本バッシングはすごかったからね。プラザ合意以降も、円高しろ、対米黒字をなくせ、内需拡大しろ、輸入貿易障壁をなくせ、銀行や企業の会計ルールを変えろ、日本独自の経済の仕組みを変えろ、とあらゆる要求が日本に降りかかってきたからね。アメリカの議員も日本製のトランジスタラジオや車をハンマーで叩き割って日本バッシングをあおっていたからね。マスコミも日本バッシング一色だったんだな。


小林
ほんとうですね、いまじゃ想像できないですね。


コー
それまでの日本は順調に経済成長して<奇跡>とまで言われていたんだ。  P-123

渡辺は米英が合意した自己資本規制の背景には、日本の金融機関の存在があると感じていた。このころ、日本の金融機関の勢いはピークに達していた。実際、85年の段階で銀行の規模を示す資産額の世界ランキングでは、第一勧業、富士、住友、三菱、三和の五行がベスト10入りしていた。同じランキングの80年版はゼロだったにもかかわらずである。バブルのピークだった89年には上位10行中7行が邦銀で占められていた。また米国や欧州での業務シェアもぐんぐん拡大していた。邦銀の進出は、米国や英国の金融機関にとって大きな脅威だった。邦銀の急速な拡大に対する反発は広がっており、米英の動きは明らかに日本を封じ込めようとするものと大蔵省や日銀は受け取った。
そしてその推測は半分当たっていた。(コー注:半分じゃなく、100%そうだったんだろうよ)

P-278

シーゲルはこう回顧する。
「日本は戦争に負けた。でも経済ではあなたの国に勝ったという趣旨のことを何度も面と向かって言われた。あるときはビジネスマンから、あるときは日本政府の官僚から」
この種の体験をした米国人は少なくない。
一方、米国大使館の経済担当としてシーゲルの同僚だったC・ローレンス・グリーンウッドは、1980年代後半、バブルの渦中にある日本に赴任して、人々が金箔の寿司を食べているのに仰天した。
彼はこう話す。「皇居の地価でカリフォルニア州が買えると聞いてクレイジーだと思った。そんなの持続可能なのかと」

そして P-389

(14)  1989年から90年にかけて、三菱地所は通称ロックフェラーセンターと呼ばれる建物を含む一帯のビル群を保有する企業の株式80%を取得した。しかし、経営に失敗し95年にこのうちの12棟を手放した。三菱地所は約1500億円の損失をだした。


小林
エンパイヤステートビルを買っただけじゃなかったんですね。


コー
トラの尾を踏んだんじゃなくて、頭をかじっちゃったということさ。悲劇というより、喜劇だね、こうなると。

だから、信じなくていい、面白半分でもいい、暇つぶしでもいい、<ジョン・コールマン>や<ユースタス・マリンズ>の本を読むべきなんだな。


ふたりとも、調べて調べて書いているんだな。自分の想像で書いているんじゃないんだと思う。それも1年や2年なんてもんじゃない。人生のライフワークとして調べているんだと思う。
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