「金日成将軍がオリンピック出場!?」と伝説の金日成将軍はオリンピックに出ていなかった!!の続きです。
前回、伝説の金日成将軍のモデルであった金光瑞は、「大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います」と書いたのですが、手持ちの本やウェッブの情報では、朝鮮半島独立運動があんまりにもごちゃごちゃと四分五裂で、書いている方のイデオロギーによって内容がちがい、わけがわかりませんので、次の本を見てみました。
著者の佐々木 春隆氏は、陸士54期生で、中・南支に連戦し、戦後、自衛官となられた後、防衛大学教授、京都大学法学博士、という経歴です。
いや、実によくまとまっていまして、ようやくなんとか朝鮮半島の独立運動の筋道が、頭に入りました。途中、「わが民族は」とおっしゃっている部分があって、もしかしまして、戦後日本に帰化なさった方なんでしょうか。
で………、なんということでしょう! 金光瑞のその後について、かなり確実性の高い情報が、この本に転載されていたんです。
そして……、もしそうだったのだとすれば、と考えると、私の中の金光瑞が、かなりはっきりとした像を結んできたんです。
あるいは、理想化のしすぎかもしれませんが、なにしろ私、いい男に弱いものですから(笑)
えーと、ですね、この本を読んで、もう一つ、「ああ、そうだったのか」と気づかされたことがあります。
「白馬に乗った金日成将軍が、いつか独立に導いてくれる」という、朝鮮半島の伝説のモデルは、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」で述べられていますところの、一人目の金一成(キム・イルソン)と二人目の金光瑞との二人のみであり、すでに昭和の初めには伝説ができあがっていて、ソ連のコミンテルンにつながっていた中国共産党系の抗日パルチザン部隊がこれを利用し、またそれに対した日本側も錯覚し、半島の人々もそうだったのだろう、ということです。
金一成と金光瑞が混同された理由について、佐々木春隆氏は、「二人とも咸鏡南道の出身であり、年齢もほぼ同じで(一つちがい)、活動時期も似ている上に、正体不明だったから」とおっしゃっておられて、もっともなご意見なんですが、正体不明というよりは、二人ともどの団体にも属さず、独自に抗日運動を続けたので、団体内部の権力闘争や、殺し合いまでともなった内部分裂には関係せず、孤高を保っていたから、といった方が、よさそうに思えます。
そんなわけで、まずは前回省いた一人目の金日成(キム・イルソン)将軍のモデル、金一成(キム・イルソン)について、ちょっと述べてみたいと思います。
本名は金昌希。威鏡南道端山郡黄谷里で、明治21年(1888年)か22年かに生まれました。年齢は、金光瑞より一つ、二つ下です。父親は威鏡北道隠城郡の郡守を務めた人で、次男でした。地方の有力者、いい家の息子、ですね。もっとも東学教徒であったため、一家は地域から浮いていた、という話もあります。
明治40年(1907年)、19歳のとき、前々回にも書きましたが、第三次日韓協約により大韓帝国軍は解散させられてしまい、それを不服とした軍人たちが地方に散り丁未義兵闘争をまき起こすのですが、金昌希も故郷に近い五峯山に拠って、挙兵するんですね。
あるいは、もしかすると、なんですが、金昌希は、漢城(ソウル)で軍の将校になっていたか、軍解散と同時に廃止された陸軍武官学校の生徒だったか、といった可能性もあるのではないか、と思います。
挙兵と同時に、金一成(キム・イルソン)と名乗ったようです。
三年後の日韓併合により、半島内での抗日闘争は難しいものとなり、かなりまとまった抗日武装集団が、豆満江を越え、間島と呼ばれる、対岸の満州国境地帯に渡ります。ここには、現在でも延辺朝鮮族自治州があり、朝鮮族が多数住んでいます。
えーと、ですね。現在、私たちの頭の中にあります「国境線」というのは、西洋近代がもたらしたものでして、条約によって、きっちり国境線が確定されるわけなのですが、極東にこの概念を持ち込んだのは、17世紀の半ば以来、盛んに南下していたロシア帝国でした。
1689年、日本でいえば元禄2年に、清朝の康熙帝とロシアの間で結ばれたネルチンスク条約がそれで、結局のところ、です、インドを手中におさめましたイギリスが、19世紀になって、さらなる交易の拡大をもくろみ、海路大清帝国にに手をのばしましたときにも、西洋諸国の一員であるロシアと清朝間の条約がすでにありましたがゆえに、広大な領土を、とりあえずは清朝のものと認めた上で、砲艦外交を重ね、すでに勢力が衰えていた清朝の譲歩を引き出し、アジアにおける植民地支配の基本ルールを、あみだしたわけなのです。
で、ですね。康熙帝の時代の清国には、イエズス会宣教師がアドバイザーとしておりましたし、とりあえず、でしかないんですが、西洋的な国境線の概念が認知され、ネルチンスク条約の直後、1712年に、清朝の故地である満州と李氏朝鮮とのとりきめとして、白頭山に、「西は 鴨緑江、 東は土門江を境界とする」定界碑を建てたんですね。
この「土門江」がどの川をさすのか、現在では、土門江を豆満江として中朝国境線が認識されているわけなのですが、19世紀末になって、大韓帝国は「土門江は松花江支流」と主張します。とすれば、間島は朝鮮半島に属する地、なわけでして、現在でも韓国にはこの主張があり(現実にいま中国と国境を接しているのは北朝鮮なので、おかしな話ではあるのですが)、中韓国境論争になっています。
清朝は、満州族(女真族)の王朝です。その満州族の故地だったために、現在の中国東北部は満州と呼ばれるようになりました。
満州族は、モンゴル人と同盟し、騎馬兵力によって明を滅ぼし、清朝を打ち立てました。皇帝は騎馬民族のハーンでもあり、モンゴルと同じくチベット仏教を信奉していたんですね。
この皇帝の旗本である騎馬軍団を満州八旗といいますが、康熙帝のころには、盛んに外征し、南下したロシアのコサックを圧倒するほどだったこの武勇も、やがて少数の支配者として漢人の地で暮らすうちに奢侈に流れ、薄れてきたんですね。18世紀の半ば、これを憂えた皇帝が、なんとか満州八旗の姿をそのままに残そうと務め、その一環として、故地だった満州には封禁令が出されて、漢人の立ち入りが禁じられました。
この封禁令、厳格に守られたわけではなく、満州族の荘園の小作人だとかの形をとって漢人が入り込み、19世紀のはじめには、有名無実と化します。
この満州に国境を接する朝鮮半島の北部(主に咸鏡南道、北道)は、農業に適した条件になく、農民は豆満江を超えて間島に耕作に出かけ、飢餓の年には、年貢逃れに李王朝の支配の及ばない満州へ、移住していたんです。「土門江」がどの川であったにせよ、19世紀には、豆満江までしか李王朝の実行支配はおよんでいなかったわけでして、しかしでは、豆満江が国境線として意識されていたかというと、これもまたちがうでしょう。中華王朝が中心となった極東の秩序世界に、西洋近代の産物であるくっきりとした国境線は、なかったんです。
ネルチンスク条約以降も、ロシア帝国のシベリア東進、南下は続きまして、ついには樺太、千島へ達し、18世紀末から、幕末の日本ともさまざまな摩擦を引き起こします。
しかし、ロシアが再び清と条約を結ぶにいたったのは、南方海路から清に迫ったイギリスに乗じて、でして、1858年(安政5年)のアイグン条約、1860年の北京条約によって、ネルチンスク条約は反古となり、ロシアは極東に沿海州を得ます。
ちなみに、アメリカにより開国させられた日本は、清朝より早く、1855年2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約を結び、千島列島については、択捉島と得撫島の間に国境を定めますが、樺太は日露雑居のままで、国境を定めませんでした。
で、話をもとにもどしまして、明治維新の7年前に、ロシアが得た沿海州なんですが、わずか18キロほどですが、朝鮮北部の咸鏡北道と、豆満江を国境として接しているんですね。
当時の沿海州は人口が希薄で、ロシアが欲していたのは港と軍事拠点ですが、石炭、食料などの補給のためにも、開拓の必要がありました。
沿海州がロシア領となった直後から、朝鮮族の移民はあったのですが、当初、ロシアは開拓民としてこれを歓迎しました。明治2年(1869年)、朝鮮北部で大飢餓が起こり、農民たちは大挙して豆満江を超えます。ロシア領沿海州にも、数千人規模で押し寄せ、食べるもののなかった彼らには、当座の食料や農具や種などの援助が与えられたといいます。
こういった初期の朝鮮族移民は、なにしろロシアにとっては獲得したばかりの辺境ですから、農地を得ることも容易で、自治も認められていました。治安もよく、朝鮮にいたときには考えられなかった豊かな暮らしを手にし、ロシア正教を受け入れる者も多く出てきます。
こうして沿海州は、朝鮮族が多数住む地となりました。
清朝の統治は、もともと地方の治安まで保障するものではありませんで、地方に派遣された長官は、持たされた徴税権、人事権、治安維持権を、勝手に地元有力者に与え、上納金といいますか賄賂といいますか、を受け取り、いわば名義貸しのほったらかし状態でしたので、治安が乱れてきますと際限が無く、匪賊やら自警団やらの武装集団が跋扈して、といいますか、だれもが自分の身は自分で守るしかなくなり、富豪であれば自分で武装集団を組織したり雇ったり、あるいは有力武装集団に献金したりしますし、貧しい農民、商人といえども、こういった集団に税のようなものをおさめるか、あるいはその一員になるか、といった状況になっていきます。
19世紀の満州は、まさにそういう状態でして、そこへ、ロシアの南下が続きました。
19世紀、極東におけるもう一つの台風は、日本です。
開国した日本は、徐々に真の攘夷に目覚め、欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達しますが、1867年(明治元年)、明治維新によって、その受け入れは加速します。
ロシアとは、幕末以来もめ続けていた樺太の領有権について、明治8年(1875年)、北部千島列島と樺太の領有権を交換することで、話し合いにより、とりあえずの決着がついたのですが、問題は清朝でした。
大清帝国は、満州族による征服中華王朝です。したがって皇帝には、先にも述べましたように、建国以来のチベット仏教の信者でありハーンでもある満州族としての側面と、儒教に基づき華夷秩序を重んじる中華王朝の皇帝である側面と、二つの顔がありまして、蛮族であるはずのハーンが中華文明の中心にある、という矛楯をはらんでいました。
大清帝国自体も、建国以来の同盟者であったモンゴル、同じく文化的基盤の共通性から満州族の同盟者として位置づけられたチベット、ウイグルといった内陸部へ向けた顔と、経済の中心であった華中、華南の周辺に向けた顔は別のものでして、前者が藩部とされたのに対して、後者は朝貢国という伝統的な位置づけでした。
李氏朝鮮は、その接点にあり、当初、満州族から同盟を迫られたのですが、中華世界の一員であることを誇りにしていたがためにこれを断り、討伐されて朝貢国となっていたわけです。
中華帝国としての清朝が築いていた国際秩序は、西洋近代の国際ルールとは相容れないものでした。中心に清朝の天下があり、それを頂点として、周辺に朝貢国があるわけなのですが、朝貢国としてのあり方もさまざまでしたし、欧米諸国の視点からしますならば、朝貢国とは清国の主権が及んでいる国ではなく、とすれば、清国に関係なく、現地政権に対する砲艦外交によって、植民地が獲得できる対象であったのです。
例えば、阮朝ベトナムです。19世紀の初期から、すでにフランスの接触がはじまり、幕末の文久元年(1862年)には、国土の一部がフランス領となり、半植民地状態でした。
日本において、「朝貢国」の位置づけにもっとも敏感であったのは、琉球を支配していた薩摩藩です。
琉球は、江戸期を通じて薩摩藩の支配を受けながら、清朝の朝貢国でもある、という二面性を持っていまして、ペリー来航に先立つ1844年(弘化元年)からフランスの接触を受け、やがて部分的な開国に応じました。
そして、嘉永6年(1853年)、日本に来航したペリーは、琉球へも立ち寄り、薩摩藩の指示によって琉球は独自にアメリカと条約を結んで開国すると同時に、これに便乗したフランス、オランダとも条約締結に至りました。
西洋近代の国際ルールを受け入れた日本にとって、朝貢国は、植民地化の危機にさらされた主権独立国です。
しかし、日本がいち早くそういう視点を持ち得たについては、日本は大清帝国を中心とする秩序の外の海洋国家であって、日本国内の安定に清朝の存在は関係がなかった一方で、西洋列強による植民地化の危機を敏感に感じとる位置にあったからです。
清朝が築き上げた秩序のうちにある朝貢国にとっては、その秩序こそが国の安定の源であり、まして、その頂点にあった大清帝国にとっては、その秩序が覆されるということは、王朝の存続、自らのアイデンティティにかかわる問題でした。
明治維新以降、日本にとってまずは琉球が問題となるわけなのですが、朝鮮問題がそれに連動します。
琉球については、薩摩藩が実行支配していた実績があり、イギリスもまたそれを認めていました。しかしそれでも、清は朝貢国であった琉球を日本の領土として認めることを拒み、また琉球王朝の側にも、大清帝国が築いた秩序の中に留まることを望む勢力がありました。
それは、当然のことであったでしょう。維新以降の日本の変身は、性急といえばあまりに性急で、長らく極東を支配してきた中華秩序の中にある者にとっては、一見、いまだ威風堂々と見える大清帝国にくらべ、東海の蛮族が、奇妙で危うい、洋夷の猿まねをしている、としか、見えなかったのです。
江戸期を通じて、幕府は李氏朝鮮と独自の外交関係を持ち、対馬藩は釜山に居留地を与えられてもいました。清の朝貢国であり、ロシア領沿海州と国境を接する朝鮮は、明治新政府にとって、極東外交の試金石となります。
朝貢国は決して清の領土ではなく、日本と清とは対等の外交関係にあるのだと認めさせ、琉球を日本領土と確定することがかかっていましたし、弱体化した清に朝鮮をまかせておいたのでは、すでに隣の沿海州まで来ていたロシアが呑み込んで、日本にとっては、のど元に突きつけられた刃になりかねない、という危惧があったのです。
実際に幕末、ロシアの軍艦は朝鮮領の巨文島に寄港して、貯炭所の設置を計画したことがありましたし、その直後に、対馬を占領し、得ようとしたわけです。
朝貢国、琉球と朝鮮をめぐっての日清のにらみ合いの結果は、やがて日清戦争となり、勝利した日本は、沖縄を日本領土、朝鮮を独立国として認めさせ、極東における大清帝国の支配秩序を、突き崩すことに成功したのです。
結果、日本は、それまで李朝がけっして受け入れようとしなかった近代化作を、高圧的に押しつけるのですが、これがまた性急すぎるもので、李王朝内部にも閔妃(王妃)を中心として多大な反発を生み、親ロシア勢力が増大しますし、その閔妃を日本公使館がかかわって暗殺してしまったことに加えて、なによりも断髪令が、両班や儒生を中心に憤激を呼び、最初の義兵闘争がまきおこります。
とはいえ、一度日本が軌道に乗せた朝鮮の近代化は、それまでの李朝の価値観を反転させ、明治30年(1897年)、国号が大韓と改められ、朝鮮国王高宗は皇帝となって、大韓帝国が誕生します。大清帝国の皇帝を迎えるための迎恩門は倒され、冊封体制からの離脱を記念して、独立門が建てられるのです。このとき、大韓帝国軍から、多数の陸士留学生が日本にわたりましたし、とりあえず、近代国民国家への模索は、はじまろうとしていたのです。
一方の大清帝国です。
すでにベトナムもフランスの植民地となっていましたし、日清戦争の敗戦で、朝鮮も独立し、その支配論理が根底から崩れ去ったのです。結果、知識層が多数、日本への留学を選び、明治維新をモデルとした近代国家形成が、さまざまに構想されることとなりましたが、清と日本では、事情がちがいすぎます。
清の支配層には少数民族である満州族がいて、広大な清朝の勢力範囲には、あまりにも多数の異民族がいました。
いえ、そもそも、大清帝国の多数民族である漢族ですが、一言で「漢人」といっても、とりあえず漢字を使っている人々の間でさえ、地域によって言語はかけはなれていますし、文化にも相当なちがいがあります。
しかし、なによりも大きな問題だったのは、建国以来の満州族の友邦、藩部とされていたモンゴル、チベット、そして回教徒のウィグルで、宗教、言語、文化のすべてにおいて、ベトナム、朝鮮などの朝貢国よりも、いえ、漢文、儒教をそれなりに受容した歴史を持つ日本とくらべても、中華文明とのへだたりが大きいのです。
したがって、です。ありうべき近代国民国家中国の構想からは、当初、モンゴル、チベット、ウィグルが斬り捨てられる傾向があり、漢人の流入が進んだ満州については、微妙でしたが、これも中華民族主義からするならば、捨ててもいい地域ともなっていました。
長くなりましたので、次回へ続きます。
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前回、伝説の金日成将軍のモデルであった金光瑞は、「大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います」と書いたのですが、手持ちの本やウェッブの情報では、朝鮮半島独立運動があんまりにもごちゃごちゃと四分五裂で、書いている方のイデオロギーによって内容がちがい、わけがわかりませんので、次の本を見てみました。
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著者の佐々木 春隆氏は、陸士54期生で、中・南支に連戦し、戦後、自衛官となられた後、防衛大学教授、京都大学法学博士、という経歴です。
いや、実によくまとまっていまして、ようやくなんとか朝鮮半島の独立運動の筋道が、頭に入りました。途中、「わが民族は」とおっしゃっている部分があって、もしかしまして、戦後日本に帰化なさった方なんでしょうか。
で………、なんということでしょう! 金光瑞のその後について、かなり確実性の高い情報が、この本に転載されていたんです。
そして……、もしそうだったのだとすれば、と考えると、私の中の金光瑞が、かなりはっきりとした像を結んできたんです。
あるいは、理想化のしすぎかもしれませんが、なにしろ私、いい男に弱いものですから(笑)
えーと、ですね、この本を読んで、もう一つ、「ああ、そうだったのか」と気づかされたことがあります。
「白馬に乗った金日成将軍が、いつか独立に導いてくれる」という、朝鮮半島の伝説のモデルは、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」で述べられていますところの、一人目の金一成(キム・イルソン)と二人目の金光瑞との二人のみであり、すでに昭和の初めには伝説ができあがっていて、ソ連のコミンテルンにつながっていた中国共産党系の抗日パルチザン部隊がこれを利用し、またそれに対した日本側も錯覚し、半島の人々もそうだったのだろう、ということです。
金一成と金光瑞が混同された理由について、佐々木春隆氏は、「二人とも咸鏡南道の出身であり、年齢もほぼ同じで(一つちがい)、活動時期も似ている上に、正体不明だったから」とおっしゃっておられて、もっともなご意見なんですが、正体不明というよりは、二人ともどの団体にも属さず、独自に抗日運動を続けたので、団体内部の権力闘争や、殺し合いまでともなった内部分裂には関係せず、孤高を保っていたから、といった方が、よさそうに思えます。
そんなわけで、まずは前回省いた一人目の金日成(キム・イルソン)将軍のモデル、金一成(キム・イルソン)について、ちょっと述べてみたいと思います。
本名は金昌希。威鏡南道端山郡黄谷里で、明治21年(1888年)か22年かに生まれました。年齢は、金光瑞より一つ、二つ下です。父親は威鏡北道隠城郡の郡守を務めた人で、次男でした。地方の有力者、いい家の息子、ですね。もっとも東学教徒であったため、一家は地域から浮いていた、という話もあります。
明治40年(1907年)、19歳のとき、前々回にも書きましたが、第三次日韓協約により大韓帝国軍は解散させられてしまい、それを不服とした軍人たちが地方に散り丁未義兵闘争をまき起こすのですが、金昌希も故郷に近い五峯山に拠って、挙兵するんですね。
あるいは、もしかすると、なんですが、金昌希は、漢城(ソウル)で軍の将校になっていたか、軍解散と同時に廃止された陸軍武官学校の生徒だったか、といった可能性もあるのではないか、と思います。
挙兵と同時に、金一成(キム・イルソン)と名乗ったようです。
三年後の日韓併合により、半島内での抗日闘争は難しいものとなり、かなりまとまった抗日武装集団が、豆満江を越え、間島と呼ばれる、対岸の満州国境地帯に渡ります。ここには、現在でも延辺朝鮮族自治州があり、朝鮮族が多数住んでいます。
えーと、ですね。現在、私たちの頭の中にあります「国境線」というのは、西洋近代がもたらしたものでして、条約によって、きっちり国境線が確定されるわけなのですが、極東にこの概念を持ち込んだのは、17世紀の半ば以来、盛んに南下していたロシア帝国でした。
1689年、日本でいえば元禄2年に、清朝の康熙帝とロシアの間で結ばれたネルチンスク条約がそれで、結局のところ、です、インドを手中におさめましたイギリスが、19世紀になって、さらなる交易の拡大をもくろみ、海路大清帝国にに手をのばしましたときにも、西洋諸国の一員であるロシアと清朝間の条約がすでにありましたがゆえに、広大な領土を、とりあえずは清朝のものと認めた上で、砲艦外交を重ね、すでに勢力が衰えていた清朝の譲歩を引き出し、アジアにおける植民地支配の基本ルールを、あみだしたわけなのです。
で、ですね。康熙帝の時代の清国には、イエズス会宣教師がアドバイザーとしておりましたし、とりあえず、でしかないんですが、西洋的な国境線の概念が認知され、ネルチンスク条約の直後、1712年に、清朝の故地である満州と李氏朝鮮とのとりきめとして、白頭山に、「西は 鴨緑江、 東は土門江を境界とする」定界碑を建てたんですね。
この「土門江」がどの川をさすのか、現在では、土門江を豆満江として中朝国境線が認識されているわけなのですが、19世紀末になって、大韓帝国は「土門江は松花江支流」と主張します。とすれば、間島は朝鮮半島に属する地、なわけでして、現在でも韓国にはこの主張があり(現実にいま中国と国境を接しているのは北朝鮮なので、おかしな話ではあるのですが)、中韓国境論争になっています。
清朝は、満州族(女真族)の王朝です。その満州族の故地だったために、現在の中国東北部は満州と呼ばれるようになりました。
満州族は、モンゴル人と同盟し、騎馬兵力によって明を滅ぼし、清朝を打ち立てました。皇帝は騎馬民族のハーンでもあり、モンゴルと同じくチベット仏教を信奉していたんですね。
この皇帝の旗本である騎馬軍団を満州八旗といいますが、康熙帝のころには、盛んに外征し、南下したロシアのコサックを圧倒するほどだったこの武勇も、やがて少数の支配者として漢人の地で暮らすうちに奢侈に流れ、薄れてきたんですね。18世紀の半ば、これを憂えた皇帝が、なんとか満州八旗の姿をそのままに残そうと務め、その一環として、故地だった満州には封禁令が出されて、漢人の立ち入りが禁じられました。
この封禁令、厳格に守られたわけではなく、満州族の荘園の小作人だとかの形をとって漢人が入り込み、19世紀のはじめには、有名無実と化します。
この満州に国境を接する朝鮮半島の北部(主に咸鏡南道、北道)は、農業に適した条件になく、農民は豆満江を超えて間島に耕作に出かけ、飢餓の年には、年貢逃れに李王朝の支配の及ばない満州へ、移住していたんです。「土門江」がどの川であったにせよ、19世紀には、豆満江までしか李王朝の実行支配はおよんでいなかったわけでして、しかしでは、豆満江が国境線として意識されていたかというと、これもまたちがうでしょう。中華王朝が中心となった極東の秩序世界に、西洋近代の産物であるくっきりとした国境線は、なかったんです。
ネルチンスク条約以降も、ロシア帝国のシベリア東進、南下は続きまして、ついには樺太、千島へ達し、18世紀末から、幕末の日本ともさまざまな摩擦を引き起こします。
しかし、ロシアが再び清と条約を結ぶにいたったのは、南方海路から清に迫ったイギリスに乗じて、でして、1858年(安政5年)のアイグン条約、1860年の北京条約によって、ネルチンスク条約は反古となり、ロシアは極東に沿海州を得ます。
ちなみに、アメリカにより開国させられた日本は、清朝より早く、1855年2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約を結び、千島列島については、択捉島と得撫島の間に国境を定めますが、樺太は日露雑居のままで、国境を定めませんでした。
で、話をもとにもどしまして、明治維新の7年前に、ロシアが得た沿海州なんですが、わずか18キロほどですが、朝鮮北部の咸鏡北道と、豆満江を国境として接しているんですね。
当時の沿海州は人口が希薄で、ロシアが欲していたのは港と軍事拠点ですが、石炭、食料などの補給のためにも、開拓の必要がありました。
沿海州がロシア領となった直後から、朝鮮族の移民はあったのですが、当初、ロシアは開拓民としてこれを歓迎しました。明治2年(1869年)、朝鮮北部で大飢餓が起こり、農民たちは大挙して豆満江を超えます。ロシア領沿海州にも、数千人規模で押し寄せ、食べるもののなかった彼らには、当座の食料や農具や種などの援助が与えられたといいます。
こういった初期の朝鮮族移民は、なにしろロシアにとっては獲得したばかりの辺境ですから、農地を得ることも容易で、自治も認められていました。治安もよく、朝鮮にいたときには考えられなかった豊かな暮らしを手にし、ロシア正教を受け入れる者も多く出てきます。
こうして沿海州は、朝鮮族が多数住む地となりました。
清朝の統治は、もともと地方の治安まで保障するものではありませんで、地方に派遣された長官は、持たされた徴税権、人事権、治安維持権を、勝手に地元有力者に与え、上納金といいますか賄賂といいますか、を受け取り、いわば名義貸しのほったらかし状態でしたので、治安が乱れてきますと際限が無く、匪賊やら自警団やらの武装集団が跋扈して、といいますか、だれもが自分の身は自分で守るしかなくなり、富豪であれば自分で武装集団を組織したり雇ったり、あるいは有力武装集団に献金したりしますし、貧しい農民、商人といえども、こういった集団に税のようなものをおさめるか、あるいはその一員になるか、といった状況になっていきます。
19世紀の満州は、まさにそういう状態でして、そこへ、ロシアの南下が続きました。
19世紀、極東におけるもう一つの台風は、日本です。
開国した日本は、徐々に真の攘夷に目覚め、欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達しますが、1867年(明治元年)、明治維新によって、その受け入れは加速します。
ロシアとは、幕末以来もめ続けていた樺太の領有権について、明治8年(1875年)、北部千島列島と樺太の領有権を交換することで、話し合いにより、とりあえずの決着がついたのですが、問題は清朝でした。
大清帝国は、満州族による征服中華王朝です。したがって皇帝には、先にも述べましたように、建国以来のチベット仏教の信者でありハーンでもある満州族としての側面と、儒教に基づき華夷秩序を重んじる中華王朝の皇帝である側面と、二つの顔がありまして、蛮族であるはずのハーンが中華文明の中心にある、という矛楯をはらんでいました。
大清帝国自体も、建国以来の同盟者であったモンゴル、同じく文化的基盤の共通性から満州族の同盟者として位置づけられたチベット、ウイグルといった内陸部へ向けた顔と、経済の中心であった華中、華南の周辺に向けた顔は別のものでして、前者が藩部とされたのに対して、後者は朝貢国という伝統的な位置づけでした。
李氏朝鮮は、その接点にあり、当初、満州族から同盟を迫られたのですが、中華世界の一員であることを誇りにしていたがためにこれを断り、討伐されて朝貢国となっていたわけです。
中華帝国としての清朝が築いていた国際秩序は、西洋近代の国際ルールとは相容れないものでした。中心に清朝の天下があり、それを頂点として、周辺に朝貢国があるわけなのですが、朝貢国としてのあり方もさまざまでしたし、欧米諸国の視点からしますならば、朝貢国とは清国の主権が及んでいる国ではなく、とすれば、清国に関係なく、現地政権に対する砲艦外交によって、植民地が獲得できる対象であったのです。
例えば、阮朝ベトナムです。19世紀の初期から、すでにフランスの接触がはじまり、幕末の文久元年(1862年)には、国土の一部がフランス領となり、半植民地状態でした。
日本において、「朝貢国」の位置づけにもっとも敏感であったのは、琉球を支配していた薩摩藩です。
琉球は、江戸期を通じて薩摩藩の支配を受けながら、清朝の朝貢国でもある、という二面性を持っていまして、ペリー来航に先立つ1844年(弘化元年)からフランスの接触を受け、やがて部分的な開国に応じました。
そして、嘉永6年(1853年)、日本に来航したペリーは、琉球へも立ち寄り、薩摩藩の指示によって琉球は独自にアメリカと条約を結んで開国すると同時に、これに便乗したフランス、オランダとも条約締結に至りました。
西洋近代の国際ルールを受け入れた日本にとって、朝貢国は、植民地化の危機にさらされた主権独立国です。
しかし、日本がいち早くそういう視点を持ち得たについては、日本は大清帝国を中心とする秩序の外の海洋国家であって、日本国内の安定に清朝の存在は関係がなかった一方で、西洋列強による植民地化の危機を敏感に感じとる位置にあったからです。
清朝が築き上げた秩序のうちにある朝貢国にとっては、その秩序こそが国の安定の源であり、まして、その頂点にあった大清帝国にとっては、その秩序が覆されるということは、王朝の存続、自らのアイデンティティにかかわる問題でした。
明治維新以降、日本にとってまずは琉球が問題となるわけなのですが、朝鮮問題がそれに連動します。
琉球については、薩摩藩が実行支配していた実績があり、イギリスもまたそれを認めていました。しかしそれでも、清は朝貢国であった琉球を日本の領土として認めることを拒み、また琉球王朝の側にも、大清帝国が築いた秩序の中に留まることを望む勢力がありました。
それは、当然のことであったでしょう。維新以降の日本の変身は、性急といえばあまりに性急で、長らく極東を支配してきた中華秩序の中にある者にとっては、一見、いまだ威風堂々と見える大清帝国にくらべ、東海の蛮族が、奇妙で危うい、洋夷の猿まねをしている、としか、見えなかったのです。
江戸期を通じて、幕府は李氏朝鮮と独自の外交関係を持ち、対馬藩は釜山に居留地を与えられてもいました。清の朝貢国であり、ロシア領沿海州と国境を接する朝鮮は、明治新政府にとって、極東外交の試金石となります。
朝貢国は決して清の領土ではなく、日本と清とは対等の外交関係にあるのだと認めさせ、琉球を日本領土と確定することがかかっていましたし、弱体化した清に朝鮮をまかせておいたのでは、すでに隣の沿海州まで来ていたロシアが呑み込んで、日本にとっては、のど元に突きつけられた刃になりかねない、という危惧があったのです。
実際に幕末、ロシアの軍艦は朝鮮領の巨文島に寄港して、貯炭所の設置を計画したことがありましたし、その直後に、対馬を占領し、得ようとしたわけです。
朝貢国、琉球と朝鮮をめぐっての日清のにらみ合いの結果は、やがて日清戦争となり、勝利した日本は、沖縄を日本領土、朝鮮を独立国として認めさせ、極東における大清帝国の支配秩序を、突き崩すことに成功したのです。
結果、日本は、それまで李朝がけっして受け入れようとしなかった近代化作を、高圧的に押しつけるのですが、これがまた性急すぎるもので、李王朝内部にも閔妃(王妃)を中心として多大な反発を生み、親ロシア勢力が増大しますし、その閔妃を日本公使館がかかわって暗殺してしまったことに加えて、なによりも断髪令が、両班や儒生を中心に憤激を呼び、最初の義兵闘争がまきおこります。
とはいえ、一度日本が軌道に乗せた朝鮮の近代化は、それまでの李朝の価値観を反転させ、明治30年(1897年)、国号が大韓と改められ、朝鮮国王高宗は皇帝となって、大韓帝国が誕生します。大清帝国の皇帝を迎えるための迎恩門は倒され、冊封体制からの離脱を記念して、独立門が建てられるのです。このとき、大韓帝国軍から、多数の陸士留学生が日本にわたりましたし、とりあえず、近代国民国家への模索は、はじまろうとしていたのです。
一方の大清帝国です。
すでにベトナムもフランスの植民地となっていましたし、日清戦争の敗戦で、朝鮮も独立し、その支配論理が根底から崩れ去ったのです。結果、知識層が多数、日本への留学を選び、明治維新をモデルとした近代国家形成が、さまざまに構想されることとなりましたが、清と日本では、事情がちがいすぎます。
清の支配層には少数民族である満州族がいて、広大な清朝の勢力範囲には、あまりにも多数の異民族がいました。
いえ、そもそも、大清帝国の多数民族である漢族ですが、一言で「漢人」といっても、とりあえず漢字を使っている人々の間でさえ、地域によって言語はかけはなれていますし、文化にも相当なちがいがあります。
しかし、なによりも大きな問題だったのは、建国以来の満州族の友邦、藩部とされていたモンゴル、チベット、そして回教徒のウィグルで、宗教、言語、文化のすべてにおいて、ベトナム、朝鮮などの朝貢国よりも、いえ、漢文、儒教をそれなりに受容した歴史を持つ日本とくらべても、中華文明とのへだたりが大きいのです。
したがって、です。ありうべき近代国民国家中国の構想からは、当初、モンゴル、チベット、ウィグルが斬り捨てられる傾向があり、漢人の流入が進んだ満州については、微妙でしたが、これも中華民族主義からするならば、捨ててもいい地域ともなっていました。
長くなりましたので、次回へ続きます。
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