郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol2

2009年05月29日 | 伝説の金日成将軍
 「伝説の金日成将軍と故国山河 vol1」の続きです。

 えー、われながら、なにをごちゃごちゃ極東史を解説しまくっているのか、とじれったいのですが、まあ、私の頭の中の整理でして、お許しください。
 前回、そして今回の参考文献はいろいろとありますが、以下の本はお勧めです。あまりにも記述が広範なので、著者のご専門以外の部分で、普仏戦争後のフランスをナポレオン3世の帝政としておられるようなうかつさには、ちょっと引きますし、前書きにおける、現代に歴史を敷衍してのナショナリズム解説には、そもそも前提がおかしいのではないか、という疑問もあるのですが、本論には、それを補ってあまりある視点のおもしろさがあります。

大清帝国と中華の混迷 (興亡の世界史)
平野 聡
講談社

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 なお、満州については「馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道」、沿海州の朝鮮族については、イザベラ・バードの「朝鮮奥地紀行」など、つい読みふけってしまう、おもしろい参考書が多数あります。

 さて、解説の続きです。
 断末魔の大清帝国の息の根をとめたのは、義和団の乱、といえなくもないでしょう。
 日清戦争の後、大清帝国は、巧みな外交で三国干渉を誘い、日本の遼東半島領有を阻止しましたが、その代償としてロシアの旅順、大連の租借、そして露清密約により東清鉄道の施設権を認め、列強各国の侵食を誘うとともに、日本の警戒心を刺激する結果となっていました。
 そこへ、義和団の乱です。

 義和団の乱は、明治33年(1900年)に、山東省から興った排外運動です。
 1880年代から、欧米列強による中国鉄道の建設が本格化し、綿製品などの輸入品が農村部にまで入りますし、内陸部にも租界ができ、キリスト教宣教師の活動も活発になります。
 日本の幕末もそうでしたが、欧米との交易は、国内物価の高騰につながりますし、一般庶民にとって、慣れ親しんだ生活に急激な変化が起こる徴候は歓迎できるものではなく、武力をともなう排外行動が、広範な支持を得ます。

 で、ですね、詳しいことははぶきますが、攻撃対象とされた欧米列強は共同で軍隊を派遣することとなり、しかし、それぞれの事情で極東まで多数の軍を派遣することはできず、その中心になったのは、日本とロシアでした。
 イギリスは、中央アジアでもロシアと角をつきあわせていましたから、大部隊を派遣することがわかりきっていたロシアへの牽制に、日本の大部隊派兵を求めたんですね。
 実際ロシアは、義和団騒動とは関係のない満州に大部隊を派遣し、他国が引き上げた後も、軍を引こうとはしませんでした。

 そして、沿海州へのシベリア鉄道と並んで、東清鉄道の建設が着々と進められます。
 この東清鉄道には、ロシアの鉄道会社が排他的行政権を持つ鉄道附属地がともなっていまして、ロシアは沿線に都市を建設し、そこには清朝の行政権がおよばず、満州には、いわば、線路で結ばれた飛び地のロシア植民地が建設されていったのです。
 東清鉄道の建設は、多くの漢人や朝鮮人の労働者を満州に呼び込み、しかもできあがったロシアの鉄道附属地都市には、賃労働も多く、比較的にいえば治安もよく、定住者が爆発的に増えます。同時にそれは、都市周辺農業の活性化にもつながり、さらなる移民をうみ、満州は短期間で開発されつつ、確実にロシアの支配下に入ろうとしていたのです。
 その傍ら、ロシアは地続きの朝鮮(大韓帝国)に影響力を強めていたわけでして、日本の危機感は一通りではなく、日英同盟のもと、日露開戦となっていきました。
 
 明治38年(1904年)、日本は日露戦争の勝利により、樺太(サハリン)南半の割譲、旅順・大連を含む遼東半島南端部の租借権、東清鉄道のうち長春から大連を経て旅順へと続く南満州支線の租借権などを得て、大韓帝国の保護国化、併合へと、進むことになったのです。
 明治43年(1910年)日韓併合のその翌44年、辛亥革命が起こり、大清帝国は崩れ去ります。

 金昌希改め金一成が挙兵した丁未義兵闘争は、大韓帝国の解散させられた軍隊が中心になっていたわけでして、それまでの守旧的な義兵闘争とちがい、ナショナリズムの萌芽を含むものであったのではないでしょうか。
 金一成の場合、僻地の山岳にこもっていた上、おそらくは数十人規模の少数ゲリラだったためでしょう。日韓併合後も健在なまま、日本の警察にマークされる身となり、拠点を北方の白頭山に移したといいます。

 白頭山は、朝鮮と満州の国境にそびえる山で、周囲は原生林におおわれ、国境越えが容易であると同時に、野生の朝鮮人参や鹿茸、貂の毛皮など、高額で取引される産物に恵まれ、満州側で売却が可能です。おそらく、なんですが、数十人規模の人数ならば、長期間、平地の一般民家を脅かすことなく、容易に隠れ住むことができたのではないでしょうか。

 この間、金一成より一つ年上の金光瑞は、「金日成将軍がオリンピック出場!?」で書きましたように、日本の陸軍士官学校23期に留学し、日本帝国陸軍の騎兵中尉となっておりました。
 金光瑞が陸士に入学したときの名前は、金顕忠でした。一年の後、日韓併合の年に、光瑞に改名したと言われます。「光復(独立回復)の瑞兆」になってみせる、という決意のあらわれだったのでは、ないでしょうか。

 実はですね、その光復の後、大韓民国の陸軍は、日本の陸軍士官学校と、日本が支配した満州国の陸軍軍官学校の卒業生が中心となって、創設されました。初代参謀総長は、陸士26期生の李応俊中将です。
 金大中氏以来、左翼政権が続きました現在の韓国では、彼らに「親日罪」を被せる動きがあります。
 しかし、併合当時には、幼年学校に留学していた26期、27期生たちが集まり、「全員脱走帰国して抵抗しよう」という声が高く、士官学校にいた先輩の金光瑞に訴えた、という話なのです。結局、「吸収するべきことを吸収して力をつけ、時期を見よう」ということで、落ち着いたそうなのですが(「洪思翊中将の処刑〈上)」より)、近代軍隊は、近代国民国家の礎ですし、長い目で見て、それは意味のあることだったでしょう。
 ただ……、その場にいた多くの者が、30数年後の光復の日を平穏に迎えることがかなわず、また、大韓民国軍の戦闘相手は北朝鮮の同胞だった、という結末は、やはり悲劇です。
 後述しますが、李応俊にしても、ほんの一歩のちがいで、あるいはまったく別の道をたどった可能性があります。金光瑞の運命が李応俊の運命であっても、けっしておかしくはなかったのです。

 併合からおよそ10年、第一次大戦後の三・一独立運動を迎え、白頭山にこもっていた金一成(キム・イルソン)の活動は、活発になります。大正11年(1922年)、一度、警察に捕まったことがあった、ともいいますが、うまく逃げだし、そのまま消息を絶ちます。そして、1920年代の後半には、まったく噂も聞かれなくなり、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」においては、大正末年ころに没したのではないか、と推測されています。

 しかし、「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」に、もしかすると、金一成が生存し続けたのではないか、と思われる証言があります。著者の佐々木春隆氏は、金光瑞のその後を語る証言、としてあげておられるのですが、正規の将校教育を受けた金光瑞は、山岳ゲリラ戦を行った形跡はありませんし、どうも、初代金日成将軍、金一成ではなかったか、と思われるのです。

 証言者は、李烱錫将軍。陸士45期生で、日本軍将校として満州の守備隊にいたことがあり、光復後は韓国軍の将軍となった人です。
 昭和10年(1935年)から13年ころのことです。
 白頭山の北部一帯は、測量部が危険で入れないので地図が無く、そのため「白色地帯」と呼ばれていたのだそうです。そこに、「金日成(キム・イルソン)部隊」がこもっていました。
 この当時、組織だって間島にいた抗日武装集団は、中国共産党系のパルチザンで、北朝鮮建国の父である金日成が率いていた部隊も、その中にいました。
 しかし、李烱錫が遭遇した「金日成部隊」は、どうも日本側がいうところの「共産党匪賊」、いわゆるパルチザンでは、なさそうなのです。

 李烱錫の部隊は鉄道を守備していましたが、この「金日成部隊」はそれを襲っていました。満州鉄道による日本軍の補給線を狙っていた、ということなんでしょう。
 この金日成は、「45歳から50歳くらいで、日本陸士の23期生、守備隊長の先輩だ」という噂が、ひろまってもいました。
 証拠は、まったくありません。
 ただ、この金日成部隊は、匪賊やパルチザンとちがって、古武士的な風格を持っていたのだそうです。
 まず、討伐に出た日本兵を戦死させると、遺体を丁寧に送り届けてきます。
 日本軍の歩兵砲をぶんどったときにも、「わが独立軍には必要がないのでお返しする。独立軍は兵器で戦うのではなく、精神で戦う」という手紙と共に、付近の住民にたくして、返してきた、と言います。
 そして関東軍司令部に、「韓国を独立させたら武装を解く、韓国が独立するまでは、万が一私が倒れても、何人かの金日成が受け継いで戦うだろう」という手紙をよこした、ともいうのです。

 「わが独立軍」という名のりからするならば、昭和7年(1832年)、満州国建国当時に、中華民国系の軍団と共闘して、満州平野部で抗日闘争をくりひろげていた「韓国独立軍」の残党が、流れこんでいたのではないか、と思われます。詳しくは後述しますが、この韓国独立軍の指導者には、陸士26期生で、途中まで金光瑞とともにあった池青天がいたのですが、翌昭和8年には壊滅状態となり、池青天は満州を去っていたのです。
 この残党の一部が、白頭山に逃れて、金一成の「金日成部隊」となり、独立軍の系譜を自負したとすれば、どうでしょうか。

 確かにこの「金日成部隊」は、同時期に豆満江を超え、故国に進入して、咸鏡南道の普天堡(保田)を襲った、パルチザンの「金日成部隊」とは、まったく風格がちがいます。

 後年のことですが、普天堡襲撃に参加していた北朝鮮のある老将軍は、自国の新聞記者に、軍糧調達、つまりは、軍資金と食料を強奪することが目的であったのだと正直に語り、さらには、「寝ぼけ眼の倭奴が、ズボンもはかずに飛び出してきて哀願するのを殺した」と、自慢げにつけくわえて、それを知った金日成の怒りを買いました。(「北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 」より)
 普天堡は、およそ300戸ほど(うち日本人は26戸)の村役場所在地にすぎませんで、「寝ぼけ眼の倭奴」とは、交番の近くで食堂を経営していた日本人です。農事試験場や営林署、消防署、村役場、学校、郵便局に火を付け、同胞の民家で強盗を働いてまわった、という、匪賊とかわらない行為だったのです。それが北朝鮮では、「朝鮮人民に希望を与えためざましい抗日の戦い」だったと評価され、金日成の業績として美化されようとしていて、金日成は老将軍の正直な回顧談を、許しておくわけにはいかなかったわけなのです。

 白頭山において、パルチザンと同時期までも、金一成が活動を続けていて、それを、日本軍の側にいた陸士出の半島出身者たちが、金光瑞と勘違いしたのならば、です。金一成と金光瑞が合体して「金日成将軍」伝説が生まれ、それをパルチザン部隊が利用した経緯も、わかりやすくなります。

 しかし、もしそうだったと仮定して、金一成は、いつまで生存していたのでしょうか。光復の日を、その目で見たでしょうか。
 故郷へ帰った形跡がないところからして、伝説の金日成将軍の一人、金一成は、光復を目前にして白頭山で没し、将軍峰の洞窟に葬られたのだと想像することが、あるいは、伝説にもっともふさわしいのかもしれません。

 次回、やっと本論、金光瑞の足跡を追います。

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