9.11について

2001年の9.11事件や、その他色々な感想、思い、などを書いていけたらなと、思っています。

9.11について  1929年の米国発の世界恐慌

2017年04月05日 | 日記
とあるスナックで

コー
1980年代から1990年代の日本の資産バブル(土地や株価など)とその崩壊を考える上で、参考になるのはやはり、1929年の米国発の世界恐慌だと思う。天野統康の<詐欺 経済学原論>のP-109

米国発の1929年の世界恐慌はFRBの金融政策によって作られたものであった。
毎度の事ながら、一部の国際銀行家と結びついた中央銀行の金融政策による意図的な景気変動と、その変動を過熱させる怪しい金融商品とのコラボレーションである。
世界恐慌は米国で1920年代に起きた空前の株バブルとその崩壊による暴落で生じた。その経緯は以下のとおりである。

1920年代にFRBが金融緩和政策を行い、各銀行の貸出量を急激に増加させた。前述したとおり、銀行が貸し出しを行うと新たなマネーが創造される。当時の米国の融資の担保は株だったために、融資の拡大は株に対する需要を高め株価を上昇させた。しかも融資の多くは証券業や不動産業など金融経済の業種に向けて行われた。1921年~29年までの銀行融資の総額は、約241億ドルから357億ドルに増加し、その内の80億ドルは金融経済向けの融資だった。融資の増加の70%が金融経済向けだったのであり、これが株バブルを作り出した根本原因である。

更に、株を購入するときに元手が10%でよく、残りの90%は金融ブローカーがローンを組んでくれるというマージンローンといわれる新しいローン商品が販売された。10%の資金で、担保になり、かつ市場で上昇している株を購入できるのだと、人々は喜んでローンを組んだ。これが更に株式市場を上昇させ、ダウ平均の株価は1921年~29年まで6倍に上昇した。しかしこのマージンローンにはとんでもない契約内容が記されていた。金融会社からの返済請求があったら、24時間以内に株を購入したときのローンを返済しなければならないのである。

1928年にFRBは、それまでの政策を180度変化させて、金融政策を引き締め、銀行の新規の貸し出しを厳しくおさえはじめた。29年8月には金利を6%に上昇させた。更に、マージンローンの返済が金融会社から出されると、人々はパニックになり、株価は売り一色となり10月24日に大暴落を起こした。後ほど説明するマネタリズムの創設者、ミルトン・フリードマンはこの世界恐慌をFRBの金融政策のせいである、と批判している。

担保価値の暴落は多くの銀行を倒産させ、個人を破産させた。一方で、ロックフェラーやモルガンなどFRBの株主と仲間たちは高値で売り抜けており、暴落した企業の株や、破産した個人の土地を買い占めた。米国は独立してから150年間の開拓の歴史によって多数の独立した銀行、企業、農業者が存在していた。潰れた多くの銀行はFRBのシステムに加入していない独立系の銀行だった。こうして歴史的なバブルとその崩壊により米国の富はFRBの株主たちによって独占されていく。



小林
毎回毎回同じパターンなんですね。

まず、中央銀行による<金融緩和>があり、次に<過熱させる金融商品>があったということですね。その商品はなんでもいいわけでしょう、<チューリップの球根>だったり、狭い日本なら<土地>だったり、<住宅>だったり、もちろん<株>だったり、<債券>だったり、色々あるということでしょう。

でも基本の構造はみな同じですね。



コー
そうなんだな。そしてこの基本の構造を理解するには、どうしても<信用創造>と<通貨発行権>の理解が必要と思うな。

お金が世の中に増えるときは、どういうときか。
そして、お金が世の中から減っていくときはどういうときか。


この理解が必要だと思う。
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9.11について <検証 バブル失政 エリートたちはなぜ誤ったのか>軽部謙介 著 その2

2017年04月05日 | 日記
とあるスナックで

コー
この本のなかで、気になったところがいくつかあるんだ。 P-6

澄田はのちに「バブルを発生させた戦犯」と指弾されることになるが、本人は「在任中に実施した金融緩和策については、当時の眼前の情勢に照らして適切な措置だったと思う。しかし日銀総裁たるもの、少しでもおかしな兆候があれば敏感に感じ取って将来を予想すべきであり、資産価格が上がることの意味をもっと早くとらえて手をうつべきだった、と思っている。」と述懐した。
家では仕事のことをあまり話さない澄田だったが、一度だけバブルの原因について長男の誠にぽつりとこう話したことがある。誠は90年代後半のことだったと記憶している。
「あれだけ慎重だった銀行、特に都銀が、あんなに無謀な貸し出しにはしるとは思わなかった」
「父はバンカーを尊敬していた面があった。それが別働隊まで作ってどんどん貸し込んでいたとは、と思ったのでしょう。本人にしてみたら(銀行の行動は)非常に残念だったことだろうと思う」と誠は話す。

節度を忘れた銀行の融資は80年代後半、バブルを増幅させていった。しかも途中からそれは系列のリース会社などを通じて本体と切り離して行われるようになり、当局の視野に入りにくくなった。澄田の金融機関批判はそのことを指しているのだろう。

小林
本当に日銀は地価や株価が高くなっているのは、バブルかどうか分からなかったんですかね。

コー
うーん、どうやら分からなかったんだろうな。たとえば、今株価が上がったとする、それはバブルなのか、いやそうじゃないんだ、その企業の価値が高くなったんだから当然だということの違いがはっきり分からないということかもしれないな。それを判断する経済的な指標があるのかどうか、バブルかどうかの。

それにしても、当時銀行からの貸出しのお金が、土地と株に多く回っていたのは間違いない。 P-280

日銀幹部も金融機関の攻勢を受けた。調査統計局長の南原はある大手銀行から「5000万円を無利子で貸すから株を買わないか」と持ち掛けられた。断ったものの、こういうことが経済状況のベースにあるんだと思った南原は、この話を政策委員らのいる会議で持ち出して注意喚起したという。
また、大蔵や日銀のみならず、どこの官庁でも、監督する業界からの接待やつけ回しは日常的な光景だった。飲食だけでなく、大名行列のような接待も珍しいものではなかった。この状況はバブル崩壊後も続いたが、最終的に98年に東京地検特捜部の捜査のメスが入り大蔵省では112人という前代未聞の大量処分に発展した。
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