郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編下

2010年10月03日 | モンブラン伯爵
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上の続きです。

 今回のシリーズは、これまでにも何度か出して参りました、下の榎本洋介氏のご著書に誘発されましたものでして、デ・ロングと樺太問題が出てきたものですから、これをメモしておこうと思い、ただ、モンブランの件がそっくりぬけているのが残念、と書き始めたものなのです。

開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 デ・ロングについては、まだろくに調べておりませんで、ちらっとでも見ておこうとアジ歴で検索を書けましたら……、出てくるわ出てくるわで、調べている余裕がありません。
 結局、「柯太境界談判」をしらみつぶしに読む必要があるのでしょうけれど、私、学者じゃありませんし、誰かきっちり、明治初年の樺太問題と露英仏米外交について調べてまとめてくれっ!!!と、悲鳴をあげたくなりました。
 そんなわけで、ちょっと見た程度なんですが、アジ歴の「柯太境界談判」も材料に、このシリーズを締めくくりたいと思います。
 その前に、ちょっと、前回書き忘れましたことを。
 モンブランが短時間なりとも函館に滞在したとしましたら、おそらく、堀達之助に会ったでしょう。
 堀達之助は、長崎通詞の家に生まれ、ペリー来航時に活躍しました洋学者で、慶応元年(1865年)から箱館奉行所で通訳を務め、そのまま新政府に奉職。明治2年には開拓使権少主典として、函館にいました。彼の次男・堀孝之は五代友厚と親しく、薩摩藩士となって、幕末留学生を伴いました五代の渡欧に同行し、通訳を務めて、モンブランのインゲルムンステル城に滞在したんです。

 で、本論ですが、まず、前回の以下の部分です。

此度佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候処右地方境界凡先年徳川ノ頃五十度ニテ相定メ云々ノ談判モ 有之当事政府ノ論ニテハ境界之処 如何之庁議一決ニ候哉同人心得迄に承置度段申出候ニ付 其段当月八日外務卿殿より岩倉大納言殿エ被申入御返答承之上 同人出帆之都合ニて出立見合せ此程中より築地ホテルに旅宿いたし日々宿料相掛候下知を相待居候 右は過日も認メ上候通同人儀来夕給料等も不被下儀ニて御用向相勤候事故御沙汰以来滞在中之宿料丈ケハ相当ニ不被下候ては相成間敷 就ては御下知速緩ニ相成候得は一同ハ一日丈ケノ御失費も相懸かり候

 えーと。いいかげんな口語訳です。ちがっていたら、ごめんなさい。
「このたびフランス人モンブランを我が国の弁理職に任じたことではあり、樺太が日露雑居になっている件について交渉することを命じました。樺太の日露国境について幕府は50°線で定めようと交渉してきた経緯があり、モンブランから、今の政府もそういう交渉でいいと庁議ではっきり決めているのか心得までに聞いておきたいと言ってきたので、10月8日、沢外務卿から岩倉大納言へ申し入れました。返答があってからと出発を見合わせておりまして、10月半ばから築地ホテルに泊まっています。モンブランは給料も受け取らず御用向きを務めるわけで、宿泊料くらいは払わないわけにはいかず、返答が一日のびればそれだけ費用もかかります」

 なんつー貧乏たらしい外務省なのか、とあきれるのですが、「幕府以来の50°線国境を主張」で首脳陣がまとまったのかどうか、返答の書類を、私は見つけることができないでいます。
 「モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟」で書いていますが、モンブランが前田正名と御堀耕助を伴い、フランスへ向けて出航しましたのが、11月24日。一ヶ月以上後のことです。
 時間かかりすぎでして、結論は出たのかと首をかしげたくなるのですが、私は、デ・ロングにまつわる資料から、なんですが、一応、「50°線国境主張をしてみよう」でまとまったのではないか、と思います。

 デ・ロングは、モンブランが離日する以前、外務省に接触し、樺太問題を問い合わせています。レファレンスコードB03041107700に、以下のようなデ・ロングの書簡があります。

合衆国ニてアラスコ並其領地を残らす 魯西亜より買入遣し以来北太平洋之 漁猟大ニ増進せり就ては近日右精細ニ取調んと頼すれは我政府並其業を 営む我国民之為貴国の北境いつれニ 御定相成居り候哉承知致し度存候 以上 千八百六十九年 大十二月十三日 合衆国ミニストルレジデント シ・イ・エル・デ・ロング 東京 外務卿閣下号

「アメリカはアラスカをロシアから買って、以来、北太平洋の漁業が盛んになっていましてね、いろいろ細かく実態を調べたいものだから、わが政府と漁労民のために、おたくとロシアの国境がどう定まっているのか、教えてくれないかな デ・ロング」

 この手紙は、1869年12月13日付けですから、明治2年の和暦でいえば、11月13日付けになるようなのです。
 これについての外務省の回答は、モンブラン離日後の12月10日、幕府がロシアと結んだ条約の文面を示すことでなされたと、レファレンスコードB03041107900の書類に見えます。このとき同時に、どうも日本側の主張が50°線国境であることも伝えたようなのですね。
 といいますのも、デ・ロングはさっそく、「アメリカこそが国境線を定める交渉の仲介をしよう!」、と申し出たらしく、レファレンスコードB03041108600に、「@@公使ヂロング 至澤 宣嘉 寺島宗則 樺太島境界一件 米大統領ノ@@依頼ノ件 」という明治3年3月20日にまとめられた書類があります。
 このとき、デ・ロングになにを依頼していたかの具体的な内容こそが、最初、私が榎本氏の「開拓使と北海道」に引用されていました資料を見て、メモメモ!!!と喜んだものだったようなのです。
 以下、明治3年2月13日付、岩村通俊宛、東久世通禧書簡(「岩村通俊関係文書」)の一部を、孫引きです。

「樺太之経界は五〇度を限りとし、来春古丹(クシュコタン)へ開港致候条約面に基き、アメリカ公使ヘ中人相頼魯政府ヘ申入候筈、其上にて買却ならは買却にて先々手始め中人にアメリカを入候事決定候よし」
「樺太国境は50度線ということで、クシュコタンを開港を条件に、アメリカ公使に仲介に入ってもらってロシアに申し入れるはずなんだよね。その上で、売却するなら売却するという話になるかもしれないが、まず手始めにアメリカを仲介に入れることが決定したんだよ」

 というわけでして、モンブランへの回答も「50度線国境でOK」ということだったと、推測されるわけなのです。
 で、モンブランの交渉がどうなったか、なのですが、在パリのロシア大使館にかけあうためには代表権が必要で、なにしろ「周旋申し付けた」わけですから、日本側はそれを了承していたのですが、「フランス人が日本の代表権を持つこと」をフランス政府が拒み、モンブランが公使としての役割を果たすことはできないと、早々とわかったようなのです。
 またフランス政府にしてみましたら、普仏戦争直前の多難な時期、ロシアが遠い極東でなにをしようが、気にかけるような余裕はなかったでしょう。

 間髪入れない、デ・ロングのアメリカ売り込みには感心するのですが、B03041108600には、日本政府がアメリカ仲介国境線策定交渉を決定したことに対する、反対意見書も添付されております。署名がなく、だれの意見書なのかわからないのですが、おそらく岡本監輔のものでしょう。「樺太は、本来全島が日本領なのであり、ロシアとの雑居という現状はまちがっているが、すでにロシアに呑み込まれようとしている現状で、国境策定をすることはもっとよくない。雑居していれば、いつかは盛り返すという望みがあるが、国境を定めてしまえば、本来日本のものである領土が永遠に失われてしまう。しかも、それをアメリカの仲介でするなどと、日本の弱みをさらすようなもので、費用も高くつくだろう。現状の方がましだ」というようなものです。

 一見、現実離れした意見書に見えるんですが、この時点においては、実のところ、かなり的確に状況を把握しているのです。
 検索をかけますと、麓慎一氏の「維新政府の成立とロシアのサハリン島政策―プリアムール地域の問題に関する特別審議会の議事録を中心に―」という論文がPDFで出てきます。明治初年のロシア側の樺太問題における姿勢を研究しましたもので、これによりますと、1870年(明治3年)5月のロシア当局は、「樺太雑居条約が、維新以来、日本に有利に作用している」と、脅威を感じていたんですね。岡本監輔の樺太移住振興は、意味のないものではなかったのです。
 ロシアにしましたら、樺太はどうしても手に入れておきたくはあったんですが、一方、ロシアの重心はヨーロッパに偏っていますから、極東の島のために武力衝突まではしたくはありませんでした。日本の後ろにはイギリス、アメリカがいる、ということで、そうなった場合には、国際的非難をあびることを、覚悟する必要もありましたし。
 そんなわけで、このとき日本が樺太移民を強化しましたからこそ、ロシアは国境策定交渉に応じることを望み、「できることならば樺太全島と千島の交換をしたいけれども、日本側はどうしても樺太南部に固執するだろうから、できるかぎり南へ国境線を下げることで妥協しよう」という結論だったんです。
 デ・ロングの介入は、どうも失敗に終わったらしいのですが、とはいえ、日本にとって、アメリカを味方につけている、と見せつけたことになり、それ自体は、けっして悪いことではなかったのですが、問題は、どうも「樺太の維持なんて無理なんだから、交渉がだめなら売ればいい」という、日本の弱腰の姿勢だったんです。

 明治3年の11月、ロシアは、まずは在北京代理公使ビュツォフを日本に派遣し、外務卿の沢と大輔・寺島宗則と会談を持ちます。このときの日本の外務省の姿勢は、まずは全島日本領を主張し、最低でも50°線から交渉をはじめるべき、という申し分のないものでした。このときの会談結果に基づき、翌明治4年5月、日本は参議・副島種臣をポシェット湾に派遣するのですが、前年の約束に反して、ロシア側は交渉に応じませんでした。
 1年の間に、樺太の状況が、ロシア有利に激変していたのです。
 元凶は、明治3年5月、黒田清隆が開拓使次官に就任し、この当初、樺太専任となって問題を手がけたことでした。
 黒田は結局、当初から樺太放棄論だったようでして、外務省をしきる寺島宗則と意見対立していたことが、榎本氏の「開拓使と北海道」に見えます。
 そりゃあそうでしょう。最初から放棄前提の樺太施策をとったのでは、交渉にもなにもなりはしません。さすがに、幕末から薩摩の対英外交をしきっていました寺島は、そこらへんの機微を、よく呑み込んでいたのです。
 デ・ロングが、この問題で具体的にどう動いたのか調べてはないのですが、意見書のいうごとく、どうも途中で、「樺太経営なんて無理だから、だめなら売ってもいいや」という日本の側の弱腰姿勢を、ロシア側にさらしたのではないか、という疑いがもたれます。

 明治2年から出ていました樺太売却論は、最初パークスが「ロシアがアラスカをアメリカに売ったように、ロシアに売ってもいいんじゃないか」ともらしたそうなんですが、これは金満海運国家イギリス公使の見当違いのアドバイスでした。金のない大陸国家ロシアには、買う気など、まったくありません。
 また、これもパークスのアドバイスがはずれていたことなのですが、当時のロシアは、北海道本土へまで攻め寄せる気は、まったくありませんでした。
 となれば、手駒がなければ交渉は成り立たないのですから、樺太南部をできるかぎり維持する努力が、日本側に必要だったのです。
 イギリス、アメリカ、フランスの理解を得て味方につけることは大事なことですが、同時に、日本が領有意欲を行動で見せなければ、相手(ロシア)には通じないのです。モンブランの建言の方が親身でした。アントワンくんの売り込みは余計でしたが、砲兵を駐留させるくらいのことは、した方がよかったでしょう。どうもこの当時から、外交の武器、抑止力としての駐留軍という概念が、日本人には希薄だったようです。

 (追記) うっかりしていました! 犬塚孝明氏の「寺島宗則」によれば、寺島はすでに明治2年の段階で、パークスのいいかげんなアドバイスを「日本への内政干渉になりかねない」と指摘し、箱館への高官派遣を進言しています。あるいは、なんですが、パークスの樺太現状説明とロシアの意図分析を、鵜呑みにすべきではないと見た寺島が、モンブランの樺太派遣を考えついたのかもしれません。
となれば、「樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付」ということの意味は、とりあえずロシアが樺太でやっていることへの抗議、だったんですわね。で、あわよくば国境交渉の糸口を作ろうと。寺島ママン、すごいです! フランスにとっての時期が悪かったことが、残念ですが。

 
 大久保利通はいったい、黒田と寺島と、ともに薩摩閥の、どちらの意見に傾いていたのでしょう。
 黒田に樺太を任せたところをみれば、放棄論に傾いていたのか、と思えますが、この甘さが、条約改正交渉でデ・ロングにしてやられた原因だったのでしょう。
 北海道開拓は、維新当初、井上石見がプロシャ人を雇い入れたり、イギリスから金を借りましたりで、特にどこに頼る、という方針もなかったことは見てきましたが、デ・ロング介入、黒田の開拓使次官就任で、アメリカ一辺倒が決定したようです。
 当時のアメリカは新興国で、列強の中ではもっとも日本に好意的、といっていいような外交姿勢でしたし、開拓使お雇いアメリカ人として日本にやってきましたのエドウィン・ダンが、日本人の妻を娶り、ちょうど日清戦争のとき、在日本アメリカ公使となっていた、というような幸運の種も生まれましたので、かならずしも、それが悪かったわけではなかったのですけれども。
 
 岡本監輔は、失意のうち、明治4年に開拓使を辞職しました。明治37年、日露戦争の最中、東京の病院で、「旅順はまだ落ちないか、樺太へ早く!」と叫んで、息を引き取ったといわれます。

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