郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編

2010年10月01日 | モンブラン伯爵
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編の続きです。

 慶応2年(1866)、箱館奉行でした小出大和守が、樺太国境談判にロシアへ赴くことになりまして、後任となりましたのが、杉浦誠(梅潭)です。
 森有礼夫人・常の実父だった、かもしれない広瀬寅五郎が、仕えていた人です。
 最後の箱館奉行・杉浦は、こまめに日記を記していまして、下の本は読みやすいその解説書です。

最後の箱館奉行の日記 (新潮選書)
田口 英爾
新潮社


 杉浦は知識欲旺盛で、過激尊王攘夷論者・大橋訥庵の門下にいたこともありますが、かならずしも訥庵に全面的に同調していたわけでありませんで、バランス感覚にすぐれ、幕府官僚としての節度を守りつつの尊王開明派であった、といえそうです。
 その経歴を見ますと、大番衛士から鉄砲玉薬奉行、洋書調所頭取と昇進しまして、文久2年(1862)目付となり、翌年、松平春嶽に随行して、攘夷テロリズムの吹き荒れます京へ。杉浦は、このとき同時に浪士掛にもなっていますから、後の新撰組の中核メンバーが募集に応じました将軍護衛浪士の京での扱いにも、かかわっていたわけです。
 文久3年、春嶽が政治総裁職を放り出し、京を離れましたのにともない、杉浦も江戸へ帰りますが、翌元治元年、今度は将軍家茂に随行しまして、再び京へ。8.18クーデターの後ですから、過激浪士は一掃されていたのですが、このとき、横浜鎖港問題にまきこまれまして、鎖港不可能派だった杉浦は、江戸に帰った直後に罷免され、以降、一年半の間、自宅謹慎となります。
 そして、函館奉行赴任です。
 つまり杉浦は、京都におきまして、激動した幕末の政治状況を目の当たりにした経験を持ち、幕府の倒壊をも、冷静に受け止めるんです。

 杉浦が、鳥羽伏見の敗戦情報を得たのは、一ヶ月近く遅れてのことでした。
 部下からは、江戸に引き揚げようという意見が出るんですが、杉浦はそれを退け、幕府の姿勢を問い合わせる建白書を提出し、同時に一万両と米を江戸に送ります。
 杉浦の最大の懸念は、樺太でした。以下、上記の本から、田口英爾氏の建白書口語訳の一部引用です。

 「第一の大憂患は北地(樺太)のことである。たとい雑居の条約を取交しているといっても、もし支配向が現地を引揚げてしまったならば、ロシア人は現地人の撫育を大義名分として、たちまち南進してくるだろう」
 
 慶喜恭順の知らせに、杉浦は、奉行の職務を全うした上で、朝廷に引き継ぐ決心をします。
 4月になり、新政府の先触れが到着した10日、ロシア領事ビュツォフは、杉浦に面会を求め「抵抗するならばロシアが武器も兵力も援助する」と申し出ましたが、もちろん杉浦は断りました。

 そして4月26日、清水谷総督一行が到着します。実は、判事・井上石見を筆頭とします一行の中には、坂本龍馬の甥・小野惇輔(高松太郎)がいます。杉浦と小野は、京で面識があったようです。
 引き継ぎは見事に行われ、残留を希望する幕府の役人はそのまま残り、杉浦は、江戸へ帰りたいと願い出た者とその家族を引き連れ、箱館を離れました。
 権判事・岡本監輔は、農工300人ほどを募って樺太に渡り、魚場を開いて開拓に努めます。

 さて、実質的な長である、井上石見です。
 彼については、fhさまのところが詳しいんです。「種蒔く人」「備忘 井上長秋2」「宗谷のふたり」「北から来た男は北へ帰る。」などから、簡単に足取りをまとめさせていただきます。

 まず、5月13日、プロシャ領事で、貿易商でもありましたコンラート・ガトネルの兄で、七飯で開墾事業を行おうとしていたリヒャルト・ガトネルと会い、雇い入れを決めたようです。杉浦奉行は、ガトネル兄弟と親しくしていまして、七飯の開墾も、やらせてみようとしていたようなんですね。
 このガトネル、後に榎本武揚を中心とします旧幕府軍が箱館を占領しましたとき、300万坪という広大な土地をを99年間借りる契約を結びまして、騒動になるのですが、石見との契約は、雇い入れでして、ヨーロッパ式に機械を導入して手本になるような農場を作る、ということです。

 これ、やり方としては、黒田清隆が開開拓使でアメリカ人を雇い入れて、模範農場を作ったことに近いですよね。イギリスVSフランス 薩長兵制論争2で書いたのですが、どうも、薩摩密航留学生一行がイギリスで見学しました近代的農場から、「西洋流行之農器」による「農兵・屯田兵的な形での開墾」は、幕末薩摩藩におきまして、新しい日本の国作りにおいての基本アイテムになっていたのではないか、という気がするのです。

 それにいたしましても、新政府の箱館裁判所改め箱館府には、お金がありません。杉浦奉行は、一万両を幕府に送ってしまいましたし。
 いや、一万両って、もしかして購入船の代金だったんじゃないんでしょうか。
 といいますのも、杉浦奉行は、プロシャ船ロア号を買う契約をして、内金を払っていたそうなのですね。5月30日に船は箱館に着き、支払いを求められます。
 石見は、横浜、江戸へ、金策に走ります。まずは、6月20日横浜で、大阪から来たばかりの大久保利通に会います。そこで小松帯刀にも会い、金策を頼んだみたいなのですが、だめなので、今度は神奈川裁判所の寺島宗則さんにお願い。しかし、こちらも文無しです。26日には江戸で、また大久保に会っているそうです。
 あるいは、大久保から紹介されたのでしょうか。結局、イギリス公使パークスの口利きで、イギリス系の銀行から無事、借金。
 
 7月7日、石見は、小松帯刀、大久保利通、八田知紀、中井桜洲など、在京薩摩人に送別会を開いてもらい、さらに7月11日には、小松、中井、松根(宇和島)にアーネスト・サトウをまじえて宴会。
 7月22日、石見は、アーネスト・サトウとともに、イギリス船ラットラー号に乗り、出港します。
 えーと、ですね。たしか、「フランス艦長の見た堺事件」に載っていたのでは、と思うのですが、確かこのとき、エトロフ島にロシア人が基地を作りはじめた、というような噂が入ったんだったかなんだかで、イギリス、フランスともに、軍艦を千島列島偵察に出すんですね。
 石見は、そのイギリス軍艦に同行し、7月26日函館着。
 その後、石見はロア号に乗り換え、イギリス軍艦と東西に別れて、探索に出ます。
 イギリス軍艦は宗谷沖で座礁し、サトウはじめ、乗り組んでいたイギリス人は全員、フランス軍艦デュプレスク号に救助されます。
 同じころ、実はロア号も遭難していたんです。しかもこちらは、行方不明。
 井上石見は北海の霧の中に消え、そして箱館府は、舵取りを失ったまま、旧幕府軍の襲来に遭って、青森へ逃走します。

 えーと、岡本監輔は、ずっと樺太にいます。
 近デジに、「岡本韋庵先生略伝」というのがあるんですが、これによれば、です。明治2年になってロシアとの摩擦が頻発します中、樺太開拓に従事していましたところが、6月24日、ロシア船が母子泊(ハコドマリ)に現れて、アイヌの墓所や漁民の住んでいる場所に宿舎を建て始め、応援を求めようと箱館に出たのだそうなのです。
 旧幕府軍が降伏しましたのが、5月18日です。清水谷総督をはじめとします箱館府のメンバーは、青森以来、黒田清隆の指揮します薩摩中心の軍といっしょになり、戦勝後は函館に残って、戦後処理をしていました。

 明治2年になりまして、樺太で紛争が頻発しましたのは、おそらく、なんですが、北海道の内乱にロシア側が乗じたわけですね。杉浦奉行の危惧は当を得ていたわけでして、ガトネル問題といい、榎本武揚と旧幕府軍の行動には、思慮の足りない処置が見受けられます。

 監輔が函館に着きましたのが7月のいつなのかわからないのですが、ちょうどこの時期、中央では、戊辰戦争の終結と版籍奉還にともなって、大規模な官制改革があり、蝦夷開拓御用局が開拓使となって、開拓使人事が行われています。
 その事実関係を、以下、榎本洋介氏の「開拓使と北海道」を参考に述べますが、起こったことの解釈につきましては、私の考えです。

 7月11日、鍋島閑叟が大久保利通を訪問しまして、「開拓一条御談」と大久保日記にあります。つまり、閑叟から開拓使について、大久保に、なんらかの相談があったわけです。
 13日には、閑叟が開拓使長官となります。
 16日、大久保日記によれば、「蝦夷開拓議事、大綱決定」
 20日、民部大輔・広沢真臣(長州)が兼任で開拓使出仕。
 22日、島義勇(佐賀)、開拓使判官となる。
 24日、清水谷公考が次官に任じられ、兵部省が、蝦夷地開拓返上願書を出します。

 そもそも、です。官制改革の立案者は佐賀の副島種臣であり、大久保利通は副島と連携して、政権の中核となっていたわけですが、開拓使については、大久保利通がしきっていて、佐賀の元藩主・鍋島閑叟と相談し、名目上、広沢を加えることで長州閥の了解を得て、佐賀閥主導で蝦夷開拓を進める、となったように見えます。
 24日の兵部省云々といいますのは、です。兵部省は、長州の大村益次郎が事実上の長でして、明治2年の初めから、会津藩をはじめとします降伏人を、石狩、小樽、発寒へ移住させて開拓する、という計画を立てていたんです。大久保と閑叟が相談しました開拓使の方針も、函館から石狩へ開拓使の中心を移し、石狩を中心として開拓する、というものでして、兵部省の施策と重なるのです。兵部省に手を引かせるために、広沢を抱き込んだのではないでしょうか。

 ところがこの24日、岡本監輔が東京に姿を現し、樺太の危機を訴えます。
 監輔が最初に訪ねたのは、大久保利通の家です。「岡本監輔入来。唐太より今日着ニて彼地之近状承り実ニ不堪驚駭候」と大久保日記。
 翌25日、監輔は開拓使判官に任じられ、26日、樺太事件は廟堂に報告され、議論。
 あるいは、これと関係しているのではないかと思われるのですが、翌27日、長州閥のトップ・木戸孝允は、兵部省が蝦夷から手を引くことにクレームをつけ、29日、大久保がそれを了承します。

 樺太問題が緊急なものになった以上、兵部省の協力が不可欠となりかねない、という話だったのではないのでしょうか。

 さて、この樺太緊急事態によって、開拓使人事に大きな変更が生じるのですが、榎本洋介氏はそれを、「樺太放棄へ向かう政策決定を弱腰外交と解釈するであろう攘夷派士族の脅威を加える視点で考察」されているんですが、ちがいます!!!
 まず大久保は、この年、樺太放棄を考えたりはしていません。外交交渉によって、なんとか島の半分を日本領とできないものかと、モンブラン伯爵を起用したがゆえの人事ではないのかと、私は推測しています。
 モンブラン起用には証拠がありまして、詳しくは、次回に続きます。


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