いつものお方から、あんまりにもいいものをいただきましたので、今日はちょっと白山伯をお休みしまして、今を去る百数十年前、花のパリをかけめぐった二人の会津武士のお話を。
ふう、びっくりしたー白虎隊や土方歳三はアラビア馬に乗ったか?vol2に出てまいりました、横山主悦常忠と海老名李昌です。
横山が弘化4年(1847)生まれですから、欧州へ渡った慶応3年(1867)には、数えで21歳。
海老名は天保14年(1843)で数えの25歳。
玉川芳男編著『幕末明治を記録した夫婦 海老名李昌・リンの日記』(2000年発行 歴史春秋出版株式会社)に二人の写真と、海老名の日記が載っていたんですが、これが………、実にいい男なんです、二人とも。
わけても横山、パリで写した写真で、なおちょんまげを落としていなくて、和装なんですが、私、ここまで貴公子然としたいい男を、見たことないですわ。
一方、海老名も和装ですが、こちらは渋め。やはり品はいいのですが、少しワイルドな感じです。
ああ!!! きっとこんな感じだったんですわ。
海老名は後年、北会津郡長や会津町長を務め、妻のリンはキリスト教に入信し、若松幼稚園、若松女学校を設立したんだそうです。前記の本は、若松幼稚園の園長さんが出されたもので、残念ながら、原文で載っているのは海老名が欧州へ出かけたときの日記の一部だけ。残りは口語訳っていうんでしょうか、一般にわかりやすい、ですます調に直してあって、ちょっと面食らうんですが、ありがたい本です。
海老名家は、代々軍事奉行を務める家柄で、本来は江戸詰めであったそうです。それで、会津には屋敷がなかったとか。
しかし、李昌は会津で生まれました。長男です。
三歳の時に天然痘にかかり、なんとか一命はとりとめましたが、その後遺症から病弱でした。
6歳のころ、お向かいの家で漢文を学ぶようになりましたが、先生のところで、孝経を開いたとたんに気を失って倒れ、学問はいやだ、と思ったんだそうです。
しかし、成長するにしたがい、李昌はたくましくなり、学問、武術ともにすぐれ、お小姓にとりたてられたりもしました。
十代のころには、父の勤務にしたがって蝦夷地に行き、やがて単身で京都勤番。禁門の変の活躍で取り立てられ、会津へ帰って家督を継いだ後、再び京都へ出て、大砲組組頭となります。
そして慶応2年の11月(旧暦)、横山常忠とともに、徳川民部公子のお供で、パリへ行くことを命じられたのです。
横山家は知行千三百石、代々家老職の家柄でした。
常忠は江戸で生まれ、幼い頃に父を亡くし、祖父の跡継ぎと定められます。
江戸表奏者番見習いとなって、11歳で藩主にお目見え。
文武修業で優秀な成績を収め、19歳で祖父の跡を継ぎ、当主となります。
20歳で京都勤番、21歳で海老名とともにパリ遊学を命じられました。
海老名によれば、11月に命令が出て、12月に出発です。
二人とも、漢学では非常に優秀で、家柄と相まって選ばれたみたいなんですが、フランス語どころか、英語もオランダ語も、まるで学んだことがなかったようなのですね。
当然、さっぱり言葉がわかりません。
だというのに、です。パリに着いてしばらくすると、幕府使節団の外国奉行組頭・田辺太一に、会津の横山、海老名と、唐津藩(藩主・小笠原長行)からただ一人参加していた尾崎俊蔵が呼び出され、「公子は別の旅館にお移りになる。君たちは、これを機会に勝手にしなさい」と申し渡されたのだとか。
海老名は、「約束がちがう」と腹立たしかったのですが、その方が自由に遊学できるかもしれない、と思い直し、メルメ・カションを師にして、フランス語を詰め込みました。
メルメ・カションは、カトリックの宣教師で、長く日本にいて、非常に日本語が達者です。
在日時の実績から、幕府使節団の正式通訳になれると踏んでいたところが、思惑がはずれ、へそをまげていました。「利と名をむさぼる事はなはだしい」と海老名は評していて、好ましい人柄ではなかったようですが、日本語能力はすぐれていますから、速習教師としてはよかったようです。
海老名はかなりの堅物だったみたいでして、産業、軍事、政治、社会、産物などなど、そんな記事がほとんどです。
「人は富める者でなければ貴ばれないので、貧者はどうしようもなく一生苦役をし、筋骨が衰えれば老院に入るばかりです。私ははなはだ気の毒に思います」
あー、花のパリで! まじめです。誉めているところは、以下。
「人々は善行を誉める風習があります。事を秘密にすることは更にありません。政府も同様です。新事ができれば新聞紙に書き、政治堂に人を集めてその事を説き聞かせます。異議があればねんごろに論争した上で実施します。事によりすでに起きたことは後で人にこうであったと説いて知らせます」
ほんとーに、まじめです。
7月からは、欧州各国をまわります。これが、二人でまわったものなのか、唐津藩の尾崎もいっしょだったのか、そこらへんがよくわかりません。カションに語学を学んだときには、尾崎もいっしょだった、と書いているんですけど。
会津の二人は、和装の写真しか残ってないようなのですが、尾崎は、和装と洋装と、二枚の写真を残しています。それ以外、尾崎についてはさっぱりわかりませんので、ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、冷たい幕府使節団も、会津の二人が欧州をめぐるにあたっては、各国政府への紹介状を出してくれたんだそうです。
スイスでは、初めての日本人だというので、国賓待遇でした。イタリア、バルカン半島、ブルガリアかと思われる東欧の国、オーストリア、ロシア、プロシア、オランダ、ベルギー、イギリス。
これだけの国をかけめぐったんですが、オランダでは、こうしるしています。
「長州をうちて勝利を得たる軍艦帰り祝う。余、朝敵なれども同国のことなれば身を潜め見るにしのびず」
そうなんです。長州の方が、朝敵だったはずでした。
しかし、二人がフランスから帰国の途についた11月、故国では、事態が急展開していました。
海老名は、帰国早々、鳥羽伏見を戦い、戦傷を受けます。
横山主税は、若年寄となって白河口で総軍を指揮。一度は防戦に成功しますが、新政府軍の反攻で、乱戦の中、戦死。数えで22歳の若さでした。
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ふう、びっくりしたー白虎隊や土方歳三はアラビア馬に乗ったか?vol2に出てまいりました、横山主悦常忠と海老名李昌です。
横山が弘化4年(1847)生まれですから、欧州へ渡った慶応3年(1867)には、数えで21歳。
海老名は天保14年(1843)で数えの25歳。
玉川芳男編著『幕末明治を記録した夫婦 海老名李昌・リンの日記』(2000年発行 歴史春秋出版株式会社)に二人の写真と、海老名の日記が載っていたんですが、これが………、実にいい男なんです、二人とも。
わけても横山、パリで写した写真で、なおちょんまげを落としていなくて、和装なんですが、私、ここまで貴公子然としたいい男を、見たことないですわ。
一方、海老名も和装ですが、こちらは渋め。やはり品はいいのですが、少しワイルドな感じです。
ああ!!! きっとこんな感じだったんですわ。
海老名は後年、北会津郡長や会津町長を務め、妻のリンはキリスト教に入信し、若松幼稚園、若松女学校を設立したんだそうです。前記の本は、若松幼稚園の園長さんが出されたもので、残念ながら、原文で載っているのは海老名が欧州へ出かけたときの日記の一部だけ。残りは口語訳っていうんでしょうか、一般にわかりやすい、ですます調に直してあって、ちょっと面食らうんですが、ありがたい本です。
海老名家は、代々軍事奉行を務める家柄で、本来は江戸詰めであったそうです。それで、会津には屋敷がなかったとか。
しかし、李昌は会津で生まれました。長男です。
三歳の時に天然痘にかかり、なんとか一命はとりとめましたが、その後遺症から病弱でした。
6歳のころ、お向かいの家で漢文を学ぶようになりましたが、先生のところで、孝経を開いたとたんに気を失って倒れ、学問はいやだ、と思ったんだそうです。
しかし、成長するにしたがい、李昌はたくましくなり、学問、武術ともにすぐれ、お小姓にとりたてられたりもしました。
十代のころには、父の勤務にしたがって蝦夷地に行き、やがて単身で京都勤番。禁門の変の活躍で取り立てられ、会津へ帰って家督を継いだ後、再び京都へ出て、大砲組組頭となります。
そして慶応2年の11月(旧暦)、横山常忠とともに、徳川民部公子のお供で、パリへ行くことを命じられたのです。
横山家は知行千三百石、代々家老職の家柄でした。
常忠は江戸で生まれ、幼い頃に父を亡くし、祖父の跡継ぎと定められます。
江戸表奏者番見習いとなって、11歳で藩主にお目見え。
文武修業で優秀な成績を収め、19歳で祖父の跡を継ぎ、当主となります。
20歳で京都勤番、21歳で海老名とともにパリ遊学を命じられました。
海老名によれば、11月に命令が出て、12月に出発です。
二人とも、漢学では非常に優秀で、家柄と相まって選ばれたみたいなんですが、フランス語どころか、英語もオランダ語も、まるで学んだことがなかったようなのですね。
当然、さっぱり言葉がわかりません。
だというのに、です。パリに着いてしばらくすると、幕府使節団の外国奉行組頭・田辺太一に、会津の横山、海老名と、唐津藩(藩主・小笠原長行)からただ一人参加していた尾崎俊蔵が呼び出され、「公子は別の旅館にお移りになる。君たちは、これを機会に勝手にしなさい」と申し渡されたのだとか。
海老名は、「約束がちがう」と腹立たしかったのですが、その方が自由に遊学できるかもしれない、と思い直し、メルメ・カションを師にして、フランス語を詰め込みました。
メルメ・カションは、カトリックの宣教師で、長く日本にいて、非常に日本語が達者です。
在日時の実績から、幕府使節団の正式通訳になれると踏んでいたところが、思惑がはずれ、へそをまげていました。「利と名をむさぼる事はなはだしい」と海老名は評していて、好ましい人柄ではなかったようですが、日本語能力はすぐれていますから、速習教師としてはよかったようです。
海老名はかなりの堅物だったみたいでして、産業、軍事、政治、社会、産物などなど、そんな記事がほとんどです。
「人は富める者でなければ貴ばれないので、貧者はどうしようもなく一生苦役をし、筋骨が衰えれば老院に入るばかりです。私ははなはだ気の毒に思います」
あー、花のパリで! まじめです。誉めているところは、以下。
「人々は善行を誉める風習があります。事を秘密にすることは更にありません。政府も同様です。新事ができれば新聞紙に書き、政治堂に人を集めてその事を説き聞かせます。異議があればねんごろに論争した上で実施します。事によりすでに起きたことは後で人にこうであったと説いて知らせます」
ほんとーに、まじめです。
7月からは、欧州各国をまわります。これが、二人でまわったものなのか、唐津藩の尾崎もいっしょだったのか、そこらへんがよくわかりません。カションに語学を学んだときには、尾崎もいっしょだった、と書いているんですけど。
会津の二人は、和装の写真しか残ってないようなのですが、尾崎は、和装と洋装と、二枚の写真を残しています。それ以外、尾崎についてはさっぱりわかりませんので、ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、冷たい幕府使節団も、会津の二人が欧州をめぐるにあたっては、各国政府への紹介状を出してくれたんだそうです。
スイスでは、初めての日本人だというので、国賓待遇でした。イタリア、バルカン半島、ブルガリアかと思われる東欧の国、オーストリア、ロシア、プロシア、オランダ、ベルギー、イギリス。
これだけの国をかけめぐったんですが、オランダでは、こうしるしています。
「長州をうちて勝利を得たる軍艦帰り祝う。余、朝敵なれども同国のことなれば身を潜め見るにしのびず」
そうなんです。長州の方が、朝敵だったはずでした。
しかし、二人がフランスから帰国の途についた11月、故国では、事態が急展開していました。
海老名は、帰国早々、鳥羽伏見を戦い、戦傷を受けます。
横山主税は、若年寄となって白河口で総軍を指揮。一度は防戦に成功しますが、新政府軍の反攻で、乱戦の中、戦死。数えで22歳の若さでした。
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