あー、やっと確定申告がすみました。で、いきなり、なんですが。
もしかしてモンブラン伯爵は、明治大帝が初めてあった外国人であったのか?
と、思えてきたりしまして。
確証はありません。ありませんがしかし……。
リーズデイル卿、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードは、幕末の日本に駐在したイギリスの外交官です。
幕末の駐日イギリス公使は、オールコックからパークスに引き継がれまして、維新当時はパークスです。
ミットフォードは、そのパークスの下にいまして、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)、京都の御所で、パークスとともに、明治天皇にお目にかかっているのです。
そもそも、です。王政復古のクーデター(慶応3年12月9日)は、兵庫(神戸)開港式典(12月7日)の二日後です。
兵庫(神戸)開港と同時に、大阪にも外国人居留地を設ける、という話になっていまして、大阪城のそばに居留地ができようとしていました。
つまり、駐日外交官は神戸に集結していまして、その目の前で、維新回天の動乱はくりひろげられたわけです。
鳥羽伏見の戦いの後、これまで一度も外国人と接したことがなかった西日本各藩の軍が関西に集結し、外国人殺傷事件が多々起こるんですが、維新政権としましては、です。それをふせぐ意味からも、また、欧米各国に新しい政権を承認させる必要からも、明治天皇の各国公使接見が急務となったんですね。
しかし、京の公家たちはもめました。それはそうでしょう。外国人を京都に近づけたくないと、兵庫開港もなかなか実現しなかったんです。それが、「禽獣のような」外国人が千年の都へ押し入り、帝のおそばに近づこうというのです。いったい、なんのための維新だったのか、と、いうことになるんです。わけても、宮中の女性たちにとっては。
もっとも強く反対したのは、明治天皇のご生母、中山慶子であったといいます。
そんな反対をねじふせて、明治元年3月23日(慶応4年2月30日)、フランス、イギリス、オランダ3公使の接見となるんですが、鹿鳴館と伯爵夫人に書きましたように、イギリス公使パークスは暴漢に襲われまして……、いえ、暴漢ではなく志士ですね。維新回天がなったかと思えば帝が「禽獣のような」外国人に会われるとは、政治的ではなかった、純粋な尊攘檄派の志士にとっては、裏切り行為です。
まあ、ともかく、その日の接見は、フランス、オランダ公使のみとなり、パークス公使とミッドフォードは、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)に改めて接見、となったような次第です。
フランス、オランダ公使の感想については、中山和芳著『ミカドの外交儀礼?明治天皇の時代』で、見ることができます。
次いで、パークス公使の接見は、冒頭の『リーズデイル卿回想録』に詳しいんですが、ともかく、それらを総合しますと、風俗は朝廷風でありながら、西洋の王族の接見と、大きくかけ離れたものではなかったようなのです。
会場は、京都御所の紫宸殿です。
控えの間には、赤と黒の漆塗りの小型の円卓が並べられ、待つ間、茶と菓子(カステラ)とタバコが供されます。
そして、どこからともなく雅楽の演奏が聞こえます。
時間になりますと、衣冠束帯(だと思うんですが)姿の案内人が、公使たちを案内します。
雅楽の演奏は、紫宸殿の縁側に並んだ楽人たちによるもので、ずっと続いています。
紫宸殿の部屋そのものは、とても簡素なのですが、中央に黒い漆塗りの細い柱で支えられた天蓋があり、天蓋の中、左右には木彫りの獅子の像、そして中央、「ゴシック風の椅子」に、明治天皇は腰掛けておられました。
少年帝は、お歯黒、化粧をされていて、白い上位に赤くて長い袴姿、とありますから、お引き直衣でおられたんですね。
ミッドフォードによれば、「このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並たいていのわざではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた」のだそうです。
公使たちが入場すると帝は立ち上がられます。
「彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった」
日本側の廷臣はみな「ひざまずいて」いましたが、公使たちは立ったままで、深々と礼をします。
公使の挨拶を受けられると、帝が一言二言話されて、おそばの山階宮に文書を渡される。山階宮がそれを読み上げ、通訳の伊藤博文が英語でその内容を伝える、という順序だったようです。
しかし……、今気づいたんですけど、お引き直衣って……、帝は普段着でおられってことなんでしょうか。うーん。
平安時代のお引き直衣は普段着なんですけど、幕末にはどうだったのか、よくは知らないんですが。
ともかく、です。帝が公式に外国の使節に会われるって、いったい、何百年ぶりでしょうか。
渤海使の接見は、いつが最後なんでしょう? 詳しい方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、あまりにも大昔のことで、前例もなにもないわけでして、とりあえず、各国公使側の希望としては西洋風でしょうけれども、では実際に欧州の皇室、王室は、どのように接見を行っているのか、日本側には、だれ一人見たことのある者はいないんです。
幕府側には、わずかながら経験のある者もあったわけですが、なにしろ、まだ東海道軍が江戸に到達していませんで、戦争はこれから、状態。
公使側に聞くといっても、公使を捕まえて「で、お国ではどんなもんで?」とか、詳しく聞いたら、それだけ相手のペースにまきこまれて、交渉になりませんよね。かろうじて、例えば、イギリス公使館のアーネスト・サトウをつかまえて、さりげなく聞き出す、とか、一応考えられなくもない感じがするんですが、これが、だめなんです。
長く日本にいて、日本語の達者なサトウが、なぜ帝に謁見できなかったか、といえば、自国の宮廷で謁見の経験がなかったからなんですね。
そういう欧州外交官の風習なども、だれから聞き出したものか、と思うのです。
そこで、モンブラン伯爵の登場です。フランスの伯爵にして、ベルギーの男爵。
彼がこの時期、新政府の外交にアドバイスをしていたことについては、かなりの証拠があります。
だったとすれば、「世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎ」で、御簾の中の半神だった少年帝が、西洋風の接見をなさるにあたっても、当然、アドバイスをしたものと考えられるでしょう。
しかし、公使を接見する以前に、モンブラン伯爵が謁見したかどうかについては、まあ、妄想の領域になってしまうんですけどね。ありえたのではないか、と、つい、思ってしまうわけなのです。
で、なぜモンブラン伯爵は、この動乱期の新政府に食い込んでいたのか。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 に続く時期から、順を追ってお話していこうかと思います。
というわけで、次回に続きます。
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確証はありません。ありませんがしかし……。
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リーズデイル卿、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードは、幕末の日本に駐在したイギリスの外交官です。
幕末の駐日イギリス公使は、オールコックからパークスに引き継がれまして、維新当時はパークスです。
ミットフォードは、そのパークスの下にいまして、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)、京都の御所で、パークスとともに、明治天皇にお目にかかっているのです。
そもそも、です。王政復古のクーデター(慶応3年12月9日)は、兵庫(神戸)開港式典(12月7日)の二日後です。
兵庫(神戸)開港と同時に、大阪にも外国人居留地を設ける、という話になっていまして、大阪城のそばに居留地ができようとしていました。
つまり、駐日外交官は神戸に集結していまして、その目の前で、維新回天の動乱はくりひろげられたわけです。
鳥羽伏見の戦いの後、これまで一度も外国人と接したことがなかった西日本各藩の軍が関西に集結し、外国人殺傷事件が多々起こるんですが、維新政権としましては、です。それをふせぐ意味からも、また、欧米各国に新しい政権を承認させる必要からも、明治天皇の各国公使接見が急務となったんですね。
しかし、京の公家たちはもめました。それはそうでしょう。外国人を京都に近づけたくないと、兵庫開港もなかなか実現しなかったんです。それが、「禽獣のような」外国人が千年の都へ押し入り、帝のおそばに近づこうというのです。いったい、なんのための維新だったのか、と、いうことになるんです。わけても、宮中の女性たちにとっては。
もっとも強く反対したのは、明治天皇のご生母、中山慶子であったといいます。
そんな反対をねじふせて、明治元年3月23日(慶応4年2月30日)、フランス、イギリス、オランダ3公使の接見となるんですが、鹿鳴館と伯爵夫人に書きましたように、イギリス公使パークスは暴漢に襲われまして……、いえ、暴漢ではなく志士ですね。維新回天がなったかと思えば帝が「禽獣のような」外国人に会われるとは、政治的ではなかった、純粋な尊攘檄派の志士にとっては、裏切り行為です。
まあ、ともかく、その日の接見は、フランス、オランダ公使のみとなり、パークス公使とミッドフォードは、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)に改めて接見、となったような次第です。
フランス、オランダ公使の感想については、中山和芳著『ミカドの外交儀礼?明治天皇の時代』で、見ることができます。
次いで、パークス公使の接見は、冒頭の『リーズデイル卿回想録』に詳しいんですが、ともかく、それらを総合しますと、風俗は朝廷風でありながら、西洋の王族の接見と、大きくかけ離れたものではなかったようなのです。
会場は、京都御所の紫宸殿です。
控えの間には、赤と黒の漆塗りの小型の円卓が並べられ、待つ間、茶と菓子(カステラ)とタバコが供されます。
そして、どこからともなく雅楽の演奏が聞こえます。
時間になりますと、衣冠束帯(だと思うんですが)姿の案内人が、公使たちを案内します。
雅楽の演奏は、紫宸殿の縁側に並んだ楽人たちによるもので、ずっと続いています。
紫宸殿の部屋そのものは、とても簡素なのですが、中央に黒い漆塗りの細い柱で支えられた天蓋があり、天蓋の中、左右には木彫りの獅子の像、そして中央、「ゴシック風の椅子」に、明治天皇は腰掛けておられました。
少年帝は、お歯黒、化粧をされていて、白い上位に赤くて長い袴姿、とありますから、お引き直衣でおられたんですね。
ミッドフォードによれば、「このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並たいていのわざではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた」のだそうです。
公使たちが入場すると帝は立ち上がられます。
「彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった」
日本側の廷臣はみな「ひざまずいて」いましたが、公使たちは立ったままで、深々と礼をします。
公使の挨拶を受けられると、帝が一言二言話されて、おそばの山階宮に文書を渡される。山階宮がそれを読み上げ、通訳の伊藤博文が英語でその内容を伝える、という順序だったようです。
しかし……、今気づいたんですけど、お引き直衣って……、帝は普段着でおられってことなんでしょうか。うーん。
平安時代のお引き直衣は普段着なんですけど、幕末にはどうだったのか、よくは知らないんですが。
ともかく、です。帝が公式に外国の使節に会われるって、いったい、何百年ぶりでしょうか。
渤海使の接見は、いつが最後なんでしょう? 詳しい方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、あまりにも大昔のことで、前例もなにもないわけでして、とりあえず、各国公使側の希望としては西洋風でしょうけれども、では実際に欧州の皇室、王室は、どのように接見を行っているのか、日本側には、だれ一人見たことのある者はいないんです。
幕府側には、わずかながら経験のある者もあったわけですが、なにしろ、まだ東海道軍が江戸に到達していませんで、戦争はこれから、状態。
公使側に聞くといっても、公使を捕まえて「で、お国ではどんなもんで?」とか、詳しく聞いたら、それだけ相手のペースにまきこまれて、交渉になりませんよね。かろうじて、例えば、イギリス公使館のアーネスト・サトウをつかまえて、さりげなく聞き出す、とか、一応考えられなくもない感じがするんですが、これが、だめなんです。
長く日本にいて、日本語の達者なサトウが、なぜ帝に謁見できなかったか、といえば、自国の宮廷で謁見の経験がなかったからなんですね。
そういう欧州外交官の風習なども、だれから聞き出したものか、と思うのです。
そこで、モンブラン伯爵の登場です。フランスの伯爵にして、ベルギーの男爵。
彼がこの時期、新政府の外交にアドバイスをしていたことについては、かなりの証拠があります。
だったとすれば、「世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎ」で、御簾の中の半神だった少年帝が、西洋風の接見をなさるにあたっても、当然、アドバイスをしたものと考えられるでしょう。
しかし、公使を接見する以前に、モンブラン伯爵が謁見したかどうかについては、まあ、妄想の領域になってしまうんですけどね。ありえたのではないか、と、つい、思ってしまうわけなのです。
で、なぜモンブラン伯爵は、この動乱期の新政府に食い込んでいたのか。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 に続く時期から、順を追ってお話していこうかと思います。
というわけで、次回に続きます。
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