郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol3

2009年05月31日 | 伝説の金日成将軍
 「伝説の金日成将軍と故国山川 vol2」の続きです。
 「伝説の金日成将軍と故国山川 vol1」の冒頭で述べましたが、「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」が転載していました「金光瑞のその後について、かなり確実性の高い情報」とは、実は、下の本からのものなのです。

北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 (1982年)
林隠
自由社

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 なにやら題名があやしげなので、これまで読んでいなかったのですが、著者名の「林隠」はペンネームで、本名は、カスタマーレビューでも書かれていますように、許真。北朝鮮育ちの方です。
 私……、実にうかつだったんですが、「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀 」において、萩原遼氏がこの本を紹介しておられるのを、読んでいたはずなんですね。
 萩原遼氏がおっしゃるには、許真氏はこの本を書かれた当時、ソ連共産党の幹部でおられたそうで、立場上、本名での北朝鮮批判はできず、ペンネームを使われたそうです。
 私、一読して、ソ連崩壊前なので共産党批判にまではふみこめなかったのだろう、と思ったのですが、ソ連共産党の幹部だった、というならば、納得です。
 いえ、そういう立場の方が、ソ連崩壊以前に書かれたにしては、非常な真摯な内容です。
 
 で、「林隠」氏が高麗人(ロシア・ソ連領の朝鮮族)から聞き取った金光瑞の消息もまじえつつ、日本陸軍騎兵中尉として、三・一独立運動を迎えたところから、金光瑞の足跡を語っていきたいと思います。




 上の写真は、「北朝鮮新義州ー中朝国境の町」で、最初にご紹介しました下の本からの転載です。金光瑞が、金日成将軍伝説のモデルだったことについては、著者の李命英氏が最初に掘り起こされたことでして、このシリーズの参考書も、基本はこの本です。
 半島から留学した陸士卒業生が作っていました親睦団体・全諠会のアルバムに残された、金光瑞騎兵中尉の写真なんですが、私はこれで、彼に惚れ込んでしまったんです(笑)

金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房

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 大正8年(1919年)、三・一独立運動が起こった経緯については、「金日成将軍がオリンピック出場!?」で、簡単に書きました。
 少々補足しますと、三・一独立運動は、併合前後の義兵闘争とはちがい、武装闘争ではありません。
 宗教指導者と学生が中心となって、非暴力のうちに独立を求め、広範な半島民衆の支持をえて、現在でいいますところのデモ行進が、全土にひろがっていったんです。ただ、その過程で、暴動化もしたのですが、基本的には、武器をとっての抵抗運動ではありませんでした。
 朝鮮総督府、つまり日本側は、これに対して徹底的な弾圧で応じ、短期間で沈静化させます。
 しかし一方、万を超える逮捕者のうち、不起訴釈放も多く、起訴した者も重罪にはしていません。
 そしてなにより、朝鮮総督府は以降、それまでの武断政治を改め、言論、出版、集会の自由を認めるなど(完全に、ではありませんが)、宥和政策に転じました。

 これには、理由があります。
 前年に第1次世界大戦が終結し、この年、戦勝国が中心となってその後始末を協議するパリ講和会議が予定されていたんですね。
 戦勝国とは、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、そして日本です。
 アメリカのウィルソンは、民族自決と植民地問題の公正解決を唱えていまして、日本には体面がありました。
 といいますのも、半島内外の独立運動家は、このパリ講和会議で独立を訴えるかまえを見せていまして、三・一独立運動の盛り上がりはそれを勢いづけ、臨時政府創設の動きも出てきたんです。

 当初、各地にちらばった運動家が、連絡もなく、とりあえず構想を発表しましたので、京城(ソウル)、シベリア(沿海州)、上海、フィラデルフィアの四つの臨時政府が立ち上がりましたが、フィラデルフィアの運動家はすぐに構想をひっこめ、ソウルでのそれは、発表した閣僚がほとんど海外亡命運動家で、なすすべもなく、すぐにつぶれました。
 残るは、シベリアと上海です。
 結局、上海に一本化されるのですが、シベリアで運動の中心となっていたのは李東輝率いる「韓人社会党」で、これはすでにレーニンの承認を得ていて、共産主義団体ともいえましたし、彼らが加わることで、ただでさえまとまりに欠けていた上海臨時政府は、激しい派閥争いの場となります。

 さて、大日本帝国の陸軍騎兵中尉となり、東京にいた、金光瑞です。
 この年、東京の留学生たちが、三・一独立運動の呼び水となった二・八宣言を発しますが、いつの時点でか、金光瑞は休暇願いを出し、ソウルへ帰った、といいます。
 このとき、三・一独立運動に呼応しようとした陸士卒業生は、金光瑞だけではありませんでした。
 26期生だった池青天(陸士入学当時の名前は錫奎、入学後に大亨と改名したもようで、さらに独立運動に身を投じてから青天と名乗りました)は、当時、岡山の歩兵部隊にいまして、同期の李応俊としめしあわせ、平城で落ち合って、満州へ行く計画でした。ところが、李応俊は汽車に乗り遅れて機会を逸し、結局、池青天は単身ソウルへ行き、金光瑞と合流したもののようです。

 前回書きましたように、李応俊中将は大韓民国陸軍の初代参謀総長で、現在の韓国では、親日罪がかぶせられています。
 しかし、日韓併合以前の陸士留学生は、もともと日本陸軍の将校になろうとして留学したわけではありませんで、大韓帝国軍の指導者となることこそが当初の目的でしたし、光復を願う気持ちは、人一倍強かったのです。
 27期生の李種赫(馬徳昌)も、このとき満州に渡り、独立運動に身を投じましたが、彼のことは、よくはわかりません。昭和10年(1935年)ころ獄中で死亡、といわれているようです。

 大韓帝国成立当時の陸士留学生、11期生、15期生は、もちろん、大韓帝国軍が解散させられました明治40年(1907年)にはじまる、丁未義兵闘争の中心になっていました。金日成将軍のもう一人のモデルである、金一成が挙兵した闘争です。
 で、鎮圧後、国内にとどまった者も多かったのですが、金一成のように、国境を越えて満州などに逃れ、再起を期していた人々もいました。
 李応俊の岳父(妻の父)、李甲もそうでして、沿海州に亡命し、すでに大正6年(1917年)、ニコリスク(ウスリースク)で病没していましたが、ペテルスブルクにも行ったことがあった、といいますし、ロシア革命のただ中にいたわけです。

 その李甲の甥が、現千葉医大で学んでいまして、李応俊とも連絡がありました。一度は、李甲から李応俊へ、一人の男を介して「拳銃を譲ってくれ」という伝言がまいこみ、李応俊は岳父のために、自分の拳銃を男に託しましたが、この男が憲兵につかまり、拳銃の刻印番号から、李応俊の持ち物だとわかってしまった、という事件もあったそうです。しかし、この拳銃事件も脱走未遂事件も、当時の日本陸軍は不問に付し、李応俊は、将校として日本陸軍にとどまりました。(「洪思翊中将の処刑」より)
 
 三・一独立運動の後、10年ほど前の義兵騒動のときよりも、より多くの人々が、武力による独立運動を志し、満州、シベリア(沿海州)へと向かい、ソウルで落ち合った金光瑞と池青天も、その中にいました。

 次回、なぜ、満州、シベリアだったのか、というところから、お話を進めていきたいと思います。

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コメント (5)
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