モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1の続きです。
時期的には、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 の続きとなります。
1865年6月21日(慶応元年5月28日)、薩摩藩密航イギリス留学生の一行が、ロンドンに着きました。
しかしこの一行、先にイギリスに密航していた長州ファイブとは趣がちがい、多分に政治的意図を持った、薩摩藩外交団でもありました。
外交の中心にあったのは、随行の五代友厚と寺島宗則(松木弘安)です。
この二人、 花の都で平仮名ノ説で書きましたように、薩英戦争でわざと英艦の捕虜になり、その後、清水卯三郎にかくまわれていたりしたんですね。
で、卯三郎自身の回想では、寺島は古くからの友人だったけれど、五代には英艦で初めて会ったようです。
卯三郎さん、長崎のオランダ海軍伝習を受けたくて、八方手を尽くして長崎まで行った過去があります。結局、町人であるから、というので、勝海舟にも冷たくあしらわれ、望みはかなわなかったのですが、このとき五代にも会ったりしたかな、と思ったんですが、会ってなかったんですね。
卯三郎さんがひらがなで語るところの五代と寺島は………、もうなんといいますか、なにをするかわからない無鉄砲な夫と、心配性の妻、といった趣で、笑えます。
天祐丸艦長だった五代は、船ごと英艦に拿捕されるのですが、無念やる方なく、火薬庫に火をつけようとします。同時に捕まった寺島は、「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふてさまたげたり」。
えー、漢字は勝手に入れましたが、かな文のせいなんでしょうか、なんかこう、楚々とした賢夫人が夫をたしなめている風情がありません?
あー、写真で見る寺島は、かなりの身長があり、顔つきはけっこうごつい上に、五代より三つ上で、30を越えてます。
敵(イギリス)に通じたと疑いをかけられた二人は、卯三郎さんの故郷の親戚、吉田家にかくまわれますが、そこでも、寺島は大人しくしていたのに、五代は落ち着かず、ひそかに江戸へ遊びに出たりしたあげくに、吉田家の次男、吉田二郎をともなって長崎へ行き、グラバーのもとに身をよせ、藩に建白書を出すことになったんです。
一方の寺島は、ひたすら大人しく身をひそめていましたところが、薩摩藩江戸藩邸の岩下方平、大久保利通などが手をつくしてさがしだし、一年ぶりの江戸帰還となったもののようです。
寺島は元が蘭方医で戦嫌い。学者肌です。モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2で書きましたように、幕府の蕃書調所教授でもあり、文久2年の幕府最初の遣欧使節団に参加していて、福沢諭吉と仲良しでした。
五代の破天荒な欧州行きが受け入れられ、藩命を受けて、江戸から薩摩へ帰ったのですが、思うに、です。卯三郎さん流にゆいますと、「君のさあらんことを知りしかば、われ、うなずけり。こたびは、君につきしたごうて助けん」だったんでしょう。
上記の本によれば、寺島は、イギリスに着くと同時に、旧知のローレンス・オリファントに会い、イギリス外務省の政務次官レイヤードに、紹介してもらっています。
オリファントは、江戸は極楽であるに詳しく書きましたが、在日経験のある親日家で、帰国後、下院議員になっていました。
このときの寺島の提案は、薩摩藩内に外国貿易のための港を開きたい、ということでした。
それを、です。寺島はイギリス外務省に直接交渉しようとしているのですから、薩摩藩はすでにこのとき、独立国気分です。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3において、「肥田浜五郎のモンブラン接近と、五代友厚の肥田浜五郎への接近が交錯し」と書いたのですが、おそらく、肥田浜五郎とモンブラン、モンブランと五代を結びつけるのに介在したのは、オランダの貿易会社代理人で、長崎駐在領事だったアルベルト・ボードウィンではなかったでしょうか。
というのも、維新直後の事ですが、ボードウィンを通じて、薩摩藩はオランダ系金融機関から多額の融資を受け、グラバーなどからのそれまでの借金を、一気に返しているからです。もっとも、そのオランダ系金融機関からの借金も、廃藩置県までには、ほぼ返し終えているそうですが。
1865年8月9日(慶応元年6月18日)、モンブラン伯の使者であっただろうジェラールド・ケンは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!のレオン・ド・ロニーとともに、ロンドンの五代や寺島のもとに姿を現します。
ロニーは文久2年(1862)の竹内使節団の接待役で、寺島は使節団の随行員だったわけですから、二人は知り合いです。ロニーが紹介役を務めたわけなんでしょうね。
ケンはもちろん、すでにフランスで、肥田浜五郎に会っています。
そして、五代は、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)とともに、7月25日(旧暦9月14日)、ロンドンを発って、モンブランの待つベルギーへ向かいます。
この日から、五代の日記が残っているのですが、昨日の花冠の会津武士、パリへ。の海老名日記にくらべますと、そりゃあもう、気分は一国の外交官ですから、趣がちがいます。
一行はベルギー、プロシャ、オランダをかけめぐり、再びベルギーにもどった後、パリへ赴くんですが、五代もそれぞれの国情や産業に関する観察は、端的に記しています。
しかし、しっかりと遊んだ様子も書いていまして、パリでは美味を堪能し、オペラや芝居も見物し、モンブランに案内されて、遊女も買っております。
話が先走りました。
五代一行は、まずインゲルムンステル城に迎えられ、モンブラン家の狩猟場で鳥打ちに興じ、五代は「欧羅巴(ヨーロッパ)行以来にて、始て快愉に思う」と記しています。
そうでしょうねえ。
なにしろ薩摩藩士は、狩りが好きです。桐野の日記でも、滞京中、藩士仲間で誘い合わせて山へ猪狩りにいっていたりしまして、ロンドンの町中で2ヶ月も閉じこもったあと、ひろびろとした私猟地で駆け回るのは、楽しかったでしょう。
そしてブリュッセルでは、ベルギー王子に面会していますし、モンブラン個人ではなく、ベルギー政府そのものと、交渉していたわけなのです。
五代のパリ滞在はけっこう長く、11月13日(和暦9月24日)から12月20日(和暦11月3日)まで、一ヶ月を超えます。
その間、モンブランとはもちろん幾度も会っていますし、5日間ほどは、ロンドンから寺島も来ていて、その間に、ロニーも顔を出しますし、なぜか「新聞屋」の接待も受け、「ケンが肥田浜五郎に会った」と記されていたりします。
ベルギーとの貿易の件や、パリ万博参加の件は、すでに話終わった時点ですので、いったいなにを話あっているのかと思われるのですが、寺島がロンドンへ帰ってまもなく、今度は、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?で書きましたように、幕府のオランダ留学生だった津田真道と西周が姿を現します。
わざわざ、津田、西と知り合いの寺島が時期をずらしたのはなぜか、考えてみたんですけど、寺島は知り合いだからこそ、つまり幕府の蕃書調所にも属していながらの密航ですので、とりあえず、やはり、顔を合わすのはまずい、ということだったのではないんでしょうか。
津田と西がオランダに留学していることは、当然、寺島は知っています。
フリーメーソンのネットワーク、ライデン大学との交流を考えれば、当然、ロニーも知っていたでしょう。
モンブラン、あるいはロニーが、津田と西を呼んだのではないかと思うのです。
なんのためかといえば、五代と新納に、欧州各国の政体や歴史、法律などの詳しい説明をしてもらうためです。
もちろん、そんなことは、モンブランやロニーの方がよく知っているわけなのですが、言葉の壁があります。
どうも、ケンはそれほど学問があったようではないですし、薩摩側通訳の堀にしても、日本で語学の勉強をしただけです。欧州の歴史や政治制度を詳細に日本語で説明するには、訳語を作る必要もあり、漢学や国学にも詳しくなければなりません。
津田と西は、幕臣である前に学者ですから、知識を乞われるならば、喜んで応じたでしょう。
五代は、津田と西の解説を受けて、薩摩が描くところの日本のあるべき姿を、西洋人、つまりモンブランやロニーにわかりやすい形で、説明することができたのではないでしょうか。
五代と新納がなぜ、長期にわたってパリに滞在したか。
12月19日(和暦11月2日)、パリで開催されたヨーロッパ地理学会に出席するためです。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈5〉外国交際』によれば、この地理学会で、モンブランは、日本の現状について講演しています。その内容を引用すれば、こういうことです。
「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない。諸外国がこの将軍と条約を結んでいるところに諸悪の根源があり、幕府は諸外国から中央政府とみなされることを利用して、外国貿易の利益を独占し、他の諸侯を抑圧している。諸侯はこの幕府の独占体制を打破しようとしているのであって、その本心は、西欧諸国との友好関係を切望している。その証拠に諸侯は使節団や留学生をヨーロッパに派遣し、西欧諸国との接触をふかめる努力をつづけている」
その使節団や留学生として、五代と新納、堀、そしてどうも、このときロンドンから幾人か呼んでいたのではないか、という節もうかがえ、数人の薩摩人が出席し、挨拶をしたのでしょう。
あきれてものが言えません。
慶応元年11月2日です。薩長連合もまだ成立していません。
密航留学生を送り出しているのは薩摩と長州だけですし、使節団って……、密航使節団を送ろうなどと思いついて実行しているのは、薩摩だけです。
この時点で、「幕府の独占体制を打破しようとしている」諸侯の数など、しれていたでしょう。積極的なのは、薩摩と長州のみではなかったでしょうか。
一致した「諸侯」の意志なぞ、ありえようはずもないわけですから、これはもうすでに、武力倒幕を視野に入れた認識です。
それでいて五代は、柴田使節団に随行していた幕臣には、「密航留学生を出すのは、日本がヨーロッパに劣らないようにとのみ思ってのこと。日本のためは幕府のため。幕府に異心など毛頭無い」と語ったんだそうです。
五代たちは、「新聞屋」にも紹介してもらっています。
すでにもうこの時、慶応3年(1867)のパリ万博において、薩摩藩が琉球国名義で、独立国であるかのように参加し、それを新聞に書かせて宣伝する協議は、なされていたと思われます。
その点に関しては、モンブランがフランス人であったことは幸いでした。
フランスは、この時期からおよそ20年ほど前、7月王制期に、琉球に軍艦を派遣し、通商貿易とカトリック布教を迫っていたのです。薩摩藩はそのとき、警備隊を派遣しますが、結局、通商のみを許可し、布教は禁じます。とはいえ、ひそかにフランス人神父が滞在して、布教を試みたりもしていたのです。
前藩主・島津斉彬が、藩の軍制改革、近代化に力をそそぐ、きっかけになった事件でした。
当然、新納も五代もそれは知っていますし、一方、日本通のフランス人であるならば、琉球に詳しくて当然でもあったのです。
五代、新納、堀の三人は、パリの地理学会が終わるといったんロンドンへ帰り、再びパリに滞在してモンブランと契約を交わし、慶応元年12月26日(1866年2月2日)、帰国の途に就きます。
ロンドンに残った寺島は、それから一ヶ月して、イギリスのクレランドン外相との面会に成功します。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈3〉英国策論』によれば、クレランドン外相に寺島が語ったことは、こうです。
「大名たちは、日本と条約を締結した諸国が、天皇に対して、御三家、十八の国持大名、それに天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たちの招集をおこなうよう要請することを希望している。(それが実現すれば)、大名たちは京都で会合し、そして、天皇はすでに批准した条約に対する大名たちの署名をとりつけることになるであろう」
あきらかに、モンブランの地理学会講演を、下敷きにしています。
しかし賢夫人、思いきったことをしますよねえ。
密航の身で、イギリス外務省に交渉とは。
あー、あのね、孝明天皇はご健在です。
「天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たち」って、会津や桑名も入るんですかね。
この時点で、朝廷に外交権があるかのように語ることには、あきらかに無理があります。
したがって、寺島の提案は、そうなるようイギリスから圧力をかけてくれ、というに等しいのですが、この提案を、本国から知らされた駐日イギリス公使パークスは、さすがに、「これは日本の現状ではなく、薩摩の政策にすぎない」と鋭く見抜いています。
とはいえ、この寺島の提案は、けっして無駄ではなかったのです。
先に帰国した五代は、グラバーの仲買で、イギリスから多量の武器、機械類を買って帰っていましたし、その中には、紡績機械もありました。ここで雇った技師たちも、グラバーの世話でしょう。
紡績所の立ち上げもあって、グラバーは薩摩藩に招かれます。
そしてグラバーは、パークスに、薩摩藩訪問を要請していたのです。
思いきった寺島の提案とグラバーの要請と、その二つがあいまって、慶応2年の夏、パークスの薩摩訪問は実現します。
無鉄砲な夫と賢夫人。
「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふて君とともにあらん」と。
ある意味、賢夫人の方が大胆ですよね。
ということで、このお話、さらに次回に続きます。
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時期的には、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 の続きとなります。
1865年6月21日(慶応元年5月28日)、薩摩藩密航イギリス留学生の一行が、ロンドンに着きました。
しかしこの一行、先にイギリスに密航していた長州ファイブとは趣がちがい、多分に政治的意図を持った、薩摩藩外交団でもありました。
外交の中心にあったのは、随行の五代友厚と寺島宗則(松木弘安)です。
この二人、 花の都で平仮名ノ説で書きましたように、薩英戦争でわざと英艦の捕虜になり、その後、清水卯三郎にかくまわれていたりしたんですね。
で、卯三郎自身の回想では、寺島は古くからの友人だったけれど、五代には英艦で初めて会ったようです。
卯三郎さん、長崎のオランダ海軍伝習を受けたくて、八方手を尽くして長崎まで行った過去があります。結局、町人であるから、というので、勝海舟にも冷たくあしらわれ、望みはかなわなかったのですが、このとき五代にも会ったりしたかな、と思ったんですが、会ってなかったんですね。
卯三郎さんがひらがなで語るところの五代と寺島は………、もうなんといいますか、なにをするかわからない無鉄砲な夫と、心配性の妻、といった趣で、笑えます。
天祐丸艦長だった五代は、船ごと英艦に拿捕されるのですが、無念やる方なく、火薬庫に火をつけようとします。同時に捕まった寺島は、「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふてさまたげたり」。
えー、漢字は勝手に入れましたが、かな文のせいなんでしょうか、なんかこう、楚々とした賢夫人が夫をたしなめている風情がありません?
あー、写真で見る寺島は、かなりの身長があり、顔つきはけっこうごつい上に、五代より三つ上で、30を越えてます。
敵(イギリス)に通じたと疑いをかけられた二人は、卯三郎さんの故郷の親戚、吉田家にかくまわれますが、そこでも、寺島は大人しくしていたのに、五代は落ち着かず、ひそかに江戸へ遊びに出たりしたあげくに、吉田家の次男、吉田二郎をともなって長崎へ行き、グラバーのもとに身をよせ、藩に建白書を出すことになったんです。
一方の寺島は、ひたすら大人しく身をひそめていましたところが、薩摩藩江戸藩邸の岩下方平、大久保利通などが手をつくしてさがしだし、一年ぶりの江戸帰還となったもののようです。
寺島は元が蘭方医で戦嫌い。学者肌です。モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2で書きましたように、幕府の蕃書調所教授でもあり、文久2年の幕府最初の遣欧使節団に参加していて、福沢諭吉と仲良しでした。
五代の破天荒な欧州行きが受け入れられ、藩命を受けて、江戸から薩摩へ帰ったのですが、思うに、です。卯三郎さん流にゆいますと、「君のさあらんことを知りしかば、われ、うなずけり。こたびは、君につきしたごうて助けん」だったんでしょう。
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上記の本によれば、寺島は、イギリスに着くと同時に、旧知のローレンス・オリファントに会い、イギリス外務省の政務次官レイヤードに、紹介してもらっています。
オリファントは、江戸は極楽であるに詳しく書きましたが、在日経験のある親日家で、帰国後、下院議員になっていました。
このときの寺島の提案は、薩摩藩内に外国貿易のための港を開きたい、ということでした。
それを、です。寺島はイギリス外務省に直接交渉しようとしているのですから、薩摩藩はすでにこのとき、独立国気分です。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3において、「肥田浜五郎のモンブラン接近と、五代友厚の肥田浜五郎への接近が交錯し」と書いたのですが、おそらく、肥田浜五郎とモンブラン、モンブランと五代を結びつけるのに介在したのは、オランダの貿易会社代理人で、長崎駐在領事だったアルベルト・ボードウィンではなかったでしょうか。
というのも、維新直後の事ですが、ボードウィンを通じて、薩摩藩はオランダ系金融機関から多額の融資を受け、グラバーなどからのそれまでの借金を、一気に返しているからです。もっとも、そのオランダ系金融機関からの借金も、廃藩置県までには、ほぼ返し終えているそうですが。
1865年8月9日(慶応元年6月18日)、モンブラン伯の使者であっただろうジェラールド・ケンは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!のレオン・ド・ロニーとともに、ロンドンの五代や寺島のもとに姿を現します。
ロニーは文久2年(1862)の竹内使節団の接待役で、寺島は使節団の随行員だったわけですから、二人は知り合いです。ロニーが紹介役を務めたわけなんでしょうね。
ケンはもちろん、すでにフランスで、肥田浜五郎に会っています。
そして、五代は、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)とともに、7月25日(旧暦9月14日)、ロンドンを発って、モンブランの待つベルギーへ向かいます。
この日から、五代の日記が残っているのですが、昨日の花冠の会津武士、パリへ。の海老名日記にくらべますと、そりゃあもう、気分は一国の外交官ですから、趣がちがいます。
一行はベルギー、プロシャ、オランダをかけめぐり、再びベルギーにもどった後、パリへ赴くんですが、五代もそれぞれの国情や産業に関する観察は、端的に記しています。
しかし、しっかりと遊んだ様子も書いていまして、パリでは美味を堪能し、オペラや芝居も見物し、モンブランに案内されて、遊女も買っております。
話が先走りました。
五代一行は、まずインゲルムンステル城に迎えられ、モンブラン家の狩猟場で鳥打ちに興じ、五代は「欧羅巴(ヨーロッパ)行以来にて、始て快愉に思う」と記しています。
そうでしょうねえ。
なにしろ薩摩藩士は、狩りが好きです。桐野の日記でも、滞京中、藩士仲間で誘い合わせて山へ猪狩りにいっていたりしまして、ロンドンの町中で2ヶ月も閉じこもったあと、ひろびろとした私猟地で駆け回るのは、楽しかったでしょう。
そしてブリュッセルでは、ベルギー王子に面会していますし、モンブラン個人ではなく、ベルギー政府そのものと、交渉していたわけなのです。
五代のパリ滞在はけっこう長く、11月13日(和暦9月24日)から12月20日(和暦11月3日)まで、一ヶ月を超えます。
その間、モンブランとはもちろん幾度も会っていますし、5日間ほどは、ロンドンから寺島も来ていて、その間に、ロニーも顔を出しますし、なぜか「新聞屋」の接待も受け、「ケンが肥田浜五郎に会った」と記されていたりします。
ベルギーとの貿易の件や、パリ万博参加の件は、すでに話終わった時点ですので、いったいなにを話あっているのかと思われるのですが、寺島がロンドンへ帰ってまもなく、今度は、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?で書きましたように、幕府のオランダ留学生だった津田真道と西周が姿を現します。
わざわざ、津田、西と知り合いの寺島が時期をずらしたのはなぜか、考えてみたんですけど、寺島は知り合いだからこそ、つまり幕府の蕃書調所にも属していながらの密航ですので、とりあえず、やはり、顔を合わすのはまずい、ということだったのではないんでしょうか。
津田と西がオランダに留学していることは、当然、寺島は知っています。
フリーメーソンのネットワーク、ライデン大学との交流を考えれば、当然、ロニーも知っていたでしょう。
モンブラン、あるいはロニーが、津田と西を呼んだのではないかと思うのです。
なんのためかといえば、五代と新納に、欧州各国の政体や歴史、法律などの詳しい説明をしてもらうためです。
もちろん、そんなことは、モンブランやロニーの方がよく知っているわけなのですが、言葉の壁があります。
どうも、ケンはそれほど学問があったようではないですし、薩摩側通訳の堀にしても、日本で語学の勉強をしただけです。欧州の歴史や政治制度を詳細に日本語で説明するには、訳語を作る必要もあり、漢学や国学にも詳しくなければなりません。
津田と西は、幕臣である前に学者ですから、知識を乞われるならば、喜んで応じたでしょう。
五代は、津田と西の解説を受けて、薩摩が描くところの日本のあるべき姿を、西洋人、つまりモンブランやロニーにわかりやすい形で、説明することができたのではないでしょうか。
五代と新納がなぜ、長期にわたってパリに滞在したか。
12月19日(和暦11月2日)、パリで開催されたヨーロッパ地理学会に出席するためです。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈5〉外国交際』によれば、この地理学会で、モンブランは、日本の現状について講演しています。その内容を引用すれば、こういうことです。
「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない。諸外国がこの将軍と条約を結んでいるところに諸悪の根源があり、幕府は諸外国から中央政府とみなされることを利用して、外国貿易の利益を独占し、他の諸侯を抑圧している。諸侯はこの幕府の独占体制を打破しようとしているのであって、その本心は、西欧諸国との友好関係を切望している。その証拠に諸侯は使節団や留学生をヨーロッパに派遣し、西欧諸国との接触をふかめる努力をつづけている」
その使節団や留学生として、五代と新納、堀、そしてどうも、このときロンドンから幾人か呼んでいたのではないか、という節もうかがえ、数人の薩摩人が出席し、挨拶をしたのでしょう。
あきれてものが言えません。
慶応元年11月2日です。薩長連合もまだ成立していません。
密航留学生を送り出しているのは薩摩と長州だけですし、使節団って……、密航使節団を送ろうなどと思いついて実行しているのは、薩摩だけです。
この時点で、「幕府の独占体制を打破しようとしている」諸侯の数など、しれていたでしょう。積極的なのは、薩摩と長州のみではなかったでしょうか。
一致した「諸侯」の意志なぞ、ありえようはずもないわけですから、これはもうすでに、武力倒幕を視野に入れた認識です。
それでいて五代は、柴田使節団に随行していた幕臣には、「密航留学生を出すのは、日本がヨーロッパに劣らないようにとのみ思ってのこと。日本のためは幕府のため。幕府に異心など毛頭無い」と語ったんだそうです。
五代たちは、「新聞屋」にも紹介してもらっています。
すでにもうこの時、慶応3年(1867)のパリ万博において、薩摩藩が琉球国名義で、独立国であるかのように参加し、それを新聞に書かせて宣伝する協議は、なされていたと思われます。
その点に関しては、モンブランがフランス人であったことは幸いでした。
フランスは、この時期からおよそ20年ほど前、7月王制期に、琉球に軍艦を派遣し、通商貿易とカトリック布教を迫っていたのです。薩摩藩はそのとき、警備隊を派遣しますが、結局、通商のみを許可し、布教は禁じます。とはいえ、ひそかにフランス人神父が滞在して、布教を試みたりもしていたのです。
前藩主・島津斉彬が、藩の軍制改革、近代化に力をそそぐ、きっかけになった事件でした。
当然、新納も五代もそれは知っていますし、一方、日本通のフランス人であるならば、琉球に詳しくて当然でもあったのです。
五代、新納、堀の三人は、パリの地理学会が終わるといったんロンドンへ帰り、再びパリに滞在してモンブランと契約を交わし、慶応元年12月26日(1866年2月2日)、帰国の途に就きます。
ロンドンに残った寺島は、それから一ヶ月して、イギリスのクレランドン外相との面会に成功します。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈3〉英国策論』によれば、クレランドン外相に寺島が語ったことは、こうです。
「大名たちは、日本と条約を締結した諸国が、天皇に対して、御三家、十八の国持大名、それに天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たちの招集をおこなうよう要請することを希望している。(それが実現すれば)、大名たちは京都で会合し、そして、天皇はすでに批准した条約に対する大名たちの署名をとりつけることになるであろう」
あきらかに、モンブランの地理学会講演を、下敷きにしています。
しかし賢夫人、思いきったことをしますよねえ。
密航の身で、イギリス外務省に交渉とは。
あー、あのね、孝明天皇はご健在です。
「天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たち」って、会津や桑名も入るんですかね。
この時点で、朝廷に外交権があるかのように語ることには、あきらかに無理があります。
したがって、寺島の提案は、そうなるようイギリスから圧力をかけてくれ、というに等しいのですが、この提案を、本国から知らされた駐日イギリス公使パークスは、さすがに、「これは日本の現状ではなく、薩摩の政策にすぎない」と鋭く見抜いています。
とはいえ、この寺島の提案は、けっして無駄ではなかったのです。
先に帰国した五代は、グラバーの仲買で、イギリスから多量の武器、機械類を買って帰っていましたし、その中には、紡績機械もありました。ここで雇った技師たちも、グラバーの世話でしょう。
紡績所の立ち上げもあって、グラバーは薩摩藩に招かれます。
そしてグラバーは、パークスに、薩摩藩訪問を要請していたのです。
思いきった寺島の提案とグラバーの要請と、その二つがあいまって、慶応2年の夏、パークスの薩摩訪問は実現します。
無鉄砲な夫と賢夫人。
「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふて君とともにあらん」と。
ある意味、賢夫人の方が大胆ですよね。
ということで、このお話、さらに次回に続きます。
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