郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1

2007年03月05日 | モンブラン伯爵
今日はちょっと覚え書きに近いんですが、幕末のさまざまな動きに、「海軍」というキーワードを持ってくると、けっこう話が見えてきたりします。

幕末の黒船騒動で、最初に敏感に反応したのは、雄藩大名だったんですけれども、水戸斉昭、島津斉彬、鍋島閑叟などは、まっさきに、造船に取り組んでいます。
すでに、それぞれの藩で、海軍力のなさを痛感した事件があったからです。
水戸の場合は、大津浜事件。文政八年(1824)、常陸大津浜に、イギリスの捕鯨船員が勝手に上陸し、食料や薪水を要求した事件で、大騒ぎになりました。
薩摩は、支配下の琉球に、天保15年(1844)、フランス軍艦が現れ、開国要求をして以来、琉球や西南諸島で、たびたび黒船騒動が起こっています。
佐賀の場合は、少々古いんですが、文化5年(1808)のフェートン号事件でしょう。
佐賀藩は、幕府から長崎警備を任されていたのですが、イギリスのフェートン号がオランダ国旗をあげて長崎に入港し、オランダ商館員を拿捕して、食料薪水を要求。しかし、港内の船を焼き払う、というイギリス船の脅しに、警備の鍋島藩はなすすべもなく、長崎奉行は要求を呑み、責任をとって鍋島藩家老は切腹しました。

こういった事件を自藩で経験していた雄藩は、海軍力増強、西洋近代兵器導入の必要を痛感し、それぞれに取り組んでいたのですが、幕府、そして藩内保守派が、なかなか動こうとしなかったところへ、ペリー来航です。
さすがの幕府も海軍の必要を痛感し、雄藩の取り組みを奨励するとともに(たとえば水戸藩の石川島造船所)、最初に頼ったのが、古くからつきあってきたオランダです。

まずオランダに、新造機帆小型コルベット2隻(咸臨丸、朝陽丸)を注文し、その軍艦の乗組員を育てるため、安政2年(1855)、長崎オランダ海軍伝習所を開くことになります。
ところで、軍艦を持つということは、その整備、修理を国内でする必要もある、ということです。幕府は2年後に、長崎製鉄所(名前が製鉄所なんですが船舶修理所です)を起工し、文久元年(1861)には完成させていますが、ここの設備機械なども、オランダ製を主としていました。
その後、幕府はいろいろな国の中古蒸気船を買いはするのですが、新造軍艦としては、元治元年(1864)アメリカに富士山丸、そして再びオランダに、フリゲート艦開陽丸発注です。
幕府は、長崎オランダ海軍伝習所において、諸藩からの希望者受講を許しましたので、主に西南雄藩から、多くの受講生が集いましたが、もっとも人数が多かったのは、佐賀藩です。
その佐賀は、オランダに、電流丸(咸臨丸と同型)、日進丸(開陽丸より一足遅くに注文。受取が明治維新後となったため、明治海軍の主力艦となる)という新造軍艦を注文しています。
つまり、佐賀、薩摩など、海軍に力をそそいだ雄藩は、イギリス製造の軍艦をも買いましたが、これらは中古品で、最初から発注して、という形では、オランダのみだったんですね。
これは、オランダにとって、最初に一隻、幕府に軍艦を贈った上で、海軍伝習を引き受けた成果だった、といえるでしょう。
だとすれば、幕府がフランスに横須賀製鉄所(これも製鉄所と言われていますが、海軍船舶整備修理、造船所です)建設をゆだねたことは、オランダにとって、大きな脅威だったはずです。

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えーと、その横須賀製鉄所のお話に入る前に、なぜ、フランスが幕府支援に力を入れたか、です。
フランスは、ちょうどこの時期、ベトナムを植民地支配しようとしていますが、日本への関心は、それとはちょっと、趣がちがうんです。
生糸、シルクです。
横浜開港以来、日本からの輸出の大半は、生糸でした。これには、理由があります。
欧州における生糸の産地は、フランスとイタリアだったんですが、蚕の病気が流行り、生産高が激減してしまったんです。石井孝著『港都横浜の誕生』によれば、嘉永6年(1853 ペリー来航の年)から慶応元年(1865)までに、フランスの生糸生産は、4300万斤から160~170万斤ほどにまで、落ち込んだんだそうです。
フランスにおいて、ファッション産業は、大きな比率をしめています。リヨンではさまざまな絹織物が作られ、その絹織物はパリで最先端のファッションとなり、欧米各国に輸出されていたのです。
フランスにとって、生糸の安定的な輸入は、とても重要なことだったんです。
横浜が開港するまで、欧州に生糸を輸出していたのは、主に中国だったのですが、ちょうど太平天国の乱が起こり、上海の交易が中止となり、開港した横浜の生糸が注目されました。非常に品質もいい、ということで、日本からの生糸の輸出は、フランスにとって、貴重なものとなったのです。

ところが、この生糸輸出、国内的には、いろいろと問題が生じました。なにしろ、輸出生糸の価格は、国内相場よりはるかに高かったものですから、西陣など、日本の絹織物産地に生糸が入らなくなってしまったんですね。
京都の攘夷気分には、そんなことも影響していたため、幕府はさまざまな輸出制限を試みます。
フランスなどは、日本の蚕ならば病気にやられないのでは、というので、蚕種の輸入もはじめるのですが、これにも、一時幕府は制限をかけます。
イギリスなどの商人は、日本の生糸や蚕種をフランスに仲買して、中間利益を得るだけですから、個々の商人の利害でしかなく、あまり政府がかかわるような問題でもなかったのですが、フランスの場合、国内産業の死活問題でした。
そんなわけで、土方歳三はアラビア馬に乗ったか? のアラビア馬なぞ、フランス皇室秘蔵の種馬だったりなんぞしたのですが、ナポレオン三世は、幕府が蚕種紙を贈ったお礼として、奮発したりもしたわけなのです。

ところで、幕府は、築地に軍艦所を設けていましたが、その軍艦を整備する造船所は、浦賀にありました。しかし、これは設備の整っていないものだったので、水戸藩にまかせていた石川島(現在の豊洲)の造船所を充実させ、本格的なものにしようと、元治元年(1864)8月ころ、軍艦操練所教授方頭取だった肥田浜五郎を、オランダへ工作機械の購入と、その使い方の伝習に、行かせました。
肥田浜五郎は、長崎でオランダ海軍伝習を受けた幕臣で、機関方で非常に優秀だったと、オランダ人も誉めています。咸臨丸のアメリカ渡航時にも、機関方の主任となり、帰国後、蒸気機関の製造にも成功をおさめていました。

ところが、です。ちょうどそのころ、か、あるいはそれ以前でしょうか、この年、新しく日本に赴任してきたフランス公使レオン・ロッシュが、幕府が造船所を作りたがっていると知り、横須賀にフランスが造船所を作り、そこで造船に関する伝習も行う、という案を、小栗上野介に提案していたのです。その支払いには幕府領の生糸の売り上げをあてる、というようなことで、非常に具体的な建設案であり、しかも、幕府の見積もりよりもはるかに安い建設費でした。
造船所がフランスの技術によるもので、そこで伝習も行われるとなりますと、将来、フランスへの軍艦注文も期待できます。生糸の安定的輸入とともに一石二鳥で、現実に、フランスは、かなり良心的な建設案を提示したのでしょう。
そこで、幕府は、その年の11月10日、正式にフランスの提案を受け入れたのです。
ただ、支払いには生糸の売り上げをあてる、という話は、自由貿易に反する、というイギリスとオランダの反対で、とりやめになり、フランスの会社が融資の保証に立った、という話もあるのですが、さて、イギリスとオランダの反対って、生糸の売り上げ云々のみの話でしょうか? 

軍艦に武器。日本の輸入品の中で、これは大きな割合をしめていますし、オランダとイギリスは、幕府への軍艦、武器の売り込みで、これまでは、フランスより優位に立っていたのです。
ほんの一年前、長州は下関で外国艦船を砲撃しましたし、薩摩は薩英戦争に至りました。まだこの時点では、欧州各国、売った軍艦や武器が攘夷に使われることを警戒していましたし、取引相手として信頼できるのは、幕府のみです。
このフランスの幕府接近に、イギリス商人たちが猛烈な反発をしめしていたことは、当時、横浜で発行されていた英字新聞にも見られるようですが、国を挙げて軍艦を売り込んできたオランダだとて、そうでしょう。
そして、舞台はフランスに移ります。

というところで、続きは明日。


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