郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3

2007年03月24日 | モンブラン伯爵
&tagモンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2 の続きです。
前回は、五代・寺島夫婦の側から語ってみたわけなのですが、では、モンブランの側から言うならばどうなのか、というお話です。


モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2の時期からなんですが、まず、この内容を補足します。

『社会志林』の宮永氏論文では、池田使節団がパリを訪れていたころ、「モンブランは池田から日本の形勢について聞かされ、そのとき反幕的な諸大名を倒し、政権を一つにするように進言した」と断定され、さらには、幕府に力がないならフランスが助力する、と言ったとしているんですが、モンブランは、最初の来日時にも学術員ですし、フランス外務省員でもなければ、在日フランス公使館の一員でもありません。
いくら池田筑前守がまがぬけていたと仮定しましても、助言ならばともかく、フランス外務省、およびフランス公使の意向と、モンブランの個人的意見との区別もつかないほどまがぬけていたとは、とても思えません。

宮永氏の断定の根拠は、『旧幕府第八号 長防再征の目的』だというので、見てみました。
この小論文の著者は、元越前藩士・佐々木千尋。松平春嶽を中心とする越前藩の幕末記録、『続・再夢記事』の編者です。
で、結局のところ、えらく見当ちがいなことに、『旧幕府第八号 長防再征の目的』は、第二次征長の時点での幕府とフランスの密着、つまりは横須賀製鉄所建設などの話を、『続・再夢記事』に収録された慶応2年7月18日付けの越前藩士の報告書、までさかのぼって結びつけ、「幕府が長州、薩摩を討って中央集権化することを軍事的にフランスが助ける」といったような話になっているんです。

ちょっと、まってください。
『続・再夢記事』慶応2年7月18日付け越前藩士の報告書には、たしかに、モンブラン伯爵というフランス人が、池田筑前守に言ったこととして、「フランスも四,五百年前までは、大小名が各地に割拠し、その小国ごとに法律があったが、日本の今の状態はそれと同じであるので、現在のフランスのように中央集権化する必要がある。大名の権力をけずるためには、軍事力が必要だろう。それがないのであれば、日本はフランスに依頼して借りるべきだ」とあるんですが、これ、欧州から帰ってきた五代友厚の話を、越前藩士が聞いて、書いたものなのです。

遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄〈5〉外国交際

朝日新聞社

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また登場しますが、萩原延壽氏の『遠い崖』によりますと、慶応元年 (1865年)、つまり、ちょうど五代が渡欧していた年なんですけれども、モンブラン伯爵はパリで、『日本(Le Japon)』という著作を刊行しています。
おそらく、モンブラン伯の日本観で書きました『モンブランの日本見聞記』が、その訳書なのだと思うのですが、書籍の山に埋もれて出てまいりません。
ともかく、上記、萩原延壽氏によりますと、『日本(Le Japon)』の内容は以下です。
「日本人の国民性の優秀さを説き、積極的に異質の西洋文明から学ぼうとする精神をたたえ、その輝かしい未来を予言した。当時これほど日本の可能性を高く評価した西欧人の日本論はめずらしい。モンブランは日本の政情にもふれ、天皇を擁する勢力と幕府との対立を論じたが、改革と開国の味方として、モンブランが支持したのは幕府の側である。これにたいして、朝廷につらなる勢力は、旧秩序の維持を目論む進歩の敵とみなされた」

それが、五代、寺島との出会いを経て、この年の暮れには、薩摩人を伴ってのヨーロッパ地理学会で、前回記したような「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という考え方に変わり、翌慶応2年には、この講演の内容を、『日本の現状に関する一般的考察(Consideration Generales sur IEtat Actuwl du Japon)』と題して刊行しているんだそうです。
萩原延壽氏も推察されていますが、慶応元年暮れのモンブランの地理学会発表と、慶応2年3月から、イギリス在日公使館員アーネスト・サトウが横浜の週刊英字誌『ジャパン・タイムズ』に連載しはじめました『英国策』は、内容が酷似していまして、あきらかに、五代友厚が介在しているでしょう。
五代、寺島は、モンブラン講演の内容を筆記して持ち帰り、サトウも含む在日イギリス人などに見せてまわった、と考えてもいいのではないでしょうか。

で、越前藩士が五代友厚から聞いた話なのですが、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2で書きましたように、池田使節団は横浜鎖港交渉にフランスに出向いていたわけでして、さらには、四国連合艦隊の長州討伐問題があったわけなのです。
モンブランが池田に「フランスの力を借り」と話したとしましたら、長州の「攘夷」は瀬戸内海航路の封鎖であり、自由貿易をさまたげる行為でしたから、当然、航路の安全保証は幕府の責任であり、勝手に四国連合艦隊がそれを長州に迫るよりは、幕府がその責任を果たすべきで、幕府にその力が足りないというのなら、フランスは手助けしますよ、というものなのです。
統一国家とはどういうものであるのか、そういう道理を、モンブランが池田に説いた可能性はありますが、元治元年の時点で、「幕府はフランスの軍事力を借りて諸侯を征伐し、中央集権化すべきである」と、モンブランが池田に吹き込んだ、というのは、当時のフランスの思惑とは大きくかけはなれていて、「統一国家のあるべき姿」という一般論と、その当時の状況、つまり四国連合艦隊の長州征伐、におけるフランスの申し出を、故意に混同したものです。
『日本(Le Japon)』において、モンブランは日本を、『天皇をいただく諸侯連合国』だとは、見ていないわけなのですから。

あきらかに五代は、意図的に話を短絡化し、越前藩士に吹き込んだのです。
フランスと幕府の関係に、薩摩藩中枢が危惧を抱くようになったのは、駐日フランス公使がベルクールからロッシュに交代し、横須賀製鉄所建設の話が持ち上がってからです。
たしかに、ロッシュ公使になってから、幕府が陸海の軍備を近代化することに、フランスは手を貸そうとしていたわけですが、それも、かつてオランダが海軍伝習を引き受けたのと同じように、交易の実をあげるためであって、イギリスとの外交関係からいっても、例えばフランス軍が、フランス人の安全に関係のない第二次征長で幕府の味方をするとか、そういう話ではありません。
対外関係に暗い越前藩士に「幕府はフランスの力を借りて諸侯をつぶすつもりだ」というような話をしておけば、春嶽候の耳に入るのは見えています。
薩長連合はなり、第二次征長における長州の勝利も見えてきたこの時期、春嶽を薩摩の味方につけることをねらっての、五代の工作でしょう。

ようやく本題に入ります。
モンブラン伯爵が、フランスの全面援助による横須賀製鉄所建設に反対し、肥田浜五郎に味方しただろう理由なんですが、ひとつには、もちろん、ベルギーを介した利があったでしょう。
しかし、理念の面からいえば、モンブラン伯爵は、自由貿易主義者だったように感じます。
当初、生糸、蚕種の現物で、幕府が鉄工所建設費を払う、というような噂も出回っていまして、このことからも、在日イギリス商人が猛反発したのです。
さらに、以前にも書きましたが、在日フランス公使レオン・ロッシュは、富豪で銀行家のフリューリ・エラールに、フランスの対日貿易をすべて取り仕切らせるような画策をするんですが、フリューリ・エラールは、ロッシュの個人的友人なんですね。当時、主に生糸はイギリス商人が取り扱っていたのですが、柴田使節団訪仏の翌年、慶応2年(1866)から幕末の2年間だけ、極端に、イギリス商人の生糸取扱量が減っています。
取扱量が減ったのは、あるいはこの年、在日イギリス商人は、軒並み、金融危機に見舞われていまして、これはインド、中国貿易に原因した資金繰りの悪化だったんですが、そのためかとも受け取れますが、減り方が異常です。
証拠はあげようもないのですが、小栗上野介と三井の関係を考えますと、幕府が三井を使って、うまくフランスに、それも独占的にフリューリ・エラールの関係した商人に、生糸をまわしていたのではないか、という疑念に、私はとらわれてしまうのです。
ともかく、いくらモンブラン伯爵がフランス人であっても、フリューリ・エラールが個人的に対日貿易を独占する、というのは、自由貿易主義者として、賛成しかねることだったんじゃないんでしょうか。

さらに、なぜモンブランが、密航薩摩藩士に会ったか、という問題なんですが、池田筑前守が、帰国後罷免になったという話は、モンブランの耳にも届いていたと思われます。
池田筑前守に、モンブランが長州を幕府が討つべきだと語ったとして、その時点での話は、瀬戸内海航路安全のために、「攘夷」と称する長州の無法な発砲を咎め、二度とそういうことが起こらないようにするためです。
これは、日本が統一国家として全面的に開国し、自由貿易を促進するべきだ、という見解からの発想なのですから、横浜鎖港に失敗したからといって、池田筑前守を咎め、今度は貿易を独占しようとしているらしい幕府に、モンブランは失望を禁じ得なかったのではないでしょうか。

モンブランが来日していた文久2年(1862)は、生麦事件の起こった年でした。薩摩藩のつもりがどうであったにせよ、薩摩が攘夷の旗頭のように見られた時期に、モンブランは日本にいたのです。
その薩摩藩士が、欧州まで出向いて来ているとなれば、当然、好奇心が起こるでしょう。
モンブランが幕府に失望を感じていたとなれば、なおさらです。
モンブランと五代が実際に出会って、五代は、生麦事件が攘夷ではなかったことを熱弁したでしょうし、当然、薩摩は海外貿易をもっとしたいのだが幕府が邪魔をしているのだと、持論を語ったでしょう。
その弁舌とあいまって、なによりもモンブランを動かしたのは、薩摩藩が現実に、欧州まで留学生と使節団を送ってきている、という事実だったのではないでしょうか。
欧州において、国家の誕生は、戦いと外交交渉の積み重ねによって、可能になっていたわけです。
帝を中心とした新しい日本へ向けて、欧州で外交交渉をしようという薩摩藩の意欲は、高く日本人を評価していたモンブランを、強くゆさぶったでしょう。

結果、五代と寺島、そしてモンブランの合作だと思える日本の現状表現は、『日本は天皇をいただく諸侯連合国』となったわけなのですが、しかしそれはけっして、藩がそれぞれに外交権を持つような独立国である、という認識では、ないでしょう。
なぜならば、先の話ですが、慶応3年(1867)のパリ万博で、薩摩は薩摩国名義ではなく、琉球国名義を使うことにしているからです。
薩摩は、けっして外交権を持つ独立国ではない。しかし、その薩摩が独自に外交をしているのは、帝を中心とする新しい日本を作るためである………。
そういう認識が根底にあったのではないか、ということを、推測できる材料があります。

慶応元年(1865)12月7日、ちょうど、五代がヨーロッパ地理学会出席を果たし、ロンドンの寺島のもとへその報告をもたらし、さらに話し合いを重ねただろう後、ということになりますが、寺島は、薩摩藩の蘭学仲間だった中原猶介のもとへ、手紙を書いています。
「5年前イタリヤに有名の将ガリバルチなる者、このパラガンタ(プロパガンダ)の術をもって国人を説き、王の兵を借らすして義勇の兵を越し、ローマ・リアを撃ち、ついにサルヂニー小国王をしてイタリア全国王となし、功なって郷里に帰り余生を養えり。今年六十ばかり。先日ロントンに参りたるよし。欧にては三歳の児もこの名を知らんものはなし」

ガリバルディは、いうまでもなく、イタリアのリソルジメント(統一戦争)の英雄です。
この手紙から半年後、イタリアはプロシャと同盟してオーストリアと戦い、オーストリア領だったヴェネチアを統合して、統一を完成させています。
プロシャもまた、オーストリアに勝利し、さらに明治維新の2年後にはじまった普仏戦争の勝利によって、ドイツ帝国を成立させます。
近代国家としての発展には、中央集権化が必要なのであり、諸侯連合国から統一国家へという道筋は、当時の欧州に、イタリア、ドイツという現在進行形の見本があったのです。

寺島は、ガリバルディが果たした役割を、島津久光の行動とくらべていますから、その例えでいうならば、サルデーニャ王が帝なわけです。
続けて寺島は、久光が割拠論に傾いていることを憂えていて、目標として統一国家を見る必用を説いているのですが、一応、理想としては「将軍・諸侯・国人相合し」としながら、その直後に、幕府の専横を始皇帝に例えて痛烈に批判していますので、結局のところは、幕藩体制を否定し、帝を中心とする統一国家を提唱しているに等しいのです。
そして、その帝を中心とする統一国家を実現するためには、ガリバルディがしたように「プロパガンダ」、寺島が言う「プロパガンダ」とは「入説」に近いのですが………、ともかく「プロパガンダ」を行うことが大切だ、ということなのですから、イギリス公使館員アーネスト・サトウへの働きかけも、春嶽候を狙った越前藩士へのささやきも、すべては、「帝を中心とする統一国家」実現への「プロパガンダ」なのです。

おそらく、モンブランやロニーにとって、五代や寺島が語る「日本の現状」は、プロシャやイタリアを想起すれば、わかりやすかったのでしょう。
そして、日本のリソルジメントをめざす薩摩隼人たちに、モンブラン伯爵は、わくわくしてしまったのではないのかと、私はつい、妄想してしまうのです。

次回に続きます。


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