鹿島茂著『妖人白山伯』2002年・講談社発行
先日、この小説がモンブラン伯を男色家に設定していて、先を越された! とショックだったことを書きました。
もう一つ、先を越された! という点があります。つまりそれが、昨日書いたことなんです。
古代ローマ皇帝を名目に、ナポレオンが帝国を立ち上げたことと、明治維新における王政復古の共通点ですね。
幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』(中公新書)という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
この「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
まあ、物語の余談としてそういう話題もありかなあ、と暖めていたところが、です。なんと鹿島茂氏は、王政復古のクーデターそのものの筋書きが、モンブラン伯によって書かれた、という、すばらしく強引な設定で、パロディにしてくださっていたのですね。
まず王政復古の日にちなんですが、最初に大久保利通が設定したのは12月の2日だと、鹿島氏はおっしゃいます。いや、そうだったかなあ、と関係書を見返してみたのですが、2日という日は出てこなくて、しかしまあ、クーデターの日取りは揺れ動きましたので、大久保利通の心づもりは2日だった、ということはあったのかもしれません。
で、鹿島氏は、「12月2日というのは、ナポレオン三世が皇帝となるためのクーデターを起こした日で、大ナポレオンが戴冠した日でもある」とおっしゃるのです。
ま、強引に過ぎる趣もありますが、そこらあたりはまだいいとして、王政復古はなにからなにまでモンブラン伯の企画で、実は大久保利通でさえも、伯に操られていた、とまで言い募られますと、いや、なんといいますか……、パロディというものは、「そういう可能性だってありよね」と、くすりと笑えてこそおもしろいのであって、あんまりにも大真面目に荒唐無稽をやられますと、退屈になってしまうもののようです。
ウェッブ上で、ちらっと見かけたんですが、鹿島氏は「全部フィクションだが史実との継ぎ目は見えないようにしてあるので、知らないものが見れば史実と思うだろう」というようなことを、豪語されているようでして、確かに、どこまでが資料に基づいた記述か、わかり辛いんですね。維新資料は膨大ですし、フランス語の資料となれば、訳出されてないものを、私は見ていないわけですし。
ああ、さらに、です。もう一つ、鹿島氏は、私の思いつきを、先取りなさってました。同じ思いつき、とまではいかないいですが、井上武子伯爵夫人を登場させよう、とは、私ももくろんでいたのですね。鹿島氏のように、直接モンブラン伯にからめるつもりは、ないんですけど。
彼女の場合、明治の元勲の夫人ですから、一応、素性とか生年とかははっきりしているのですが、鹿島氏は、それをまったく無視しちゃってますから、相当な部分、資料を無視なさっているのかなあ、と、思ってもみたり。
井上武子伯爵夫人って、鹿鳴館の華、長州の井上聞多の奥方です。『世外井上公伝』という大層な分量の、とても高価な伝記がありまして、これには、武子夫人のことも少しは出ているはずなんですが、実は私も、これは見ていません。『井上伯伝』という伝記もありまして、これは復刻版を持っているのですが、維新までの伝記なので、武子夫人のことはまったく出てないんですね。近くの図書館に『世外井上公伝』はないですし。ふう。
そういえば昔、高杉晋作と井上聞多に萌えておられた女性がいたなあ、どうしているかな、と、ついよけいなことを思い出したり。いや、聞多の仲良しさんなら伊藤博文だろうと言いたくなったりしたものですが、いえ、たしかに……、伊藤公爵では萌えようがないですね。
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先日、この小説がモンブラン伯を男色家に設定していて、先を越された! とショックだったことを書きました。
もう一つ、先を越された! という点があります。つまりそれが、昨日書いたことなんです。
古代ローマ皇帝を名目に、ナポレオンが帝国を立ち上げたことと、明治維新における王政復古の共通点ですね。
幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』(中公新書)という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
この「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
まあ、物語の余談としてそういう話題もありかなあ、と暖めていたところが、です。なんと鹿島茂氏は、王政復古のクーデターそのものの筋書きが、モンブラン伯によって書かれた、という、すばらしく強引な設定で、パロディにしてくださっていたのですね。
まず王政復古の日にちなんですが、最初に大久保利通が設定したのは12月の2日だと、鹿島氏はおっしゃいます。いや、そうだったかなあ、と関係書を見返してみたのですが、2日という日は出てこなくて、しかしまあ、クーデターの日取りは揺れ動きましたので、大久保利通の心づもりは2日だった、ということはあったのかもしれません。
で、鹿島氏は、「12月2日というのは、ナポレオン三世が皇帝となるためのクーデターを起こした日で、大ナポレオンが戴冠した日でもある」とおっしゃるのです。
ま、強引に過ぎる趣もありますが、そこらあたりはまだいいとして、王政復古はなにからなにまでモンブラン伯の企画で、実は大久保利通でさえも、伯に操られていた、とまで言い募られますと、いや、なんといいますか……、パロディというものは、「そういう可能性だってありよね」と、くすりと笑えてこそおもしろいのであって、あんまりにも大真面目に荒唐無稽をやられますと、退屈になってしまうもののようです。
ウェッブ上で、ちらっと見かけたんですが、鹿島氏は「全部フィクションだが史実との継ぎ目は見えないようにしてあるので、知らないものが見れば史実と思うだろう」というようなことを、豪語されているようでして、確かに、どこまでが資料に基づいた記述か、わかり辛いんですね。維新資料は膨大ですし、フランス語の資料となれば、訳出されてないものを、私は見ていないわけですし。
ああ、さらに、です。もう一つ、鹿島氏は、私の思いつきを、先取りなさってました。同じ思いつき、とまではいかないいですが、井上武子伯爵夫人を登場させよう、とは、私ももくろんでいたのですね。鹿島氏のように、直接モンブラン伯にからめるつもりは、ないんですけど。
彼女の場合、明治の元勲の夫人ですから、一応、素性とか生年とかははっきりしているのですが、鹿島氏は、それをまったく無視しちゃってますから、相当な部分、資料を無視なさっているのかなあ、と、思ってもみたり。
井上武子伯爵夫人って、鹿鳴館の華、長州の井上聞多の奥方です。『世外井上公伝』という大層な分量の、とても高価な伝記がありまして、これには、武子夫人のことも少しは出ているはずなんですが、実は私も、これは見ていません。『井上伯伝』という伝記もありまして、これは復刻版を持っているのですが、維新までの伝記なので、武子夫人のことはまったく出てないんですね。近くの図書館に『世外井上公伝』はないですし。ふう。
そういえば昔、高杉晋作と井上聞多に萌えておられた女性がいたなあ、どうしているかな、と、ついよけいなことを思い出したり。いや、聞多の仲良しさんなら伊藤博文だろうと言いたくなったりしたものですが、いえ、たしかに……、伊藤公爵では萌えようがないですね。
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