「金日成将軍がオリンピック出場!?」の続きです。
伝説のキム・イルソン将軍のモデル、陸士23期に留学していました金光瑞(入学当初の名前は顕忠でしたが、在学中に光瑞に改名したといわれます)は、実のところ、大正14年(1925年)から消息不明で、おそらくは不遇のうちに満州で没したものと推測されています。
それが、昭和7年(1932年)のロスオリンピックに、日本代表として出場している! という情報には驚きました。もし、そうだったならば、ソ連に裏切られた金光瑞は、日本軍に投降して、ソ連情報提供者となり、陸士留学生仲間のとりなしもあって、日本陸軍騎兵仲間の連帯感から復権を認められた、という線しか考えられなかったのですが、いくらなんでも金光瑞は武装闘争をしていた人物ですし、ちょっと信じがたいことだったんですね。
といいますのも、陸士26期に留学していて、金光瑞とともに独立武装闘争をした池青天は、ソ連に裏切られた大正14年以降は、中華民国によって独立運動に邁進しているようですし、こちらの系統の独立運動に陸士留学関係者はけっこういまして、いくらソ連に怒りを覚えたとはいえ、日本軍に投降は、金光瑞の誇りが許さなかっただろうに、という気がしました。
それで、横浜へ生麦事件の資料をさがしに行きましたついでに、麻布の外交資料館へ、ロスオリンピックの資料を見に行きました。
アジ歴でキーワード検索をかけましたところが、ロスオリンピク関係の資料が外交資料館にある、とまでは、わかったんです。
えー、実は階層検索をかけると、すべてデジタル画像で見ることができる資料だったんですが、その検索の仕方がわかりませんでして。無駄足といえば無駄足なんですが、検索の仕方を教えていただきましたし、実物を見ることができて、幸せでした。
やっぱり、ですね、すべてモノクロームの資料画像よりも、現物で見た方が、時代の雰囲気が感じられますし。
感心がおありの方は、レファレンスコード検索で、B04012502700を見ますと、 国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻(ロスオリンピック関係の資料の綴り)の画像が出てまいります。分割されていますので、選手の名前が登場する資料は、左上の「次資料」をクリックすれば出てきます「分割2」にいろいろとあります。
結論をまず述べますと、金光瑞の名はありません! 選手はもちろん、馬のめんどうを見る人々や役員にも、です。
さっそく、陸軍騎兵学校ーWikiの記述を訂正しておきました。
それはともかくとして、おもしろい資料でした。時間さえ許せば、じっと読みふけっていたことでしょう。
西竹一の大障害飛越金メダルは、もちろん名馬ウラヌス号の存在とバロン西個人の資質もあったのでしょうけれども、何年も前からの陸軍を中心とする馬術関係者の力の入れようもあずかっていたのだと、よくわかりました。
最初は帝国馬匹協会(昭和2年創立)が、次いで、途中から設立されたらしい日本国際馬術協会(会長・松平頼寿伯爵)が、単独で馬術選手派遣に動き、アメリカ在住の邦人に協力を求めたり、寄付をつのったり、活発に動いていたんですね。まあ、馬術は馬を連れていかなければなりませんので、準備も大変ですし、莫大な参加費用がかかります。
選手は、民間からも募って陸軍騎兵学校で訓練を引き受ける、としていたのですが、結局、バロン西を含む4人が現役の騎兵将校、1人が現役の砲兵大尉で、民間から選ばれた山本盛重も、民間とはいうものの、後備役の騎兵大尉です。山本盛重は学習院初等科の出身で、大正10年から学習院で馬術教官を務めていたことが、学習院馬術部のHPに見えます。
監督の遊佐幸平騎兵大佐の伝記を読めば、国際馬術大会と陸軍騎兵科の関係がよくわかりそうなんですが、この伝記がどうも、希少本のようです。 遊佐幸平は陸士16期だそうですから、もちろん金光瑞を知っていたでしょうし、もしかすると先生だったかもしれませんし、そちらの方の情報も、あるかもしれなくて、読んでみたいのですが。
ともかく、おそらくなんですが、日露戦争によって、ようやく日本でも騎兵というもの、そして西洋馬術が世間一般に認知されて間もなく、第一次世界大戦によって塹壕戦の時代となり、騎兵の活躍する余地はほとんどない状況となってきます。イギリスやフランスの騎兵隊の大戦における悲劇は有名です。
で、そんなこともあり、日本陸軍の騎兵科は、オリンピックをも含む国際馬術大会に熱心に取り組むようになったんじゃないんでしょうか。いえ、日本だけではなく、欧米各国の陸軍騎兵隊が、もはや儀仗兵としてしか意味が無くなり、国際馬術大会が盛んになった、ともいえるのかもしれない、と思うのですが。
ロスオリンピックの日本の馬術代表団は、前述のように陸軍関係者のみでしたし、参加のために渡米しては、アメリカ陸軍騎兵隊の歓迎を受けました。
まあ、そんなわけで、日本国際馬術協会は、陸軍の全面的バックアップを受けていたのでしょう。その自負からか、なにもかも単独でやろうとして、これに大日本体育協会がクレームをつけるんですね。
えーと、この大日本体育協会というのは現在の日本体育協会でして、当時は日本オリンピック委員会の役目も果たしていた、ようなのですね。ところが、日本国際馬術協会はこれに加盟せず、単独行動をとろうとします。けしからん!というので、大日本体育協会は、ですね、なんとロスのオリンピック準備委員会に「あー、日本国際馬術協会というのがおたくに参加の申し込みをすると思うんだけどね、あれはうちに参加していない勝手な団体だから、参加を拒否してちょーだいな」と、申し入れたようなのです。
これを知ったロスの日本領事が「えー、国内の団体の内輪もめを外国で晒すとは、見苦しいかぎりなので、なんとかしてちょーだいな」と、時の外務大臣、幣原喜重郎男爵にお手紙を書くほどの騒ぎ。結局、外務省が間に入って、日本国際馬術協会は大日本体育協会に加盟し、決着がついたようなのです。
また当時のアメリカには排日移民法がありまして、どうも日本人には、旅行者といえども行動制限があったようなのです。この扱いを、オリンピック期間は停止する、というような資料もあり、選手や大会関係者にはアイデンティティカード(身分証明書)を持たせる、としたのも、どうも、有色人種に対する差別的な扱いを避けるため、であったようです。
で、これまで述べてきましたように、金光瑞の名は、まったく見あたりません。
年齢からいきましたら、遊佐幸平がこの4年前のアムステルダムオリンピックに選手として出場していますし、総合馬術の後備役騎兵大尉・山本盛重は、明治15年の生まれです。金光瑞が代表となってもおかしくはなさそうなんですが、資料を読んで、馬術競技というものは日々の研鑽が必要でしょうし、金光瑞にはシベリアで抗日武装闘争をしていた年月のブランクがありますから、例え、投降して復権していたにしましても、出場は無理だったのではないか、という気がしました。
はっとしたのは、「満州国が出場を申し込んでいるので、これを機会にアメリカが承認しないだろうか」という、超楽観的な外交通信を読んだとき、です。
そうなんです。もしもこの時期、金光瑞が生きていたとしましたら、満州国にいた可能性は、けっこうありそうなんです。
はっとはしたんですが、検索をかけてみましたら、満州国のオリンピック参加についての論文が出てきまして、結局、参加はできませんでしたし、しかも満州国が派遣しようとしたのは、馬術の選手ではなかったんです。
というわけで、金光瑞はオリンピックには出ていません! 結局、大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います。
前回書いたのは、大正8年(1919年)、金光瑞は、日本陸軍騎兵中尉として三・一独立運動の勃発を知った、というところまで、でした。次回は、以降の金光瑞の軌跡をかんたんにまとめてみるつもりです。
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伝説のキム・イルソン将軍のモデル、陸士23期に留学していました金光瑞(入学当初の名前は顕忠でしたが、在学中に光瑞に改名したといわれます)は、実のところ、大正14年(1925年)から消息不明で、おそらくは不遇のうちに満州で没したものと推測されています。
それが、昭和7年(1932年)のロスオリンピックに、日本代表として出場している! という情報には驚きました。もし、そうだったならば、ソ連に裏切られた金光瑞は、日本軍に投降して、ソ連情報提供者となり、陸士留学生仲間のとりなしもあって、日本陸軍騎兵仲間の連帯感から復権を認められた、という線しか考えられなかったのですが、いくらなんでも金光瑞は武装闘争をしていた人物ですし、ちょっと信じがたいことだったんですね。
といいますのも、陸士26期に留学していて、金光瑞とともに独立武装闘争をした池青天は、ソ連に裏切られた大正14年以降は、中華民国によって独立運動に邁進しているようですし、こちらの系統の独立運動に陸士留学関係者はけっこういまして、いくらソ連に怒りを覚えたとはいえ、日本軍に投降は、金光瑞の誇りが許さなかっただろうに、という気がしました。
それで、横浜へ生麦事件の資料をさがしに行きましたついでに、麻布の外交資料館へ、ロスオリンピックの資料を見に行きました。
アジ歴でキーワード検索をかけましたところが、ロスオリンピク関係の資料が外交資料館にある、とまでは、わかったんです。
えー、実は階層検索をかけると、すべてデジタル画像で見ることができる資料だったんですが、その検索の仕方がわかりませんでして。無駄足といえば無駄足なんですが、検索の仕方を教えていただきましたし、実物を見ることができて、幸せでした。
やっぱり、ですね、すべてモノクロームの資料画像よりも、現物で見た方が、時代の雰囲気が感じられますし。
感心がおありの方は、レファレンスコード検索で、B04012502700を見ますと、 国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻(ロスオリンピック関係の資料の綴り)の画像が出てまいります。分割されていますので、選手の名前が登場する資料は、左上の「次資料」をクリックすれば出てきます「分割2」にいろいろとあります。
結論をまず述べますと、金光瑞の名はありません! 選手はもちろん、馬のめんどうを見る人々や役員にも、です。
さっそく、陸軍騎兵学校ーWikiの記述を訂正しておきました。
それはともかくとして、おもしろい資料でした。時間さえ許せば、じっと読みふけっていたことでしょう。
西竹一の大障害飛越金メダルは、もちろん名馬ウラヌス号の存在とバロン西個人の資質もあったのでしょうけれども、何年も前からの陸軍を中心とする馬術関係者の力の入れようもあずかっていたのだと、よくわかりました。
最初は帝国馬匹協会(昭和2年創立)が、次いで、途中から設立されたらしい日本国際馬術協会(会長・松平頼寿伯爵)が、単独で馬術選手派遣に動き、アメリカ在住の邦人に協力を求めたり、寄付をつのったり、活発に動いていたんですね。まあ、馬術は馬を連れていかなければなりませんので、準備も大変ですし、莫大な参加費用がかかります。
選手は、民間からも募って陸軍騎兵学校で訓練を引き受ける、としていたのですが、結局、バロン西を含む4人が現役の騎兵将校、1人が現役の砲兵大尉で、民間から選ばれた山本盛重も、民間とはいうものの、後備役の騎兵大尉です。山本盛重は学習院初等科の出身で、大正10年から学習院で馬術教官を務めていたことが、学習院馬術部のHPに見えます。
監督の遊佐幸平騎兵大佐の伝記を読めば、国際馬術大会と陸軍騎兵科の関係がよくわかりそうなんですが、この伝記がどうも、希少本のようです。 遊佐幸平は陸士16期だそうですから、もちろん金光瑞を知っていたでしょうし、もしかすると先生だったかもしれませんし、そちらの方の情報も、あるかもしれなくて、読んでみたいのですが。
ともかく、おそらくなんですが、日露戦争によって、ようやく日本でも騎兵というもの、そして西洋馬術が世間一般に認知されて間もなく、第一次世界大戦によって塹壕戦の時代となり、騎兵の活躍する余地はほとんどない状況となってきます。イギリスやフランスの騎兵隊の大戦における悲劇は有名です。
で、そんなこともあり、日本陸軍の騎兵科は、オリンピックをも含む国際馬術大会に熱心に取り組むようになったんじゃないんでしょうか。いえ、日本だけではなく、欧米各国の陸軍騎兵隊が、もはや儀仗兵としてしか意味が無くなり、国際馬術大会が盛んになった、ともいえるのかもしれない、と思うのですが。
ロスオリンピックの日本の馬術代表団は、前述のように陸軍関係者のみでしたし、参加のために渡米しては、アメリカ陸軍騎兵隊の歓迎を受けました。
まあ、そんなわけで、日本国際馬術協会は、陸軍の全面的バックアップを受けていたのでしょう。その自負からか、なにもかも単独でやろうとして、これに大日本体育協会がクレームをつけるんですね。
えーと、この大日本体育協会というのは現在の日本体育協会でして、当時は日本オリンピック委員会の役目も果たしていた、ようなのですね。ところが、日本国際馬術協会はこれに加盟せず、単独行動をとろうとします。けしからん!というので、大日本体育協会は、ですね、なんとロスのオリンピック準備委員会に「あー、日本国際馬術協会というのがおたくに参加の申し込みをすると思うんだけどね、あれはうちに参加していない勝手な団体だから、参加を拒否してちょーだいな」と、申し入れたようなのです。
これを知ったロスの日本領事が「えー、国内の団体の内輪もめを外国で晒すとは、見苦しいかぎりなので、なんとかしてちょーだいな」と、時の外務大臣、幣原喜重郎男爵にお手紙を書くほどの騒ぎ。結局、外務省が間に入って、日本国際馬術協会は大日本体育協会に加盟し、決着がついたようなのです。
また当時のアメリカには排日移民法がありまして、どうも日本人には、旅行者といえども行動制限があったようなのです。この扱いを、オリンピック期間は停止する、というような資料もあり、選手や大会関係者にはアイデンティティカード(身分証明書)を持たせる、としたのも、どうも、有色人種に対する差別的な扱いを避けるため、であったようです。
で、これまで述べてきましたように、金光瑞の名は、まったく見あたりません。
年齢からいきましたら、遊佐幸平がこの4年前のアムステルダムオリンピックに選手として出場していますし、総合馬術の後備役騎兵大尉・山本盛重は、明治15年の生まれです。金光瑞が代表となってもおかしくはなさそうなんですが、資料を読んで、馬術競技というものは日々の研鑽が必要でしょうし、金光瑞にはシベリアで抗日武装闘争をしていた年月のブランクがありますから、例え、投降して復権していたにしましても、出場は無理だったのではないか、という気がしました。
はっとしたのは、「満州国が出場を申し込んでいるので、これを機会にアメリカが承認しないだろうか」という、超楽観的な外交通信を読んだとき、です。
そうなんです。もしもこの時期、金光瑞が生きていたとしましたら、満州国にいた可能性は、けっこうありそうなんです。
はっとはしたんですが、検索をかけてみましたら、満州国のオリンピック参加についての論文が出てきまして、結局、参加はできませんでしたし、しかも満州国が派遣しようとしたのは、馬術の選手ではなかったんです。
というわけで、金光瑞はオリンピックには出ていません! 結局、大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います。
前回書いたのは、大正8年(1919年)、金光瑞は、日本陸軍騎兵中尉として三・一独立運動の勃発を知った、というところまで、でした。次回は、以降の金光瑞の軌跡をかんたんにまとめてみるつもりです。
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