えーと、あまりに驚きましたので、北朝鮮新義州ー中朝国境の町の続きです。
チンダラコッチさまからメールでお知らせいただいたのですが、金日成のモデルと思われる抗日運動家、金光瑞。「彼は、バロン西が金メダルをとった昭和7年(1932年)のロサンジェルスオリンピックに、同じ馬術で出場している」、「えっ!!! えええええっ???」です。
ぐぐってみました。ネット上で、この情報のもとになっているのは、日本語版Wikiみたいです。
陸軍騎兵学校ーWiki
たしかに、「著名な卒業生」の項目に、西竹一とともに「金光瑞(ロサンゼルス五輪馬術代表)」とあります。
代表って、もちろん日本代表です。この時代の朝鮮半島は、日本の領土ですから。
この4年後のベルリンオリンピックにおいては、朝鮮半島出身の孫基禎、南昇竜の二人が、やはり日本代表としてマラソンで出場し、金、銅のメダルを獲得しています。
えーと、ですね。別に抗日気分を持っていたからといって、オリンピックに日本代表として出ない、ということはないでしょう。現に、金メダルをとった孫基禎(新義州の出身です)は、「外国人へのサインにはKOREAと書いた」というエピソードを残し、「表彰台で涙を流したのは君が代が自分の国歌であることを嘆いてだった」ともいわれています。
しかし金光瑞は、抗日武力闘争の首領だった、はずなんですね。
それを日本帝国陸軍が、オリンピックの日本代表として認めるものなんでしょうか。といいますのも、バロン西がそうだったように、日本の馬術競技の中心は陸軍の騎兵科であり、この当時のオリンピック馬術競技出場者は、すべてその関係者なのです。
Wikiが名前をまちがえているのか、あるいは、ロサンジェルスオリンピックに出場した金光瑞は、金日成のモデルだった金光瑞とは別人なのか、といったところも十分に考えられるのですが、もしもこれが同一人物だったとしたら……、と想像してみました。
実は、救国の英雄「金日成将軍」のモデルだった金光瑞については、詳しいことがわかっていません。前回にご紹介しました「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」が出てまいりましたので、これを主に、そして下の本が、わずかながら資料を転載してくれていますので、両書から、確実そうなことのみを、書いてみたいと思います。
「金日成将軍」のモデルだった金光瑞は、咸鏡南道北青郡(北朝鮮、日本海に面した咸興市から北へ165キロほどのところ)で、明治20年(1887年)に生まれました。日本では鹿鳴館華やかなりしころで、イギリスではヴィクトリア女王在位50周年式典が行われた年、です。有名どころでは蒋介石と同い年、日本の軍人では、阿南惟幾や南雲忠一と同年です。
ロサンジェルスオリンピック馬術で金メダルをとり、硫黄島で戦死しましたバロン西は明治35年(1902年)の生まれですから、出場当時30歳。この年、金光瑞は45歳で西とは15も年がちがい、ロスの金光瑞はやはり同姓同名の別人か、という気もするのですが、馬術は年がいっていても可能な感じもしますし、どうなんでしょうか。
明治42年(1909年)、22歳にして日本の陸軍士官学校23期に入学するまで、金光瑞がなにをしていたのかは、実のところ、さっぱりわかっていません。
常識的に考えれば、大韓帝国軍の将校になっていて、この2年前、第三次日韓協約によって軍が解散したにともない、皇帝を護衛する近衛兵になっていたのではないか、というところでしょうか。
陸士が大韓帝国から留学生を受け入れたについては、詳しいことを知らないのですが、金光瑞以前には、明治32年(1899年)卒業の第11期に21人、明治36年(1903年)卒業の15期に8人、まとまった人数で2回受け入れ記録がありまして、これはおそらく、なんですが、大韓帝国軍近代化のための国費留学だった、と思われます。
うーん。大韓帝国軍について、さっぱり知識がないものですから、すべて憶測になるのですが、ともかく、です。 日清戦争の後、高宗が皇帝となり、国号を大韓帝国としましたのが明治30年(1897年)ですから、同時に陸士に留学生を送り出し、さらに4年後に8人を送り出しましたところが、日露戦争後の第二次日韓協約によって、大韓帝国は日本の保護国となり、外交権を失います。これによってハーグ密使事件が起こるわけですから、高宗周辺の日本への不満は大きかったでしょうし、まして、大韓帝国軍の指導者たちは、そうだったのではないでしょうか。以降、陸士への留学はしばらくとだえます。
で、明治40年(1907年)、第三次日韓協約により、少人数の近衛兵を残し、大韓帝国軍は解散させられてしまうのです。当然、軍は不満を持ちますよね。解散に応じなかった軍人たちが地方に散り、丁未義兵闘争をまき起こします。
日本側の対応は、当初は、それほどこれを重視したものではなかったのですが、明治42年(1909年)に、初代韓国統監であった伊藤博文が安重根に暗殺されたことで、徹底的な掃討作戦が行われ、ほぼ鎮圧されるのです。
金光瑞が陸士に留学しましたのはこの年でして、単身の留学ですし、私費です。叔父が11期か15期に留学していまして、留学費用を出してくれた、といわれているようです。
そして、この翌年、つまり明治43年(1910年)ですが、日韓併合が行われ、大韓帝国は消滅します。
金光瑞の陸士留学から3年後、つまり併合後なんですが、陸士26期、そして翌年27期には、また久しぶりに半島からの多数の陸士留学が復活します。彼らは、大韓帝国軍解体にともない廃止された陸軍武官学校の生徒だったようです。選ばれて、まずは陸軍幼年学校に留学し、続いて陸士進学、となったようなのです。
この26期の中に、帝国陸軍で陸軍中将にまでなり、フィリピンで戦犯として処刑されてしまった洪思翊もいるのですが、ともかく、金光瑞の単身留学は異例です。
あるいは、すでに明治40年、李垠殿下が来日していましたし、陸軍幼年学校から士官学校へ進まれる予定だったわけですから、おそばにせめて一人でも韓国側の士官を、というような配慮と、陸軍幼年学校留学組の監督者もいるだろう、ということで、金光瑞が23期に一人留学したもの、とも考えられるのではないのではないでしょうか。
さらには、もしかしまして金光瑞は、李垠殿下のお供のようなかたちで、士官学校入学以前に来日していた、可能性もありそうな気がします。
金光瑞は陸士卒業後、日本帝国陸軍の将校となり、おそらくは、陸軍騎兵学校に進んだものと思われます。
当時、半島出身の陸士卒業者、23期の金光瑞と、26期13名、27期20名は、全誼会という親睦団体を作っていまして、自分たちのアルバムを残しています。その写真にそえられた金光瑞の経歴が、「陸軍中尉 騎兵第一連隊所属」です。
明治天皇が崩御され、大正となって、大正3年(1914年)、第1次世界大戦が勃発します。
4年間も続いた大戦は、いうまでもなく、大きく世界を変えました。
戦いの過程においてロシア帝国に共産主義革命が起こり、大戦の結果、ハプスブルグ帝国とオスマントルコ帝国が解体し、民族主義の高まりから、欧州、中東ではいくつもの新興民族国家が生まれようとしていました。
その嵐は、極東にまで伝わった、というべきでしょう。
大戦が収束したその翌年、大正8年(1919年)の1月21日、京城(ソウル)において、大韓帝国初代皇帝高宗が崩じます。独立を守ろうと苦慮を重ねた皇帝の死は、半島の人々の民族意識に火をつけ、2月8日、半島からの日本留学生11人が、東京神田のYMCA会館において、独立宣言を発します。それが呼び水となり、3月1日には、ソウルでも独立宣言が読み上げられたのです。
三・一独立運動のはじまりでした。
洪思翊は生涯、高宗が発した大韓帝国の軍人勅諭を身につけていたといわれます。そもそもはといえば、大韓帝国軍のエリートとなるはずだった陸士留学生たちが、この独立騒動に無関心でいられるはずがありません。
と、ここまで書きまして、ややっこしい話なのですが、朝鮮の独立運動は、半島内部よりも主に南満州を舞台にしていまして、なぜか、ということを調べていきますと、清朝から中華民国へ、ロシアからソ連へ、という二大帝国の激動にも触れる必要があります。
ちょっといま、こちゃごちゃと調べたことをまとめる時間がありませんで、次回に続きます。
それまでに、です。もしも、1932年のロサンジェルスオリンピック馬術競技に、日本代表として出場した金光瑞について、詳しいことをご存じの方がおられましたら、ご教授のほどをお願いします。
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チンダラコッチさまからメールでお知らせいただいたのですが、金日成のモデルと思われる抗日運動家、金光瑞。「彼は、バロン西が金メダルをとった昭和7年(1932年)のロサンジェルスオリンピックに、同じ馬術で出場している」、「えっ!!! えええええっ???」です。
ぐぐってみました。ネット上で、この情報のもとになっているのは、日本語版Wikiみたいです。
陸軍騎兵学校ーWiki
たしかに、「著名な卒業生」の項目に、西竹一とともに「金光瑞(ロサンゼルス五輪馬術代表)」とあります。
代表って、もちろん日本代表です。この時代の朝鮮半島は、日本の領土ですから。
この4年後のベルリンオリンピックにおいては、朝鮮半島出身の孫基禎、南昇竜の二人が、やはり日本代表としてマラソンで出場し、金、銅のメダルを獲得しています。
えーと、ですね。別に抗日気分を持っていたからといって、オリンピックに日本代表として出ない、ということはないでしょう。現に、金メダルをとった孫基禎(新義州の出身です)は、「外国人へのサインにはKOREAと書いた」というエピソードを残し、「表彰台で涙を流したのは君が代が自分の国歌であることを嘆いてだった」ともいわれています。
しかし金光瑞は、抗日武力闘争の首領だった、はずなんですね。
それを日本帝国陸軍が、オリンピックの日本代表として認めるものなんでしょうか。といいますのも、バロン西がそうだったように、日本の馬術競技の中心は陸軍の騎兵科であり、この当時のオリンピック馬術競技出場者は、すべてその関係者なのです。
Wikiが名前をまちがえているのか、あるいは、ロサンジェルスオリンピックに出場した金光瑞は、金日成のモデルだった金光瑞とは別人なのか、といったところも十分に考えられるのですが、もしもこれが同一人物だったとしたら……、と想像してみました。
実は、救国の英雄「金日成将軍」のモデルだった金光瑞については、詳しいことがわかっていません。前回にご紹介しました「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」が出てまいりましたので、これを主に、そして下の本が、わずかながら資料を転載してくれていますので、両書から、確実そうなことのみを、書いてみたいと思います。
洪思翊中将の処刑〈上〉 (ちくま文庫)山本 七平筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
「金日成将軍」のモデルだった金光瑞は、咸鏡南道北青郡(北朝鮮、日本海に面した咸興市から北へ165キロほどのところ)で、明治20年(1887年)に生まれました。日本では鹿鳴館華やかなりしころで、イギリスではヴィクトリア女王在位50周年式典が行われた年、です。有名どころでは蒋介石と同い年、日本の軍人では、阿南惟幾や南雲忠一と同年です。
ロサンジェルスオリンピック馬術で金メダルをとり、硫黄島で戦死しましたバロン西は明治35年(1902年)の生まれですから、出場当時30歳。この年、金光瑞は45歳で西とは15も年がちがい、ロスの金光瑞はやはり同姓同名の別人か、という気もするのですが、馬術は年がいっていても可能な感じもしますし、どうなんでしょうか。
明治42年(1909年)、22歳にして日本の陸軍士官学校23期に入学するまで、金光瑞がなにをしていたのかは、実のところ、さっぱりわかっていません。
常識的に考えれば、大韓帝国軍の将校になっていて、この2年前、第三次日韓協約によって軍が解散したにともない、皇帝を護衛する近衛兵になっていたのではないか、というところでしょうか。
陸士が大韓帝国から留学生を受け入れたについては、詳しいことを知らないのですが、金光瑞以前には、明治32年(1899年)卒業の第11期に21人、明治36年(1903年)卒業の15期に8人、まとまった人数で2回受け入れ記録がありまして、これはおそらく、なんですが、大韓帝国軍近代化のための国費留学だった、と思われます。
うーん。大韓帝国軍について、さっぱり知識がないものですから、すべて憶測になるのですが、ともかく、です。 日清戦争の後、高宗が皇帝となり、国号を大韓帝国としましたのが明治30年(1897年)ですから、同時に陸士に留学生を送り出し、さらに4年後に8人を送り出しましたところが、日露戦争後の第二次日韓協約によって、大韓帝国は日本の保護国となり、外交権を失います。これによってハーグ密使事件が起こるわけですから、高宗周辺の日本への不満は大きかったでしょうし、まして、大韓帝国軍の指導者たちは、そうだったのではないでしょうか。以降、陸士への留学はしばらくとだえます。
で、明治40年(1907年)、第三次日韓協約により、少人数の近衛兵を残し、大韓帝国軍は解散させられてしまうのです。当然、軍は不満を持ちますよね。解散に応じなかった軍人たちが地方に散り、丁未義兵闘争をまき起こします。
日本側の対応は、当初は、それほどこれを重視したものではなかったのですが、明治42年(1909年)に、初代韓国統監であった伊藤博文が安重根に暗殺されたことで、徹底的な掃討作戦が行われ、ほぼ鎮圧されるのです。
金光瑞が陸士に留学しましたのはこの年でして、単身の留学ですし、私費です。叔父が11期か15期に留学していまして、留学費用を出してくれた、といわれているようです。
そして、この翌年、つまり明治43年(1910年)ですが、日韓併合が行われ、大韓帝国は消滅します。
金光瑞の陸士留学から3年後、つまり併合後なんですが、陸士26期、そして翌年27期には、また久しぶりに半島からの多数の陸士留学が復活します。彼らは、大韓帝国軍解体にともない廃止された陸軍武官学校の生徒だったようです。選ばれて、まずは陸軍幼年学校に留学し、続いて陸士進学、となったようなのです。
この26期の中に、帝国陸軍で陸軍中将にまでなり、フィリピンで戦犯として処刑されてしまった洪思翊もいるのですが、ともかく、金光瑞の単身留学は異例です。
あるいは、すでに明治40年、李垠殿下が来日していましたし、陸軍幼年学校から士官学校へ進まれる予定だったわけですから、おそばにせめて一人でも韓国側の士官を、というような配慮と、陸軍幼年学校留学組の監督者もいるだろう、ということで、金光瑞が23期に一人留学したもの、とも考えられるのではないのではないでしょうか。
さらには、もしかしまして金光瑞は、李垠殿下のお供のようなかたちで、士官学校入学以前に来日していた、可能性もありそうな気がします。
金光瑞は陸士卒業後、日本帝国陸軍の将校となり、おそらくは、陸軍騎兵学校に進んだものと思われます。
当時、半島出身の陸士卒業者、23期の金光瑞と、26期13名、27期20名は、全誼会という親睦団体を作っていまして、自分たちのアルバムを残しています。その写真にそえられた金光瑞の経歴が、「陸軍中尉 騎兵第一連隊所属」です。
明治天皇が崩御され、大正となって、大正3年(1914年)、第1次世界大戦が勃発します。
4年間も続いた大戦は、いうまでもなく、大きく世界を変えました。
戦いの過程においてロシア帝国に共産主義革命が起こり、大戦の結果、ハプスブルグ帝国とオスマントルコ帝国が解体し、民族主義の高まりから、欧州、中東ではいくつもの新興民族国家が生まれようとしていました。
その嵐は、極東にまで伝わった、というべきでしょう。
大戦が収束したその翌年、大正8年(1919年)の1月21日、京城(ソウル)において、大韓帝国初代皇帝高宗が崩じます。独立を守ろうと苦慮を重ねた皇帝の死は、半島の人々の民族意識に火をつけ、2月8日、半島からの日本留学生11人が、東京神田のYMCA会館において、独立宣言を発します。それが呼び水となり、3月1日には、ソウルでも独立宣言が読み上げられたのです。
三・一独立運動のはじまりでした。
洪思翊は生涯、高宗が発した大韓帝国の軍人勅諭を身につけていたといわれます。そもそもはといえば、大韓帝国軍のエリートとなるはずだった陸士留学生たちが、この独立騒動に無関心でいられるはずがありません。
と、ここまで書きまして、ややっこしい話なのですが、朝鮮の独立運動は、半島内部よりも主に南満州を舞台にしていまして、なぜか、ということを調べていきますと、清朝から中華民国へ、ロシアからソ連へ、という二大帝国の激動にも触れる必要があります。
ちょっといま、こちゃごちゃと調べたことをまとめる時間がありませんで、次回に続きます。
それまでに、です。もしも、1932年のロサンジェルスオリンピック馬術競技に、日本代表として出場した金光瑞について、詳しいことをご存じの方がおられましたら、ご教授のほどをお願いします。
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